僕から見ても異次元《レベチ》な十字架《ブラッド・クロス》の両想

ヨコミゾ(`・ω・´)

第1話

(ふぅ~~~~......。おかしい。)


 困った。全然苦しくない。

 こんな風に、何とも間の抜けたため息を無意識についてしまうほど。


 それどころか、ほんの数時間前に心を決めたときから、体が軽くて浮足立っているのが分かる。

 僕みたいな人なら、もっと悲壮感を漂わせていないといけないような気もするんだけど、きっと日暮れの過疎駅の薄暗さには不釣り合いな明るい顔を、僕は浮かべているだろう。

 少し前の、息をするのも辛いくらいの心の重さが嘘のように無くなって、何も辛さを感じない。

 強いて言うならパジャマみたいな薄着で来てしまって、冷たい風が肌を刺して痛いくらい。でも、それすら体を薄いベールで包んでいるように、ぼんやりとした感覚だった。

 凍えているからじゃない。なんだか、体全体の細胞が苦しみの末に気絶しているみたいだ。あるいは凍えて麻痺しているのは心なのかもしれない。

 怖くもない。

 今から僕がやろうとしていることが当然であるみたいに、誰にも、何にも邪魔されないでここまで来れてしまった。

 

 『まもなくー1番線ホームに電車がまいります。黄色い線の内側までーお下がりください。通貨列車です。ご注意ーください。』

 駅に停車しない、通貨列車の到着を暗闇からスピーカーが告げて、同時に忘れていたはずのわずかな緊張が顔をだした。でも今は邪魔だ。

 (今から電車で帰る人にはちょっと、いやだいぶ迷惑をかけるけど。)

 今になって、頭のどこかで冷静な声が聞こえてきてしまう。でもきっとこれ以上待っていたら、次は恐怖も顔を出して、動けなくなる。

 早く、早く。今なら誰も気付いていない。

 僕は真っ暗なホームのその先だけを見つめて、止めていた足を動かした。


          ◇

 

 一方その頃。

 「待って......!いかないで......!!」


 『神』の住む天界。

 寒さも辛さもないはずのそこに、悲痛な声が響いた。

 駅のホームに向かってゆっくりと歩む少年をその瞳に映し、イエスは届かない声を上げる。『神』であるはずのその横顔は、胸を締め付ける苦しさで引き攣れていた。

 「......イエス。」

 神はそっと手を置く。その目は息子と同じ場面を見つめたまま。

 「イエス様......。」

 聖霊は心配そうにその胸を押さえる。イエスに同調し痛みで揺れる心を鎮めようとするかのように。


 「心配するな、大丈夫だ。」

 やがて、息子を励ます父の声が、夜の灯のように彼らを包み込んだ。

 「この子にとって今日は大事な日だ。すべてが大きく変わる。」

 お前も分かっているのだろう?と静かに、確信をもって問う。

 「分かっています。でも......。」

 分かっているけれど、とイエスは止めていた息をゆっくりと吐きだす。

 決してこのまま終わることはない。他ならない神がいるのだから。まだ『希望』は打ち捨てられていない。問われるまでもなく、イエスは分かっていた。この先に神の『計画』があることを。

 だから、この引き裂かれそうな苦しみは、先を悲観する故の絶望ではない。

 

 「彼が今この瞬間も苦しんでいる。絶望している。でも僕は"まだ"彼に触れられない。それが堪らなく辛いんです。」

 きっと言わなくても神は、父は自分の思いを分かっているだろう。でもあえてイエスは口にした。この声が、ほんの微かにでも少年に届くように。


          ◇


 ファアアアン......ゴォオオオオオオ......

 電車の音ってこんなに大きかったっけ。

 ところでなぜ今僕は「電車が通り過ぎるときの音」を聞いているんだろう。本来なら「線路の石の感触と電車に轢き潰される感覚」とかでないといけないんだけれど。

 確かめるまでもない。僕はまだホームの上にいた。飛び込めなかったらしい。

 (......?)

