第3話

数日後。


私は、ジェヒョンと共に、グラディア帝国へ向かう馬車に乗り込んだ。


白蓮国の丘陵を越えたあたりから、景色は目に見えて変わり始めた。

あれほど瑞々しく広がっていた緑は消え、灰色の大地が続く。


風が、違う。

澄んでいたはずの空気に、鉄と油のにおいが混じっている。


遠くに見えるのは、煙突のように天へ突き刺さる無数の塔。

あれが――グラディア帝国。

鉄と戦によって築かれた国。


「王女様。グラディア帝国へ到着した模様でございます」


そう告げられ、私は小さく息を吸った。


「……いよいよ、ね」


声は震えていなかっただろうか。

生まれてからずっと、白蓮の地で生きてきた私。

親元を離れ、敵国で暮らす未来が、すぐそこまで迫っている。


——逃げてはいけない。

これは、国のために選んだ道なのだから。


カーン……カーン……


宮廷前に馬車が止まると、厳かな鐘の音が響いた。

婚礼の始まりを告げる音。

私の人生が、大きく変わる合図。


式場は、絢爛な装飾と香の香りに満ちていた。

華やかで、けれど重苦しい。

この国そのもののようだ。


「白蓮国の王女、ヘヨン様がお入りになられます!」


名を呼ばれ、私は一歩、前へ踏み出す。


重厚な扉が開いた瞬間、無数の視線が私に突き刺さった。


「……なんて綺麗な方」

「隣の男性は誰かしら」

「まるで絵画のようなお二人だわ……」


囁き声が耳に届く。

けれどその直後、鋭い視線が私を射抜いた。


豪奢な装飾に身を包んだ女――

グラディア帝国の王妃、婚約者である皇太子トア様のお母上で私の姑になるお方。


「何を言っているの? 皇太子の方がお綺麗に決まっているでしょう」


その目に、敵意が宿っているのが分かった。

思わず、私は不安にかられ、隣のジェヒョンの袖を掴んでしまう。


——弱い姿を見せてはいけないのに。


彼は何も言わず、そっと私の手を握り返した。

その温もりに、胸の奥が少しだけ落ち着く。


「まぁ、これから皇太子妃になろうというのに、男を侍らせて……」


王妃の声が、場を切り裂く。


「王妃、口を慎むのだ」


皇帝陛下が制しても、王妃は引き下がらなかった。


「殿下、私は皇太子が心配で申し上げているのです」


——もう、黙ってはいられない。


「王妃様」


自分でも驚くほど、声は静かだった。


「こちらの者は、私の護衛でございます。白蓮国では王族に護衛をつけるのが慣わし。幼少より私に仕え、忠誠心は疑う余地もございません」


場内が、静まり返る。


「その件は、そなたの父から聞いておる」


皇帝陛下の低い声が響いた。


「異国での生活、苦労も多かろう。だが、慣れるまで耐えてくれ」


「……はい、陛下」


胸の奥で、何かがきしんだ音がした。


「こちらがそなたの身の回りの世話をする侍女のラキだ」


穏やかに微笑むその女に、私は頭を下げる。


「よろしく、ラキ」


式典が終わり、案内されて歩き出そうとした、その時。


「王女様」


護衛の彼が、一歩前に出た。


「僕は宮殿内の見回りをして参ります。後ほど参りますので、ご安心ください」


一瞬、振り返りそうになった。

けれど、私は前を向いたまま答えた。


「……分かったわ」


侍女のラキに導かれ、式場を後にする。

背後で、彼の気配が遠ざかっていく。


——この時、もし私が振り返っていたら。

もし、彼の表情を見ていたら。


私たちの運命は、少しだけ違っていたのだろうか。


その答えを、私はまだ知らない。

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