第3話「甘い涙とホイップ」

甘い香りは、時に人を幸せにし、時に残酷なほど自分の「不器用さ」を突きつける。

製菓専門学校の調理実習室。ステンレスの台の上には、無惨に崩れ落ちたスポンジケーキが鎮座していた。

膨らみきれずに萎んだ生地。泡立てすぎてボソボソになった生クリーム。それは、レシピ通りの美しいデコレーションケーキとは似ても似つかない、悲しい残骸だった。

「……また、失敗しちゃった」

甘利桃子あまり ももこは、クリームのついた指先を見つめて呟いた。

二十二歳。パティシエを目指して勉強中だが、手先が不器用で、いつも肝心なところで失敗してしまう。

周りの学生たちが「映える」ケーキをスマホで撮影している中、桃子は自分の「作品」をそっと指ですくい、口に運んだ。

――甘い。

砂糖と卵、バニラエッセンスの優しい味。見た目は悪くても、味はこんなに一生懸命なのに。

「ごめんね。可愛くしてあげられなくて」

桃子の瞳から、ポロリと涙がこぼれ落ちた。その涙は、崩れたケーキのスポンジに静かに染み込んでいった。

悲劇は、街一番の人気パティシエの店『レーヴ・ド・アンジュ』で起きた。

「キエェェェッ! 崩れろ! 溶けろ! 完璧じゃない甘さは罪だ!!」

ショーケースを粉砕し、美しいケーキたちを次々と床に叩きつけているのは、巨大な生クリームの怪人だった。

体中に腐ったイチゴや、折れたチョコレートのプレートが突き刺さっている。その体はドロドロと溶け崩れ、歩くたびにベトベトした白い液体を撒き散らしていた。

サプリ帝国が送り込んだハイキ獣、『クズレケーキ』だ。

「やめろっ! 俺の店のケーキが!」

店主が悲鳴を上げる。

クズレケーキは歪んだ口から、酸化した酸っぱいクリームを噴射した。

「ムダだムダだ! ショーケースに並べない『失敗作』に価値なんかない! 廃棄だ、全て廃棄処分だァ!」

逃げ惑う人々の中に、たまたま通りがかった桃子の姿があった。彼女は恐怖に震えながらも、怪人のその言葉に足を止めてしまった。

(失敗作には……価値がない?)

「そこまでだ!」

勇ましい声と共に、二つの影が飛び込んできた。

真紅のスーツのライスレッドと、黄金の鎧のミートイエローだ。

「人の夢が詰まったケーキを粗末にするんじゃねぇ!」

「おう! 甘いもんは別腹だが、テメェの悪行は腹に据えかねるぜ!」

レッドが回し蹴りを放ち、イエローがタックルを仕掛ける。

だが、クズレケーキの体はヌルヌルとした油脂で覆われており、二人の攻撃をツルリと滑らせて無効化した。

「効かないよォ! 僕は失敗作、どうせ形なんて定まってないんだからなァ!」

「うわっ、滑る! 掴みどころがねぇ!」

「へへっ、ならこいつはどうだ!」

怪人が体を震わせると、背中のイチゴから種マシンガンのように腐った果肉が乱射された。

ドガガガガッ!