 動かない右腕にやっと違和感を感じて視線を上げると、僕の腕を紺の制服から伸びる手ががっちりとつかんでいた。

 「危険ですので下がってくださいね。」

 「あ......すいませ......。」

 僕がまだ言い終わらないうちに、駅員さんは駅の奥へと消えていった。

 もう何年もこの駅を駅員が巡回しているのを見たことがないのに、今日に限って出会ってしまったらしい。

 『忙しいのに迷惑なことすんなよ。』

 見上げたときの駅員の表情は、そういっているように見えてしまった。

 ほっといてくれたらいいのに。

 飛び込もうとする奴がいたらとりあえず止めとけっていう風潮は一体何なんだ。なんで死んだらだめだってみんな言うんだろう。

 ......でも。

 目の前に迫る電車、飛び込む直前の傾いた体幹。それすらももう経験したくないほど怖かったし、止められたと気づいた瞬間、安堵してしまった自分がいた。

 (情けない......。)

 かろうじて残っていた動く気力もなくなってしまった。倒れこむように座った地面のコンクリートには霜が降りていて、少し触れただけで本当に指先から凍ってしまいそうだ。

 (このまま凍ってゆきだるまみたいに溶けて跡形もなく無くなれたら本望なのに......。)

 意外とこっちの方が上手くいくのかもしれない、と僕はゆっくりと目を閉じた。

 

 (暇だ......。)

 眠ろうと目を閉じても、叩きつける風に容赦なく起こされる。極寒のなか、ただ時間が経つのを耐え続けるのは、昔だったら普通に拷問に使えそうなほどの苦痛だった。

 (あ......。ちょっとぼんやりしてきた......かも?)

 風が落ち着いたのか、それとも自分が麻痺したのか、頭の中がだんだん曇っていく感覚がした。

 (考えるな、頭の中を空っぽにして、そのまま......。)

 できることならこのまま寝て凍死しようと、僕は極力何も考えないようにして、沈みかけている意識を起こさないように細心の注意を払った。そのとき、


 「ね、ねえ大丈夫?」

 (ん......?)

 頭上近くから降ってくる声が、自分に話しかけているんだと気づくのに時間がかかった。肩を揺さぶられても、駅ホームの地面でうずくまって寝ている僕が邪魔なんだろうとしか思わなかったから。

 ふいに、体に何かがかぶさる気配がした。

 (なんか......あったかい......?)

 肩に重みに手をかけると、おおきなコートがかけられていた。思い出したかのように、じんわりと温かさが肌に伝わってくる。おそらく声の主がさっきまで着ていたものだろう。

 「なあどうした......?」

 うっすら目を開けると、やや遠慮がちに声をかけてくる青年と目が合った。説明する気なんかさらさら無いから、無視を決め込むことにする。早く立ち去ってほしいと願いながら、かけられたコートをかじかんだ手でなんとか相手に返した。

 「構わないで。ここの電車は30分に一本しか来ないから、乗るなら早く乗った方がいい。」

 住民ならだれでも知っているような情報をわざわざ付け加えてしまったのは、彼の心配そうな声に、すごく気まずさを感じたからだ。

 

 「えっと、今夜から明日の朝にかけて雪が降るんだって。早く家に帰った方が......。それとも家に帰れない事情でも......?」

 「黙れほっとけよ.....。」

 無視が効かなかったから顔を伏せたまま、なるべく棘のある言い方で返答したのに再びコートをかけられる。もう面倒で、返すことはしなかった。彼が風邪を引いたって、知ったこっちゃない。

 「聞いてた?構わないでって。」

 僕の邪魔をしないでほしい。あと少しで意識を失えそうだったのに、こいつのせいでまた一からだ。 黙って一人にしてほしいと念じた矢先、青年が僕の隣に座る気配がした。

 「せめて隣にいてもいいかい?ほっとけないよ。」

 (は?)

 「よかったら話を聞いたりとか......」

 (いいかげんにしろよ......。)

 お前の自己満足につき合わせるな。心を土足で踏みにじられているような気分になる。もうそんな気力僕には残ってないんだってば!


