探偵兼医者の俺が匿った少女は、“セカンド”と呼ばれていた
日比谷ケン
第一章 邂逅
第1話 謎の少女
キシキシ、と。
ボロ事務所の扉が、骨の軋むような音を立てて開いた。
入ってきたのは――十歳ほどの少女だった。
場違いなほど綺麗な子だ、という感想が、思考より先に喉の奥に引っかかった。
蛍光灯の白い光を浴びているのに、肌の陰影が妙に均一だった。
頬の赤みも、唇の色も、温度のある人間のそれより一段だけ薄い。
まつ毛の影さえ、定規で引いたみたいに揃って見える。
その動きは静謐で、
外界の喧騒や重力さえ届かぬ、隔絶された世界の住人であるかのようだった。
歩幅は小さい。なのに、床板がほとんど鳴らない。
扉の隙間から入り込んだ夜気だけが、遅れて室内を撫でた。
少女の美しい瞳は、何を映していたのだろうか。
澄んだ光を宿しながらも、どこか虚ろなその眼差しは、
この世界をいかなる像として受け止めていたのだろうか。
❑ ❑ ❑
俺たちは、持て余すほどのエネルギーを抱えながら、それを行き場もなく燻らせていた。
この事務所を訪れる客は皆無で、閑古鳥の鳴き声だけが時間の流れを告げている。
それぞれが、ただ“できること”に手を伸ばし、日常へ沈み込むようにして過ごしていた。
「くは〜! また外れた!」
淀んだ空気を裂くように野太い声が響く。声の主は、この探偵事務所随一の力自慢、
「ねえ、あんた。いい加減に競馬はやめたらどうなの」
即座に返したのは、事務、経理、会計、その他諸々を一手に引き受けている
針のような声で現実を刺し、同時に帳簿の数字を守る。
「ただでさえ金欠なんだから。これ以上、お金は貸さないからね」
「か〜! 女には男のロマンってもんが分からねえよな〜! なあ、緋山!」
鷲尾さんが、唐突に俺を巻き込んできた。
「ここまで外れ続けりゃ、ロマンもなにもないですよ」
俺――
「ただの寄付金です」
「ったく! もう少し客が来りゃ、俺だってもうちょい人間らしく生きられるんだけどよ!」
鷲尾さんの愚痴は、これまで百度は聞いた。今日も黙って受け流す。
でも――彼の言い分にも一理はあった。
俺たちは、どこかで求めていたのだ。
この澱んだ日常を揺り動かす、決定的な出来事を。
心の奥底で、誰でもいい、俺たちをここから連れ出してくれと願っていた――たとえ、それが悪魔でも。
その瞬間、空気が変わった。
ボロ事務所に相応しいはずの軋みが、今だけは「合図」に聞こえた。
俺たち三人は示し合わせたわけでもないのに、同時に扉の方を見た。
キシキシと音を立てて、空いた扉から入ってきたのは、少女だった。
誰も、言葉を発せない。
年端もいかぬ子どもが、探偵事務所の扉をくぐる理由。
そんな当然の疑問が、思考の入り口にすら立てない。
それほどまでに、目の前の存在が「視線」を奪っていった。
整いすぎている。
顔の輪郭も、眉の角度も、黒目の位置も――“たまたまそう生まれた”と言うには、揃いすぎている。
美しい、という言葉は正しい。だが、それだけでは足りない。
生き物の歪み、ムラ、味。生の温度というべきか。
この子には、それが見当たらない。
不自然な沈黙――それを破ったのは咲だった。
「え、えっと……お客さん、ですか?」
いつもなら冷静沈着、事務的とも言えるほど綽々としている咲にしては、歯切れが悪い。
それでも、三人の中で誰よりも早く“仕事”に戻るあたりは、さすがだった。
「とりあえず、こちらに座っていただけますか……」
「はい。失礼します」
少女は、丁寧すぎるほど丁寧な口調で答えた。
そして椅子へ向かう。
歩く。
止まる。
座る。
その一連の動きが、あまりにも滑らかだった。
