後編
京に人が集まる理由はいつも穏やかだ。政務のため警護のため次の戦の段取りのため。誰もがそう言う。だが理由が穏やかなほど結果は苛烈になる。信忠が二条に入ったとき光秀はそれを遠くで知った。正式な通達ではなかった。だが京の空気が変わったことは伝わってきた。もはや自分がこの都の主ではない。そう感じるには十分だった。
信長もまた京へ向かう。武田は滅び毛利は追い込まれている。誰もが勝利の形を疑わない。信長自身も疑っていなかった。朝廷との折衝も軍の采配も自分がいなければ進まぬという自負があった。それは慢心ではなく事実だった。ただ事実であるがゆえに危うかった。
光秀は考える時間を奪われていた。動かねばならぬ。だが動けば疑われる。疑われれば佐久間の道が待つ。功を尽くした者が一夜で切り捨てられる。その記憶が脳裏から離れない。信忠の若さもまた不安を煽る。若い主は過去を顧みない。必要とあらば父のやり方を否定する。それが世代というものだ。
信長は朝廷を押し信忠を立て政を一段高いところへ引き上げようとしている。だがその構造の中に自分の居場所はない。光秀はそれを悟り始めていた。これは失脚ではない。存在の消失だ。名を残さず責を負わされ歴史から切り取られる。その恐怖が胸を満たす。
官兵衛は播磨で報を聞いていた。京に二人がいる。あとは一人だけだ。だが官兵衛はじっと待った。演出が崩れないように。人は自ら決めたと思ったとき最も深く動く。半兵衛の教えはそこにあった。
光秀はついに軍を動かす。中国援軍に向かうためだと誰も疑わない。準備は整い過ぎていた。あまりにも自然だった。だが自然であることこそが罠だった。京に入る道すがら光秀は何度も問い返す。これは自分の意思か。それとも追い込まれた結果か。だが答えは出ない。出ないまま進むしかない。
本能寺の夜は静かだった。信長は少数の供だけを連れていた。信忠もまた同じだった。二人とも守られているという感覚を失っていた。守る者が多すぎた時代が長すぎたのだ。京は安全だという思い込みがあった。
炎が上がりすべてが終わる。光秀は勝った。間違いなく勝った。中央は止まり政は空白を生む。自分は歴史を動かした。その実感は確かにあった。
だがその直後ほんの一瞬だけ胸に影が差す。ここまでがあまりにも滑らかすぎた。配置も時期も人の動きも。誰かが盤を整えていたのではないか。そう思った瞬間光秀はその考えを切り捨てる。今さら疑っても意味はない。自分は選んだ。そう信じねばならぬ。
数日後、備中高松城を睨む位置で官兵衛は秀吉のもとにいた。凶報せを聞いても顔色一つ変えない。予定より少し早かった。それだけだ。光秀がどう動くかは賭けだった。その後秀吉がどう動くのかも。だが官兵衛は知っていた。秀吉は勝ちを拾いに行く男だ。中国大返しはそのための道だった。
半兵衛の影が脳裏をよぎる。計算に誤りはなかった。人は皆自発的に動いた。誰も操られたとは思っていない。それでいい。それこそが最も完成された構図だ。
光秀の違和感はやがて消える。消えなかったとしても意味を持たない。歴史は個人の感情を顧みない。官兵衛はそれを知っていた。だから何も語らない。ただ結果を受け入れる。
燃え落ちた都の上で時代は静かに次へ進み始めていた。
誰もが自分の意思で動いたと信じたまま。
新説、本能寺の変 @Urashima_Tarou
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