第2話 アデル・アイゼンベルクの追想
私は別に、親切な人間ではない。いい人に見られたいとも思わない。
馬車の窓から外を眺めていて、珍しい黒い髪が目に入った。花壇のレンガに座り込んで困っている様子の女性に、わざわざ馬車を止めさせて声をかけたのは、ほんの好奇心だった。
どこから来て、どうしてこんなところで座っているのか。
その答えは、彼女からもたらされなかった。
彼女は自分がどこから来たのか分からず、なぜここにいるのかも知らず、途方にくれていたのだ。来ている衣装は珍しい布で、ごく一般的な平民とは思えなかった。
記憶喪失というヤツか、面白いな。
困っているならと我が家に招待し、医師の診断を仰いだ。結果、原因は不明、治療方法もない。特に目立った外傷もなく、経過観察となった。
覚えていたのは、リサという名前だけ。
持ちものは小さなカバン一つ。遠くから来たとも思えない。いや、盗まれたのか、近辺に住んでいて荷物は家にあるのか? 記憶を失っているので、思い出せなければ確かめようがない。
カバンの中にはハンカチやペン、どこかの国の貨幣と、四角い手帳のような謎のガラス。黒くて厚みがあり、ピッタリなサイズのケースに収まっていた。
リサは読み書きはできないが計算が早く、時おり記憶が
ちなみに読み書きは使う文字が違うだけで、彼女は独自の文字でメモを取ったりしていた。同じ音に複数の文字を当てるなど、高度な暗号のようだった。簡単には解読されないだろう。
この国に馴染もうと努力する彼女を観察して、次期侯爵夫人……つまり私の妻にはどうかと、いつの間にか考えるようになっていた。
わりと従順でもあるし、悪くない。不意に話される他国の知識も、面白い。
両親は家のためになる身分のある相手と婚姻を結んで欲しいようだったが、元々女性にも結婚にも興味を示さなかった私が選んだ女性だと、納得してくれた。
彼女との婚約が決まり、リサは次期侯爵夫人になるためのマナーを学び、この国の貴族や歴史についての授業を受け始めた。そして盛大な結婚式をあげ、ほどなくリサは妊娠した。
運命に流されたように、慶事が続く。私は人生の絶頂にいた。
そこから、あんな風に突き落とされるとは思いもよらなかったが……。
彼女が赤ん坊を産んだのだ。
人間同士の結婚で、子供が卵でなく産まれるわけがない。リサは身の潔白を訴えて言い訳をしていたが、子供という確たる証拠が出てしまった。誤魔化せるわけがない。記憶喪失だから、こんな常識も知らなかったのか。お陰で私は、妻の不貞を知ることができた。
両親も激怒して、すぐにでも追い出せと怒鳴っていたさ。
念のために、人族、魔人族、天人族、精霊族の四つのどれか判断する、簡易種族検査は結婚前にこっそり受けさせている。人間なのは間違いなかった。
他の男の子供ではあるが、赤ん坊で産まれたのだから、相手は上位種族だ。
無下に扱えず、落ちつくまで家に置いて、手切れ金を渡して別れた。相手の名前も知らないようだったが、これ以上の温情をかけるつもりはない。きっと本当の父親が探しに来るだろうよ。
ただ、そんな女性がなぜ記憶を失って町にいたのかは、分からなかった。
私の想像では、私と出会う前に上位種族の恋人がいて、何らかの理由で激しい怒りを買い、記憶を奪われて追放されたと仮定している。記憶を奪ったのは家長や親族の誰かで、恋人は彼女を諦めきれずに追いかけてきて、私と結婚しているにも関わらず、関係を持ったのではないだろうか。
メイドも侍女も不審な人物を目撃していないし、妻にはそれらしい付き合いもなかったと証言している。交遊関係すら希薄だったのだ。新たな相手と不倫したとは考えにくい。
はあ、追放した相手についてあれこれ考えても仕方ない。
妻とは夜会などに参加していたし、私たちの姿を覚えている者も多いだろう。妻が上位種族の子供を産んで不貞が明らかになり、離縁したと友人たちに伝えた。
貞淑な印象を持たれていたから、皆が一様に驚いていた。
上位種族との不倫は貴族間で密かな噂になったが、面と向かって質問してくる者はさすがにいなかったな。繊細すぎる問題だ。
なかなか新たな結婚相手を探す気にもなれず、裏切られたショックを抱えて悶々とした日々を過ごしていた。私はこんなに、他人に情を移すタイプだったのだろうか。結婚しながら裏切られたのが、よほど堪えたらしい。
両親からは、新しい恋人を見つけるのが一番だとせっつかれている。
それでも月日が少しずつ、彼女の存在を薄れさせた。
新たな恋人候補ができ、今度は慎重に婚約するかを検討している。その間に隣国ではガンダルヴァが降臨したと発表され、一時期我が国の教会に勤めていた、コンラート・クレマー神官と婚約を結んだと情報が回ってきた。
天人族の予言者を父に持ち、各国の教会から父親ともどもお呼びがかかる、立派な聖職者だ。神官に婚姻は許されていても、彼は結婚しないと思われていた。どんな女性が彼の心を射止めたのやら。
彼の母親は人間だ。同じ人間か、別の上位種族か。憶測が飛んでいて、パーティーでもその噂でもちきりだった。そんな中、クレマー神官と恋人の姿を見たという男が、話の中心になっていた。
「その恋人がなんと、名をリサといって、アデル・アイゼンベルク侯爵令息の元妻なんだ! ガンダルヴァを手放すなんて、とんでもない男だよな」
……リサが、ガンダルヴァ……?
本当なら、子供が卵でなく赤ん坊だったのも説明がつく。ガンダルヴァは人族に数えられるから、簡易種族検査では人と結果が出たのも納得だ。
もしかして私は、とんでもない間違いを犯したのか……?
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