躊躇がない。足の運びに迷いがない。椅子に腰を下ろす角度が、正確すぎる。
まるで“そう座ること”を最初から教え込まれてきたかのように。
――いや。
教え込まれた、という言葉すら違う。
最初から、そうできてしまう身体。そう見えてしまう仕上がり。
俺は、喉が乾くのを感じながら、定型句を口にした。
「……本日は、どういったご用件でしょうか」
少女は、まっすぐにこちらを見た。
澄んだ光を宿しているのに、どこか焦点が遠い。
俺たちではなく、この場にいない何かを見ているような目だった。
そして、静かに言った。
「私のことを、匿ってほしいのです」
その一言に、いくつもの可能性が脳裏をよぎった。
複雑な家庭環境、思春期特有の不安定さ、あるいは厄介な人物につきまとわれているのか。
どれを掘り下げても、踏み込めば容易にセンシティブな領域へと踏み入ってしまいそうで、
次に口にすべき言葉を、俺は一瞬ためらった。
だが、そうした逡巡とは無縁の人物が、うちには一人いる。
「ん?どういうことだ、お嬢ちゃん。家出でもしたのか?」
場の空気を読むという概念をどこかに置き忘れてきたかのように、
鷲尾さんが率直すぎる疑問を口にした。
皆の胸中をそのまま代弁したような、あまりに頭の悪い問いだったが
――正直なところ、助かった。
「家出……間違ってはいません」
少女は一拍置いて、そう答えた。
「でも、それだけではありません。私は、ある人たちから追われているのです」
「……どんな人たちから追われているんだい?」
俺がそう問いかけると、少女はわずかに言葉に詰まり、視線を伏せた。
「それは……言えません……」
短い沈黙が落ちる。
「困ったな、こりゃ。さすがに警察案件だろ」
そう言って、鷲尾さんは肩をすくめた。
その口調は軽いが、言っていることは至極まっとうだった。
彼は愚直ではあるが、決して愚かではない。
「ええ。事情はよく分からないけど、少なくとも探偵事務所の仕事じゃないわね」
咲もまた、常識的な判断を下す。もっともな意見だった。
「……二人の言うことは分かる。でもさ、もう少しだけ、この子の話を聞こうよ」
自分でも意外なほど、俺の声には熱がこもっていた。
不思議な感覚だった。
冷静に考えれば、真っ先に警察へ通報すべき状況だ。
未成年の少女を匿えば、下手をすればこちらが誘拐犯として扱われかねない。
それでも、俺は彼女のことをもっと知りたいと思ってしまった。
ツクリモノめいたその容姿。そして、その背後に垣間見える、ただならぬ非日常の気配。
俺は、ずっと求めていたのだ。
この澱んだ日常を壊す、決定的な何かを。
――そのときだった。
扉が、叩き壊されるように開いた。
乾いた破裂音。
蝶番が悲鳴を上げ、埃が舞う。
雪崩れ込んできたのは、黒いスーツの男たちだった。
四人。全員が鍛え上げられた体躯を隠そうともせず、視線だけが鋭く、無駄がない。
その立ち居振る舞いの端々から、
彼らが日常的に暴力と隣り合わせの世界に身を置いていることは、否応なく伝わってきた。
空気が、張り替えられたように重くなる。
男たちの視線は、俺たちを素通りした。
最初から、見ていない。
関心は一点――椅子に座る少女だけだった。
「おいおい、なんだあんたら」
鷲尾さんはそう言いながら立ち上がり、すでに臨戦態勢に入っている。
「もしかして……この人たちが、この子の言ってた“追ってくる人たち”?」
咲は冷静さを失わぬまま、低く身構えた。
「今日はやけにお客さんが多いな。どうやら、書き入れ時らしい」
俺は、胸の奥で静かに高鳴り始めた鼓動に蓋をできず、わずかに口角を上げた。
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