 そう思ったときにはもう、僕の口は勝手に動いてた。

 「ならあんたは僕を殺してくれる?それが一番僕にとって幸せなんだ。もう一日も生きていたくないんだ。あんたみたいな無駄な正義感持ってるやつが一番迷惑だ......!」

 力の入らない体勢で捨て身で放った大声が、しばらく使わなかった喉をびりびりと震わせる。

 はぁ、はぁ、と息をついた僕は、放った怒声の代償に身構えた。

 ああ、善意を無下にされて怒った相手の去り際の舌打ちか、それかこちらの罪悪感を煽る申し訳なさそうな謝罪が降ってくるだろうな......。

 罵声も、悪意を持った目も、精神をすり減らすには十分だ。本当なら立ち去るか耳を塞ぐのが一番だけれど、あいにくそんな気力体力は僕にはない。

 なんの足しにもならないけれど、とりあえず身構えたところで、


 「......君を殺すことは俺にはできないよ。だけど、俺にできることをさせてくれ。」

 (え?)

 舌打ちの代わりに降ってきたのは、僕が想像したのとは違う答えだった。

 「君のために祈ってもいいか?」

 「......へ?」

 キミノタメニ イノッテモ イイカ ?

 「愛する神様。今こうして......」

 「ちょちょちょ、ちょっと待て、何してる?」

 思わず顔を跳ね上げ、隣を見ると、お兄さんはコンクリートに座って、手を組み合わせていた。うつむいて閉じていたらしい目を開け、「?」という顔をした彼と目が合う。

 「え?普通に、祈ってるんだけど。」

 「え?じゃないって!今更祈りなんか!」

 あっけにとられて、さっきまでの憤りをうっかり忘れてしまった。反射で反論するものの、まだ状況は上手く掴めていない。

 「たのむ!聞くだけでいいからさ。」

 両手を合わせ、お願い、のポーズをされた僕は、やや押され気味にうなずいてしまった。


 「愛する神様。今こうしてあなたが私の祈りを聞いてくださっていること、感謝します。今日こうして彼......。ごめん、名前なんだっけ?」

 「っ?り、凛久りく。」

 続ける彼に不意に名前を聞かれ、とっさに教えてしまう。そう、凛久。こんな暗い目をした僕には似合わない、強くて暖かそうな名前だ。

 「凛久君に出会えたことを感謝します。きっとすごく寒い中ずっと外にいたと思うけれど、どうか風邪とか肺炎とか、凍傷とかにならないように守ってください。

 俺がどんなに願っても、凛久君の気持ちを完全に分かってあげることはできないかもしれない。でも主よ、あなたにはできます。

 今、彼の心に触れてください。苦しみを癒して、傷を覆ってください。あなたにはその力があることを信じます。すぐにでもそうしてくださることを感謝します。

 彼の心の叫びに、声にならない声に耳を傾けてください。あなたの愛を凛久君に示してください。」


 (出会ったばかりの他人のことなのに、よくそんなに話すことがあるな。)

 綺麗に整っていない言葉を、思いを手探りで紡いでいるように見える。まるで、伝わっていると確信しながらも拙く言葉を紡ぐ子供みたいに。

 まだ頭の中にははてなマークが浮かんでいたけれど、嫌な気分じゃなかった。なんだか温かさに似た、不思議な気分。誰かにそんな風に言われたのは初めてだったから。

 『祈り』は終わったらしく、ゆっくりと目を開けた彼と視線が合った。慌てて険悪な雰囲気を纏いなおす。なんとなく、ちょっとでも心が動いたのを気づかれたくなかった。

 「僕、金とか持ってないから。」

 僕がやっと口にできたのは、なけなしの強がりだった。何もしてほしくなかったのに。辛いままにしておいてほしかったのに。そんな理不尽な怒りを持て余してさまよった視線は、コンクリートの割れ目に落ち着いた。

 「......?」

 「祈り代的なやつの請求とかしないでよって意味。」

 「そんなことしないよ!なんで祈りにお金がいるのさー。」

 気を悪くしたような様子もなく、ははっと笑った彼は、

 「君の名前を教えてもらったのに、俺は名乗ってなかったね。俺は祐樹っていうんだ。よかったら、このあと来てほしいところがあるんだけど......。」

 そう言いながら若干体温を取り戻した僕の手に、何かを握らせた。

 固めの紙のざらざらした感触。街灯に透かして見ると、なにやらショップカードみたいだった。


 【coffee shop

        Cold Sky 寒い日の星空

 ・コーヒーとスイーツ 一日の最後に素敵なリラックスタイムを

 ・月火水金土 17:00~23:00 】

 

