第4話 診る
彼女――神谷瞳は、少し間を置いてから、静かに口を開いた。
「……私は、ある施設に閉じ込められていました」
声音は落ち着いている。
だが、感情を押し殺しているのが、かえってはっきり伝わってくる。
「そこで、一日中、勉強をさせられていたんです」
「勉強?」
鷲尾さんが、思わず聞き返す。
「はい。いろいろ……」
一瞬だけ視線を伏せ、瞳は淡々と言葉を続けた。
「外国語や、数学、物理、化学……医学や社会学も。必要だと言われたことは、全部です」
「なんだそれ……ひでえな」
鷲尾さんが、吐き捨てるように言った。
「……私の、そんな状態を見かねて」
言いづらそうに言葉を選び、瞳は続けた。
「その施設の中の、ある人が……脱走を手伝ってくれました」
「逃げたのか」
俺がそう言うと、彼女は小さく頷く。
「必死でした。とにかく、捕まらないように……」
そこで、わずかに言葉が途切れる。
「でも、途中で追いつかれそうになって」
その視線が、ゆっくりと俺たちの方へ向けられる。
「そのとき、見つけたのが――」
「……俺たちの事務所、ってわけか」
俺がそう受け取ると、彼女ははっきりと答えた。
「はい」
「こんな子どもを監禁して、勉強だ!?」
鷲尾さんは怒りを露わにする。
「そんな腐った連中が、この日本にいるのかよ!」
――違和感。
瞳の話していることは、おそらく事実だ。
言葉の整い方も、記憶の正確さも、作り話をしているようには見えない。
だが、本当に引っかかっていたのは、そこじゃない。
たしかに、彼女の話し方や佇まい、知性は、明らかに年相応の少女のものとは違う。
洗練されている――いや、洗練させられている。
外界から隔離され、特殊な“教育”を受け続けてきたというのなら、それも理解できなくはない。
しかし、彼女の知性や所作は、教育で“作れる”範囲を越えている。
俺が最初から今に至るまで感じている違和感は、
そういった環境によって後から身につくものとは、決定的に噛み合っていなかった。
もっと根本的なところ。積み上げられた知識や訓練とは別の、
最初から、そこにあったとしか思えない“何か”。
「少し聞きたいんだけど」
咲が、鋭い視線を向ける。
「その施設の人たちの目的って、何かわかる?」
瞳は一瞬、言葉に詰まったように見えた。
「……すみません。わかりません」
「そう」
咲はすぐに切り替える。
「じゃあ、他にあなたと同じように教育されている子は?」
「いません」
今度は、迷いなく即答だった。
「少なくとも、私は施設で、自分と同じ境遇の人を見たことはありません」
「じゃあ」
咲は畳みかける。
「ずっと一つの部屋に、監禁されていたわけじゃないのね?」
「いえ」
瞳は首を横に振る。
「部屋に閉じ込められていたのは、勉強の時間だけです。施設の中なら、基本的に自由に歩けました」
一瞬、言葉を区切り、続ける。
「運動のプログラムもありました。日の光を浴びないと、ビタミンDが不足して成長に支障をきたすので……屋上にも、よく出ていました」
あまりにも具体的で、理路整然とした説明だった。
「……なんだか」
咲が、小さく息を吐く。
「雲を掴むような話ね」
そして、思考をそのまま言葉にする。
「目的が見えない。仮に教育研究機関なら、一人の子どもだけを対象にするのは破綻している」
静かに首を振る。
「それに……さっきの、ヤクザまがいの連中との繋がりも説明がつかない」
「じゃあよ」
鷲尾さんが腕を組んだまま口を挟む。
「一つの施設で、一人の子どもを育ててたってことじゃねえのか?」
「あなたねえ」
咲は即座に言い返した。
「そんなことしてたら、お金なんていくらあっても足りないわ。世の中には“研究費”ってものがあるの」
「……あ、ああ」
鷲尾さんは、わずかに肩を落とす。
喧嘩は強いが、口喧嘩と女性にはめっぽう弱い。
結果は、火を見るより明らかだった。
「……はぁ」
咲が、短く息を吐いた。
その沈黙に耐えきれず、俺は口を開く。
「……なら、その組織の目的は“研究”じゃない」
視線を瞳に向ける。
「瞳ちゃん、そのものなんじゃないか」
咲がこちらを見る。
冷たい視線だが、それは感情ではない。思考の刃だ。
「たしかに、この子は……少し特別に見えるわね」
咲は淡々と肯定しつつ、すぐに首を振る。
「でも、緋山くん。組織が“一個人”のために、そこまでの手間と金をかけるかしら」
瞳に目を向ける。
「見たところ、小学四年生くらいの女の子よ」
俺は、瞳から目を逸らさないまま、静かに問いを投げた。
「――なぜ、君はそこまで教育されて、追われている?」
返答は、予想通りだった。
「……それは、よくわかりません」
だが。
俺の胸の奥で、確信が静かに形を取る。
――嘘だ。
彼女は何かを知っている。
そして、それを隠している。
根拠はない。
だが、探偵という職業は、根拠の前に“違和感”を拾う。
「……瞳ちゃん」
俺は声の調子を落とし、圧を消した。
追い詰めるためじゃない。逃げ道を残すためだ。
