第2話
「王女様。今日は、良い天気でございますね」
「そうね」
毎朝欠かさず行っている散歩。
その隣を歩くのは、いつもジェヒョンだった。
言葉は少なく、感情を表に出すこともない。
けれど、この時間だけは、なぜか心が落ち着いた。
宮殿内を歩いていると、女中たちが行き交う一角に差しかかる。
朝の忙しさの中、布の擦れる音や足音が響いていた。
その時だった。
一人の女中が、顔色を変えてこちらへ駆けてくる。
「みんな、大変よ!」
張り詰めた声に、周囲の空気が一瞬で変わる。
「どうしたの、そんなに慌てて」
別の侍女が問いかけると、女中は息を整える間もなく言った。
「王女様が……グラディア帝国のトア様と、ご結婚なさるそうよ」
――やはりもう女中たちの間で噂になっている。
胸の奥が、ひどく静かになった。
驚きよりも先に、諦めにも似た感情が広がる。
「……本当なの?」
「グラディア帝国って、私たちの土地を狙っているって噂の……」
「そんな場所に、王女様を……」
私は足を止めず、その声を背に受け止める。
「でも、ジェヒョンも一緒らしいわよ」
その名が出た瞬間、空気がわずかに緩むのを感じた。
「それなら……安心かもしれないわね」
「そうでございますね」
「安心……なのかしら?」
幼い頃から私のお世話係をしている女官長のユナがポツリと呟く。
「だってジェヒョン様は……」
続きを言わせる前に、私は一歩前へ出た。
「コホン」
咳払いひとつで、女中たちははっと我に返り、慌てて頭を下げる。
「あなたたち、何を話しているの?」
震える声で、侍女の一人が口を開いた。
「お、王女様……ご婚約の噂を耳にいたしまして……誠でございましょうか?」
「お父上がお決めになったことよ」
自分でも驚くほど、声は冷静だった。
「私は生まれた時から、父の決めた方と結婚する運命。覚悟していたことだわ」
それ以上、何を言えばいいのだろう。
私はジェヒョンと共に、その場を後にした。
しばらく歩いたあと、ふと足を止める。
私は、結婚前にもう一度だけ彼の気持ちを確かめたかった。
「もう一度あなたに尋ねる。」
振り返ると、彼は一瞬だけ目を見開いた。
「……なんでございましょうか?」
「私が、グラディア帝国の皇太子と結婚すること。あなたはどう思っているの?」
沈黙。
その沈黙が、胸に突き刺さる。
やがて彼は、いつものように整った声で答えた。
「グラディア帝国は我々の土地を狙っているとの噂がございます。危険は伴いますが、私は命を懸けて王女様をお守りいたします」
……違う。
私が聞きたかったのは、そんな言葉じゃない。
「そういうことを聞いているんじゃないわ」
彼は黙り込んだ。
その伏せた視線が、なぜか酷く冷たく見える。
「また、あなたは黙るのね」
声が震えそうになるのを、必死で抑えた。
「いつもそう。その鋭い目……あなたは、私を憎んでいるのね」
「……いいえ。憎んでなど、おりません」
淡々とした声。
「私はあなた様の側で仕えることができて、幸せでございます」
――嘘。
その言葉だけで、分かってしまった。
「だって……あなたは、父上に命じられて、嫌々私に仕えている。そうでしょう?」
「ヘヨン様……」
名前を呼ばれただけで、胸が痛む。
「もういいわ」
これ以上、期待するのはやめよう。
「あなたが私を恨んでいることなんて、今に始まった話じゃない。私は、生まれた時から敵国に嫁ぐ運命だったの。責務を果たす日が来ただけよ」
背を向けた瞬間、足が震えた。
「王女様、お待ちくださいませ!」
追いかけてくる気配を感じて、私は小さく首を振る。
「しばらく……一人になりたいの」
そう言って、歩き出した。
振り返らなかった。
振り返ってしまえば、きっと泣いてしまうから。
私は、誰にも愛されていない。
彼だけは私を愛してくれていると思っていたのに。
それは私の勘違いだったようだ。
父の言う通り、私は、自分の責務を全うしよう。
祖国である白蓮国を守るために、敵国であるグランディア帝国に行き、トア様と結婚し、皇太子妃になる。
それが私が生きる意味だから…
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