 「俺、カフェをやってるんだ。」

 申し訳ないけど祐樹さんが若く見えすぎて、店長をやっている想像ができない。コーヒーショップをイメージしようとすると、どうしても髭の紳士が浮かんできてしまう。

 「ふふっ。前の店長から継いだ形になるかな。」

 どうやら考えていたことはすべて顔に出ていたみたいで、祐樹さんはクスクスと笑っていた。

 「でも今日は木曜日じゃ......。」

 カードには、月火水金土とある。木曜日と日曜日は休業日のはずだ。

 「そう、お休み。だから二人の貸し切りにして、あったかいところでちょっとゆっくりしようよ。コーヒーもあるよ。」

 時間はあることはある。そもそも最初の計画では、今頃僕はここにいないはずだったから、予定なんて入れていない。

 普段の僕だったら、"忙しいんで"って一蹴してそれきりだったはずだ。

 でもなんでだか分らないけれど、僕はごく自然に答えていた。

 「行くよ。寒いし。」


         ◇


 カランカラン......

 ベルのついた木製のドアを開けると、冷たい外の雰囲気とは一転、木とコーヒーの香りに包まれた。

 (静か......)

 外と同じくらいの気温なはずなのに、ひんやりした空気がなぜか心地よくて、つい大きく息を吸い込みたくなる。

 「すぐあったまるから待っててね。」

 どこかに行ってすぐ戻ってきた祐樹さんは、カフェエプロンを付けていた。そこに座ろっか、と示されるがままに、暖炉の近くの六人掛けの大きいテーブルに二人だけで座る。

 「まずは温まって、お腹を満たそう。コーヒーは飲める?」

 「あっと......苦いのあんまり......」

 「カフェオレはいける?」

 「あ、いけます。」

 「オッケー作るね。」

 「あの、僕今何にも持ってない......。」

 「代金はいいよ!今日は俺のお客さんってことで。もし気に入ってリピーターさんになってくれたら、次来てくれた時はもらっちゃおうかな?」

 片目を瞑ってカフェの宣伝も忘れない。


 ふう......。

 マグカップにたっぷり淹れてくれたカフェオレを両手で持って、祐樹さんと二人、ほっと息をつく。テーブルの上には焼きたてのクッキー。(生地を作って冷凍してあるらしい。こねるところからスタートかと思っていた僕はクッキーが焼きあがるスピードにすごくびっくりした。)何気なく暖炉の上を見上げた先、壁の高い位置には木製の十字架があった。

 「だいぶ温まってきたね。」

 パチパチと音を立てる暖炉の火が、オレンジ色の店の灯りをゆらゆらと揺らす。彼の言う通り、もう上着なんていらないほど体は温まっていた。

 

 さて、と......。

 僕と色違いのマグカップを両手で包み、コーヒーから上る湯気にあたりながら、祐樹さんは一つずつ語りだした。

 「あのとき僕は反対側のホームにいたんだ。何故か分からないけど、ふと顔を上げたら君が目に入ってきたんだ。君がもう息をすることすら嫌になって、すぐにでも生きるのを止めたいと思ってるのが分かった。でも、俺には君が死ぬ前に伝えないといけないことがあると思って。」

 (僕に?)

 どうやら僕に声をかけたのは、ただの優しさでも生存確認でもなかったらしい。

 「君にそれを知らせないまま死なせてしまったら、君にも神様にも怒られると思ったんだ。」

 

 「君を苦しみから救い出せる人を僕は知っていると思う、いや知ってる。」

 (............!っ?)

 今更揺れてしまう自分が情けない。そんなことしたって、きっときれいごととか馬鹿みたいな前向きな言葉で失望するだけなのに。

 

 「その人は君のために命を捨てたんだ。」

 (いやさすがに心当たりがないぞ。)

 僕の人生にそんな人はいただろうか。親は健在だし、祖父母も健(......ではないかもしれない)在だし、過去に亡くなった友達もいなかったはずだ。なにより僕が知らないような人物のことをどうして祐樹さんが知っているのだろう。

 「その人は、神様とイエス様だ。」

 「イエス様は神様の一人息子。でも2千年前の時代に人間として生まれ、人間として暮らした。それはただ一つの目的のためだったんだ。 『凛久、君を取り戻すためだ。』」

 (......?)

