第2話 逃走

第2話 逃走


男たちの視線は、俺たちには一切向けられていなかった。


まるでこの場に存在しないかのように、

彼らの関心は一点――少女の姿にのみ、鋭く注がれていた。


「セカンドの存在を確認」


男の一人がそう言った。


意味は分からない。

だが、ろくでもない言葉だということだけは、直感で理解できた。

やがて、その中でもひときわ背の高い男が一歩前に出る。

年齢は四十前後だろうか。口元には張り付いたような笑みを浮かべ、

場違いなほど朗らかな調子で口を開いた。


「これは失礼。突然押しかけてしまって」


男はそう言って、わずかに頭を下げる。

声は穏やかだった。

だが、目が笑っていない。


「我々は、この子を迎えに来ました」


迎えに来た、という言葉が、嘘だと分かる。

言葉と視線の温度が、致命的に噛み合っていなかった。


「こちらに置いていただき、ありがとうございます。お礼については、後日必ず――」


そこまで言ってから、男の視線が少女へと向けられる。


「ひとまず、我々のほうでお預かりしますので」

その声音は終始穏やかで、言葉遣いも丁寧だった。

だが、その裏に潜むものを、俺は直感的に理解していた。

これは“お願い”ではない。最初から、拒否という選択肢は用意されていないのだ。


「おい、待てよ」


低く、荒い声が割り込む。

鷲尾さんだった。


「どう見てもカタギじゃねえ連中が、ぞろぞろと入ってきて、“迎え”だと?」


一歩踏み出す。

床板が、今度ははっきりと鳴った。


男たちの肩が、わずかに動く。

全員が同時に、戦闘距離を測り直したのが分かった。


空気が、目に見えて張り詰めていく。

穏やかな言葉の裏に潜む暴力と、それに真正面から向き合おうとする力。

その二つが、狭い事務所の中で静かに火花を散らし始めていた。


「警察を呼びましょう」


俺は、視線を外さずに言った。


「ははは」


背の高い男が、楽しそうに笑う。


「勘違いされていますね。我々は教育関係者でして」


教育。

その単語が、空気を腐らせた。

この無駄に鍛え上げられた体躯、この隙のない立ち居振る舞い。

どう見ても、子ども相手に黒板を叩く教師のそれではない。


そして何より――


俺の視界の端で、少女の肩が小さく震えた。

先ほどまで張りつめていた背筋はすっかり強張り、

指先は白くなるほど握りしめられている。


――恐怖。


どんな説明よりも雄弁だった。


「……それじゃあ、瞳ちゃん」


男は、まるで旧知の保護者のような親しげな口調で、

少女に声をかける。

「そろそろお塾に戻ろうか。あまり遅くなると、みんなに迷惑をかけてしまうよ?」


その瞬間だった。


少女の顔から、血の気が一気に引いていく。

唇がわずかに震え、呼吸が浅くなるのが、はっきりと分かった。


――ああ。間違いない。

こいつらは、

この子にとっての「帰る場所」などではない。


「……塾の名前を、教えてください」


俺は男たちから視線を逸らさぬまま、静かに問いを投げた。

いつの間にか、胸の奥で切り替わる感覚があった。

探偵としての勘が、久方ぶりに目を覚ましていた。


「…………」


つい先ほどまで、饒舌に言葉を並べ立てていた背の高い男が、ぴたりと口を閉ざす。

作られていた笑みが、わずかに引きつったのが分かった。


「どうした?」

鷲尾さんが詰める。

「言えねえのか?塾の名前くらい」


一歩前に出た鷲尾さんの視線は、もはや脅しそのものだった。


「……困りましたね」

男はようやく口を開いたが、その声音からは、先ほどまでの丁寧さはすっかり失われていた。

苛立ちを隠そうともせず、舌打ち混じりに言葉を続ける。

「どうにも、話が前に進まない」


その言葉を合図に、

男たちが一斉に動いた。

背の高い男が少女の腕を掴み、乱暴に自分の方へと引き寄せる。

同時に、残る男たちが俺たちと少女の間へと割り込み、

無言の壁となって立ちはだかった。


もはや言い逃れの余地はない。

これは「保護」などではなく、

明確な――誘拐だった。


それでも、不思議なことに、俺たちは思いのほか冷静でいられた。

覚悟が決まった、と言うべきか。

あるいは、ここに至るまで積み重なっていた違和感が、すでに心の準備を整えていたのか。

俺たちはそれぞれ、自分のやるべきことを見定め、即座に体を動かす。


――どんッ。


鈍く、そして暴力的な音が事務所に炸裂する。

視線を向けた先で、男の一人が、まるで紙屑のように壁へと叩きつけられていた。

何が起きたのか、理解するより先に身体が反応する。

