第3話 見知った天井

目を開けた俺の眼前にあったのは、見知った天井だった。

相変わらずボロボロのベッドと、埃っぽい空気の漂う部屋。そこは、親父が遺した診療所の病室だった。


「……どれくらい、寝てた?」


「運転中に意識を失って、ここに運ばれてから一時間ちょっと」


咲が即答する。相変わらず冷静で、声のトーンもこの狭い空間にきちんと収まるよう調整されている。


「そうか……」


短く返しながら、俺はゆっくりと指を動かす。

痺れなし。

言葉も出る。

頭痛は?ーーない

吐き気は?ーーない

視野欠損なし。麻痺なし。健忘もない。

――急性硬膜外血腫の兆候は、今のところ見当たらない。


俺が身体を起こそうとした、そのとき。

大男がこちらの動きに気づいたようで、弾んだ声を上げる。


「お、緋山!やっと起きたか!」


狭い病室には不釣り合いなほどの大声が響き渡る。寝起きの体には、少々きつい。


「なあ緋山。あれだ、えっと……CT?とか、なんか脳の検査とかしなくていいのか?」


鷲尾さんが、遠慮がちに尋ねてくる。


「大丈夫ですよ、鷲尾さん。頭痛ももうないし、吐き気もない。麻痺や言語障害の症状も出てないから、わざわざCTを撮るほどじゃないです」

少し間を置いて、付け加える。

「それに、この規模の診療所にCTはありません」


「おお、そうか!まあ、お前がそう言うなら間違いねえな!」


鷲尾さんは、ぱっと表情を明るくしてそう言った。

その声だけが、この湿っぽい病室の空気を、わずかに軽くしてくれていた。


徐々に正気を取り戻していた俺は、

今まさに解決すべき問題――その張本人へと視線を向けた。


申し訳なさを滲ませた面差しのまま、彼女は椅子に静かに腰を下ろしている。

その顔立ちと佇まいは、年端もいかぬ少女のものとは思えないほど、大人びた陰影を宿していた。


「……君のことを、話してくれないか」


俺は言葉を選びながら、ゆっくりと問いかける。


しかし、彼女は何も答えず、ただ沈黙を守り続けていた。


「さっきから、ずっとこの調子よ。何を聞いても、答えてくれないの」


咲が、状況を補足するように淡々と付け加えた。


「俺たちは、お前が目を覚ますまで待ってたんだ」


鷲尾さんが腕を組み、低い声で切り出した。


「だがな、やっぱり警察に通報するべきだと思う。さっきの連中……ありゃ、はっきり言って普通じゃねえ。動きも、空気も、まるでカタギじゃなかった」


一拍置き、俺を一瞥する。


「それに、緋山を一発でのしちまうなんてよ。あのデカいの、いったい何者なんだ」


「はは……」


俺は乾いた笑いを漏らした。


「鷲尾さん。俺はそんな大した人間じゃありませんよ。でも、たしかに……連中は、ただの雇われチンピラって感じじゃなかったですね」


「だろ」


鷲尾さんは短く頷く。


「なあ、緋山。俺たちは、これ以上この一件に首を突っ込むべきじゃねえ」


その声には、珍しく迷いが混じっていた。


「このお嬢ちゃんを狙ってる連中……俺たちみたいな、ちっぽけな探偵事務所が抱え切れる“山”じゃねえよ」


「私も、鷲尾の意見に賛成」


咲が静かに言葉を重ねる。


「緋山くん。正直言って、この件で私たちが“失うもの”の方が多いわ」


冷静で、打算的で、それでいて現実的な声音だった。


「すぐに警察に通報するべきよ」


――その瞬間だった。


「それは、やめてください!!」


張り詰めた空気を切り裂くように、少女の声が病室に響き渡る。

その声は、これまでの落ち着き払ったものとは違っていた。

震え、掠れ、必死に感情を押し殺そうとしている――


そのとき初めて、俺は思った。

ーーこの子は間違いなく、年相応の「少女」なのだと。


「……ごめんね。せっかく、この事務所に来てくれたのに」


俺は少女のほうを見て、静かに言った。


「いきなり警察だなんて話になって」


少女は何も言わず、ただ俺を見つめ返してくる。


「正直に言うとさ」

俺は一度言葉を切り、部屋の中を見回した。

「俺は、まだ警察に通報するのは時期尚早だと思ってる」


鷲尾さんと咲に視線を向け、そのまま言葉を続ける。


「探偵っていうのは、警察に相談できない事情を抱えた人が、最後に辿り着く場所だろ?」

俺の声は、自然と熱くなっていた。

「俺たちは、そういう人たちのためのセーフティネットとして生きることを選んだ。人を助ける仕事を、選んだはずだろ」

その言葉は本心から出たものだった。俺たちは退屈の中で、

いつしか事務所を立ち上げた頃の初心を忘れていたのかもしれない。




室内が静まり返る。

鷲尾さんも、咲も、何も言わずに俺の言葉を聞いていた。


「俺たちは、君のことを助けたい」

俺は、もう一度少女に向き直る。

「でも、助けるためには……君のことを知らなきゃいけない」

一歩も引かず、言葉を重ねる。

「依頼人である君と、俺たち探偵が、互いに信頼し、持っている情報をすべて共有しないと、仕事はできないんだ」


そして、淡々と、結論を口にした。


「だから――」

「まずは、名前を教えてくれないか」


少女は、ほんの一瞬だけ視線を伏せ、

やがて、小さく息を吸ってから答えた。


「……神谷です」

かすれた声だったが、はっきりとした口調だった。

「神谷瞳。……かみや、ひとみです」


その名を口にした瞬間、部屋の空気がわずかに変わった気がした。


この少女――神谷瞳との出会いが、やがて緋山探偵事務所を大きく変えることになるなど、

その時の俺たちはまだ知る由もなかった。


ただ、長いあいだ沈黙していた歯車が、彼女の存在をきっかけに確かに音を立てて回り出した――

そんな予感だけが、胸の奥に残っていた。

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