「君が何も知らないなら――」
一拍置く。
「君は、あんな連中に追われる理由すら持たないはずだ」
さらに言葉を重ねる。
「でも、君は追われている。現に、俺たちは襲われた」
瞳は何も言わない。
それが、答えだった。
俺は、静かに息を吸い込む。
探偵としての人生を賭けてもいい。
この少女は、核心に近いところで、何かを知っている。
だが、このままでは埒が明かないのも事実だった。
疑念を確信へと近づける手段は、言葉だけじゃない。
今、ここにある事象――それ自体もまた、真実へ至る鍵になりうる。
「瞳ちゃん」
俺は、静かに切り出した。
「少し……身体を診察させてもらってもいいかな」
「えっ」
瞳は思わず目を見開く。
鳩が豆鉄砲を食ったようなその表情が、彼女が紛れもなく年相応の少女であることを、改めて印象づけた。
「……はぁ」
ほぼ同時に、鷲尾さんと咲が呆れたように息を吐く。
「緋山くん」
咲が、半ば諦めたような声音で言う。
「あなたって、ほんと……いきなりそういうこと言う時あるわよね」
それに応じるように、鷲尾さんが一歩前に出た。
「お嬢ちゃん。まあ、その……なんだ」
頭を掻きながら、
「こいつはな、見た目はまだ若いが、実はけっこう腕の立つ医者なんだ」
視線を俺から瞳へ移し、声を落とす。
「ちょっと身体を診せてやってくれねえか。俺は席を外すからよ」
そう言って、鷲尾さんは踵を返し、病室の扉へと向かった。
一瞬、戸惑ったようにこちらを見ていた瞳だったが、
やがて小さく頷き、診察に応じた。
俺は、まず基本的な問診から始める。
瞳の年齢は小学四年生、十歳。身長は百三十八センチ、体重は三十一キロ。
数字だけを見れば、どこにでもいる少女だ。
次に、身体診察。
俺は、親父が遺したまま棚の奥に眠っていた、
年季の入った聴診器と血圧計を引き出しから取り出す。
バイタル。正常。
脈、整。――揺らがない。
呼吸、一定。――一定すぎる。
そこで、俺は小さく眉をひそめる。
次は打腱器を取り出し、神経診察と筋力テスト。
筋反射、速い。――正確すぎる。
一通りを終えて、俺は顔を上げた。
「瞳ちゃん、ありがとう」
できるだけ明るい声を作る。
「異常はないよ。すごく健康だ」
「……本当に、何もなかったの?」
咲が、間髪入れずに切り込む。
「ああ」
俺は短く頷いた。
「本当に“普通”の、健康な十歳って感じだ」
その言葉に、嘘はなかった。
――少なくとも、数値上は。
だが、診察を終えた今も、胸の奥に引っかかるものが残っている。
体格は間違いなく少女のそれだ。
しかし、筋繊維の張り、反射の速さが、明らかに年齢と釣り合っていない。
心拍、血圧、呼吸数――すべて正常範囲。だが、それらは揃いすぎていた。
一定すぎる脈。
揺らぎのない呼吸音。
生き物である以上、必ず存在するはずの“ムラ”が、彼女にはほとんど見当たらない。
その身体は、あまりにも整いすぎていた。
――まるで、ツクリモノのように。
疑念は、深まる。
だが同時に、彼女を理解するための材料も、確実に増えていくのを感じていた。
この少女には、やはり何かがある。
気づけば俺は、その深淵を、さらに覗き込もうとしていた。
診察中も、その後も。
瞳の佇まいは、終始変わらなかった。
綽々として、毅然。まるで、状況そのものから一歩距離を置いているかのようだった。
「あの〜……」
病室の外から、遠慮がちに鷲尾さんの声が飛んでくる。
「俺、そろそろ中に入ってもいい?」
「いいわよ」
咲が即座に答える。
「おお、もういいのか! 意外と早えな!」
そう言いながら、鷲尾さんが病室に入ってくる。
「それでよ、結局この後どうすんだ? このままこの診療所に泊まり込んでも、いずれ限界が来るだろ」
「鷲尾さん」
俺は落ち着いた声で返す。
「俺たちは探偵だ。部屋に籠ってたら、真実は見えない」
「じゃあ、どうすんだよ」
「まずは――」
言葉を選びながら続ける。
「彼女がいた“施設”と、彼女を逃がした施設職員。その両方を調べるのはどうかな」
「なるほど」
咲が小さく頷いた。
「敵と、彼女の協力者。二つの勢力を把握できれば、私たちの動き方も変わってくるわね」
「そう」
俺は短く笑う。
「情報を握って、有利に動く。いかにも探偵だろ?」
「へへっ」
鷲尾さんが口元を緩める。
「お前は、医者だったり探偵だったり……ほんと忙しいな」
だが、すぐに俺は表情を引き締めた。
「ただし――」
言葉を切り、瞳の方へ視線を向ける。
「その施設を調べるには、場所や名前の情報が不可欠だ」
一拍置いて、はっきりと言う。
「……瞳ちゃんの協力がないと、無理だ」
瞳は、少しも迷わなかった。
「わかりました」
静かな声で、しかし確かな意志をもって言い切る。
「施設の場所と名前。私が知っていることは、すべてお伝えします」
謎は、まだ多い。
だが――
探偵たちと依頼人の間にあった距離は、確実に縮まっていた。
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