殴り飛ばされた距離は、優に八メートルはあっただろう。


この筋骨隆々の男たちを、正面から殴り飛ばせる存在が、

――うちには、一人いる。


怪物――

鷲尾克雄である。


しかし、残った男たちは、さしたる動揺を見せなかった。

仲間が一瞬で吹き飛ばされたという事実を前にしてなお、彼らは冷静だった。

彼らもまた、己の役割を理解している。

そう言わんばかりに、迷いなく次の行動へと身体を運ばせる。


次の瞬間、男たちは一斉に鷲尾さんへと襲いかかった。

拳の振り、踏み込みの速さ、間合いの取り方――

そのどれもが、明らかに素人のそれではない。


鷲尾さんは、襲い来る拳を捌き、受け流しながら応戦する。

だが、それでもなお、確実に打撃は通っていた。


「……いってぇな」


短く吐き捨てるような声。

他人の拳を受けて痛みを口にする鷲尾さんの姿を、俺は初めて見た。


その一瞬で、理解する。

こいつらは、ただのチンピラでも、脅し要員でもない。


その間にも、背の高い男は少女の腕を離さない。

彼女を自分の懐へと抱え込んだまま、ゆっくりと後退し、扉のドアノブに手をかける。


逃がすわけにはいかない。


鷲尾さんが他の男たちを引きつけている、その一瞬の隙を逃さず、俺は床を蹴った。

狙いは一つ。背の高い男の――後頭部。


全身の力を拳に乗せ、俺は、渾身の一撃を叩き込んだ。

背の高い男は、ほんの一瞬だけ体勢を崩したように見えた。


だが、それも刹那のことだった。


次の瞬間、男はゆっくりとこちらを振り向き、

まるで出来のいい冗談でも見つけたかのように、にこりと笑った。

その笑みを見た瞬間、格闘技に十年以上身を置いてきた俺の矜持が、かすかに軋むのを感じた。


そして――

握っていた少女の腕を、あっさりと離す。


両腕が自由になった男の立ち姿には、隙というものが一切存在しなかった。


俺は、全身の毛穴が一斉に開く感覚を覚えた。

意識が研ぎ澄まされ、あらゆる注意が、ただ一人――目の前の男へと集中する。

交感神経が過剰に刺激され、全身の血液が、内側から沸き立つように脈打っていた。


――来る。


直感がそう叫んだ、その瞬間。


男の拳が、視認する間もなく俺の間合いへと侵入してきた。

凄まじい速度だった。

もしまともに受けていれば、一撃で頭蓋が砕けていたに違いない。


だが、俺は限界まで警戒していた。

距離を取り、重心を落としていた判断が、わずかに功を奏す。


一撃目――回避。


しかし、それで終わる相手ではなかった。

一撃目の踏み込みで一気に詰められた間合いのまま、二撃目が間髪入れずに襲いかかる。


俺は反射的に両腕を上げ、その左拳を受け止めた。骨にまで衝撃が伝わる。


――まずい。


当然のように、男の右腕は空いていた。


三撃目。


避ける余地など、どこにもなかった。


容赦のない衝撃が視界を白く染め、

俺の身体は、まるで物のように宙を舞った。


床に叩きつけられた瞬間、意識が遠のきかける。


――ビリッ。


微かな破裂音とともに、空気が震えた。


背の高い男が、短く息を詰まらせる。

次の瞬間、男の背中に突き立てられていたのは、咲の握るスタンガンだった。


「……っ」


さすがの男も耐えきれなかったのだろう。

身体を強張らせ、そのまま膝から崩れ落ちる。呻き声を漏らしながら、床に伏した。


「今よ! みんな、裏口から逃げる!」


咲の叫びが、張り詰めていた空間にこだまする。


振り返った彼女の表情には、迷いが一切なかった。

どうやら咲は、戦闘の最中ですでに裏口の確保を済ませ、スタンガンを用意し、

この瞬間を――男が完全に隙を晒す一瞬を、虎視眈々と狙っていたらしい。


その有能さに感嘆する暇など、あるはずもなかった。


「行くぞ、緋山!」


鷲尾さんに半ば担ぎ上げられるようにして、俺は裏口へと引きずられる。

視界が揺れ、足元がおぼつかない。


少女は迷わなかった。

先ほどまで恐怖に震えていたとは思えないほど、軽やかな動きで、俺たちの後を追ってくる。


裏口を抜けるまでに、事務所内にいたはずの男たちが追ってくる気配はなかった。

どうやら、その役目はすべて鷲尾さんが引き受けてくれたらしい。


俺たちはそのまま一階のガレージへ駆け下り、事務所用の車へと雪崩れ込む。

エンジンが唸りを上げ、車体が勢いよく飛び出した。


街の灯りが、流れるように後方へと遠ざかっていく。


薄れゆく意識の中で、ハンドルを握る咲の荒い運転だけが、

やけに現実味をもって脳裏に焼き付いていた。

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