新説、本能寺の変

@Urashima_Tarou

前編

竹中半兵衛は自分の死期を悟ったとき世の行く末よりも人の動きのほうがはるかに読みやすいことを思い出していた。戦は才で決まるが政は構えで崩れる。織田という政権は強すぎるがゆえに均衡を失いその歪みはいずれ中心から割れる。その瞬間は遠くない。半兵衛はそれを確信していた。


黒田官兵衛を枕元に呼び寄せた夜半外では虫の音が絶え間なく続いていた。半兵衛は多くを語らなかった。語る必要がなかった。人は状況に追い込まれたとき最も自発的に動く。選択肢を与えるな。逃げ道を塞げ。そうすれば人は自ら正しいと思う道を選ぶ。その言葉だけが官兵衛の胸に残った。


半兵衛は最後にこう付け加えた。二人だ。油断している二人が同じ場所にいなければならぬ。片方では足りぬ。二人揃って初めて政は止まる。官兵衛はうなずいた。誰の名も出なかったがそれで十分だった。


年月が流れ武田が滅び織田の軍勢は空前の勢いを誇った。だがその勢いは緊張ではなく弛緩を生んでいた。富士の麓での遊山は象徴だった。勝ち続ける者ほど敗北の形を想像できなくなる。官兵衛はその空気を肌で感じていた。


長宗我部との関係が変わった時から官兵衛は半兵衛の言葉を思い出していた。調略から討伐への転換。それは一大名の処遇変更ではなく織田政権が内部の緩衝材を捨てた合図だった。誰かが必ず押し出される。その役目を担わされる者の顔が官兵衛にははっきり見えていた。

明智光秀。

畿内を預かり朝廷と信長をつなぐ位置にありながらその立場は信長の機嫌一つで崩れうる。佐久間信盛がそうであったように理屈も功も関係なく切られることがある。その恐怖を光秀は誰よりも理解していた。


そこへ信忠が動く。若く血気盛んでありながら政の中心に置かれ始めた嫡男。二条城に入るという事実は単なる配置ではない。京都の差配が変わる兆しだった。光秀が長年担ってきた役目が静かに剥ぎ取られていく。その過程はあまりにも穏やかであまりにも残酷だった。


官兵衛は直接何も言わない。ただ秀吉に中国攻めの援軍が欲しいと伝えた。毛利は和睦を視野に入れつつも最後の圧をかけてくる。ここで畳みかけるには信長の名が必要だと秀吉は理解した。信長が動けば布陣は自ずと決まる。中軍に信忠。前に動かせる将は限られる。四国方面は命令変更がきかない。北は遠い。家康は客将。残るのは光秀しかいない。


光秀が中国へ向かえば京は空く。ならば信忠が入る。その後の段取りを決めるため信長も京へ出る。それは命令ではなく流れだった。誰も無理をしていない。皆が合理を選んだ結果だった。


光秀は丹波でその流れを感じ取っていた。命令はまだない。だが準備は始めねばならぬ。軍勢は一朝一夕では動かぬ。動かせるかどうかは信を失わぬことに尽きる。自分はまだ信を得ているのか。それとも既に見限られているのか。その答えはどこにも書かれていなかった。


四国政策の変更。信忠の上洛。佐久間の最期。どれもが光秀の胸を締め付ける。理不尽ではない。むしろ理屈は通っている。だからこそ逃げ場がない。信長の政は中央に集まり過ぎた。すべてが見えすぎる。失敗も躊躇も許されない。


官兵衛は遠く播磨で盤面を見ていた。誰かを陥れるつもりはない。ただ状況を整えているだけだ。光秀が動かなければそれでよい。援軍が来れば毛利は折れる。動けば別の扉が開く。それだけの話だった。


半兵衛の言葉が胸に響く。

選ばせるな。

逃げ道を塞げ。


京という場所に役者は揃いつつあった。

まだ誰も決断していない。

だが決断せざるを得ない時刻は確実に近づいていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る