レッドとイエローは防戦一方となり、ショーケースの影に追い込まれる。

「クソッ、なんて卑屈な攻撃だ……!」

「失敗作の怨念か……手強いぜ」

クズレケーキは勝利を確信し、隅で震えている桃子に目をつけた。

そのドロドロの手を伸ばす。

「お前も……『失敗』の匂いがするなぁ? 自信がなくて、おどおどして……僕と同じ、廃棄物にしてやるよォ!」

桃子は動けなかった。怪人の言葉が、図星だったからだ。

自分はプロになれないかもしれない。何度やっても失敗ばかり。

だけど。

「……ううん」

桃子は顔を上げた。

目の前の怪人は、暴れているけれど、その瞳は泣いているように見えた。

誰にも選ばれず、誰にも「美味しい」と言ってもらえなかった悲しみ。それは、桃子がさっき実習室で感じた痛みと同じだった。

「違う……失敗なんかじゃない!」

桃子は恐怖を押し殺し、怪人の前に立ちはだかった。

駆け寄ろうとするレッドたちを制し、彼女は両手を広げた。

「お前、何やってんだ! 逃げろ!」

「離れてください!」

だが、桃子は逃げなかった。あろうことか、振り下ろされようとしていた怪人のドロドロの腕を、その胸でしっかりと受け止めたのだ。

服が汚れるのも構わず、彼女は怪人を抱きしめた。

「え……?」

クズレケーキの動きが止まる。

「悲しかったんだよね……。一生懸命膨らもうとしたのに、うまくいかなくて。誰かに食べてほしかったのに、捨てられちゃって」

「は……離せ! 僕はゴミだ! 汚い失敗作だ!」

「汚くないよ! だって、甘い匂いがするもん」

桃子は優しく、怪人の背中をさすった。

「形が崩れてても、味がしなくても……誰かを笑顔にしたいって思った気持ちは、本物だもん。失敗なんてないよ。次はもっと美味しくなれるよ」

その言葉は、怪人へ向けたものであり、自分自身への祈りでもあった。

怪人の目から、酸っぱいクリームではない、透明な涙が溢れ出した。

「ウッ……ウウッ……タベテ……ホシカッタ……」

その時、桃子の胸元で、ピンク色の光が爆発した。

「……見事ニャ」

瓦礫の上から様子を見ていたミャスターが、感嘆の声を漏らす。

「悲しみに寄り添い、甘く包み込む心……。それこそが『スイーツ』の真髄! お前には資格があるニャ、甘利桃子!」

光の中から『ゴチソウブレス』が現れ、桃子の手首に装着される。

「えっ、これ……?」

「桃子! その優しさで、あいつの涙を拭ってやるニャ! 変身して『オーダー』するのニャ!」

「私が……戦うの? ううん、助けるんだよね……あの子を!」

桃子は涙を拭い、決意を込めてツマミを回した。

「オーダー! 五色五味、チェンジ!!」

フワァッ!

優しいバニラの香りと共に、桜色の光が桃子を包み込む。

それはホイップクリームのように柔らかく、彼女の全身を彩っていった。

光が晴れると、そこにはピンクと白を基調とした、ドレスのようなスーツを纏った戦士が立っていた。スカートの裾はフリルのように波打ち、マスクには愛らしいフルーツの意匠が輝いている。

「ときめく甘さ! 癒しのデザート! ……ピンクフルーティ!!」

ピンクフルーティは、クルリと一回転してポーズを決めた。

「私、信じてる。あなたの本当の味!」

「おのれ、戯言を!」

クズレケーキが混乱し、再び暴れ出す。クリームの奔流がピンクを襲う。

だが、ピンクは軽やかに宙を舞った。その動きは、バレリーナのように優雅でしなやかだ。

「悲しいクリームは、もうおしまい!」

ピンクは手からリボンのような光の鞭を生成した。

「ホイップ・リボン!」

リボンが怪人の腕に絡みつく。しかし、締め上げるのではない。優しく、だが力強く動きを封じ込める。

「レッドさん、イエローさん! 今です!」

「おう! 嬢ちゃん、すげぇ度胸だ!」

「俺たちも負けてらんねぇな!」

レッドとイエローが左右から駆け寄り、怪人のバランスを崩す。

ピンクは空高くジャンプした。背景に、色とりどりのフルーツとマカロンの幻影が舞う。

「美味しくなぁれ、美味しくなぁれ……!」

彼女は両手にピンク色のエネルギーを集め、ハート型を描くように放った。それは破壊光線ではなく、あたたかな浄化の光。

「必殺! スイート・ハート・デコレーション!!」

光のハートがクズレケーキを包み込む。

ドロドロに溶けていた怪人の体が、光の中で再構築されていく幻覚が見えた。崩れる前の、真っ白で美しいショートケーキの姿に。

「ア……アマァァァイ……シアワセェェ……」

怪人は恍惚の表情を浮かべ、甘い香りの粒子となって空へと溶けていった。

それは、誰かに食べてもらえる喜びを知った魂の、穏やかな成仏だった。

「……ごちそうさまでした」

ピンクはそっと手を合わせ、空を見上げた。

戦いの後。

夕焼けに染まる公園のベンチで、リキ、剛、ミャスター、そして桃子の四人が並んでいた。

桃子の膝の上には、タッパーに入った、あの「崩れたケーキ」がある。

「……食べてくれるの?」

桃子が不安そうに尋ねる。

「当たり前だろ! 腹減ったしな!」

リキはフォークで豪快にすくい、パクリと口に入れた。剛も続く。

「ん! ……あ、これ美味い! すげぇ優しい味だ」

「ああ、見た目はアレだが……生地のキメは細かいし、砂糖の加減が絶妙だぜ。嬢ちゃん、いい腕してるじゃねぇか」

二人の言葉に、桃子の目が大きく見開かれる。

そして、ミャスターもまた、鼻先にクリームをつけながら満足げに髭を揺らした。

「悪くないニャ。形に囚われず、味を追求する心意気……五味仙界でも通用する才能だニャ」

「ほんと……かな?」

「おう! 俺たちが嘘つくかよ」

リキがニッと笑い、剛が親指を立てる。

桃子の胸の奥が、じんわりと温かくなった。

失敗しても、崩れても、中身を見てくれる人がいる。

甘い甘い、涙の味がした。

「私……もっと頑張る。みんなのお腹も心もいっぱいにできるパティシエに、絶対なる!」

そう言って笑った桃子の笑顔は、どんな高級なスイーツよりも甘く、輝いていた。

これで三色。食卓チームの彩りは、ますます豊かになっていく。

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