 イエスキリストと言えば、大昔の人物だ。その紀元前後の人物の話に突如として僕がでてきたんだ、狼狽えないことのほうが難しいだろう。

 「神様は世界を創り、人をつくって、それはそれは可愛がっていたんだ。目に入れても痛くないほどにね。でも、ある時から人の心には悪いものが入ってしまった。それが"罪"さ。僕たちはどんなに気を付けても悪いことをしてしまうし、思ってしまう。僕たちの中の罪のせいで、神様は人間と一緒に暮らせなくなってしまった。

 愛する人間たちが悪に溺れて苦しんで、神様のことを忘れ、死んだあとは地獄で苦しみ続ける、そんなのは神様にとって耐えられなかったんだ。そして、人を救うために行動にでた。『最愛の一人息子のイエス様に俺たちの罪の罰をすべて負わせて死なせ、その代わりに人の罪をすべて赦す。』そして、すべてその通りになった。」


 (......だから十字架のイエスキリストの像はいつも傷だらけでぐったりしてるのか......。)

 『僕のために命を捨てた、』というのはこういうことだったらしい。実際には人類のため、の方が正しいのかもしれないけれど。

 でも、へーそうだったんだ、となるほど僕は単純じゃない。「こびとづかんのコビトって本当にいるんだよ!」と言われて「よし探しに行こう!」とはもうなれないのと同じだ。


 「ど、どうしてそれを信じられるんですか?」

 なんで見たこともないのにそんなものを信じる気になったのか、という問いをかろうじてオブラートに包んだ僕は、気を悪くさせないように注意を払って聞いてみた。

 天井を見つめ、しばし思考する祐樹さんを見守ること数秒。

 「うーん神様ならやってのけそうだと思ったんだ。」

 顎をさすり、言われてみれば、と考えた末、彼が出した答えはこうだった。決定的な証拠があるのか、それとも確信にいたる出来事があったのか、とか思っていた僕にはちょっと拍子抜けする感じだったけれど。

 「そこまで誰かを愛するなんて、普通の人なら無理だろうし、当然、世界を創ることも罪を許すことも人間には不可能だ。でも神様だったらできそうじゃないか?」

 んーーーとた、確かに?本当にその存在がいればの話だけど、そんなことができるとすれば神だけかもしれない。


 「何かがあったってわけじゃないんですけど、急に思ったんですよね。『あ、この先僕の人生いいことってないんだな、全部無駄なんだな』って。そしたら何にもする気が起きなくて、ただただ毎日生きることそのものが死ぬほど苦痛になっちゃいました。」

 前触れも文脈も何もなく。

 気づいたら、誰にも言ったことのないことを口にしていた。誰かに心配されるたびに納得してもらえるように適当に作った答えじゃなくて、僕の、本当の感覚を。

 「自分も他人も嫌いになって、生まれてきたことをずっと後悔してました。そんなこと思ったってしょうがないって、励まされることすら嫌で。生きたくないってこんなにも苦しい気持ちなんだって初めて知りました。」

 困らせるのが分かっているから、誰に訴えればいいのかわからなかった気持ち。でも『神様』なら聞いてくれそうな気がしたから、

 (聞こえてる?)

 祐樹さんに打ち明けるのと同時に心の中で、『もう一人』にも打ち明けてみた。


 「凛久、」

 暖炉の炎とコーヒーの匂いに見守られながら、僕が話すこと数分。

 僕の話をずっと黙って聞いていた祐樹さんは、僕がひとしきり話し終えたのを見て、そっと僕の名前をよんだ。

 「君がどれだけ苦しんでいるのか、俺には完全には理解わかってあげられない。でも凛久、一人息子の命を使ってでも救いたいほど愛している君が、このまま絶望の果てに死ぬことが、神様は体が引き裂かれそうなくらい悲しいんだ。」

 (僕を愛している?そんなわけないよ。)

 普通に考えて、神に愛されているなんて言われるのは、すごい野球選手とか、天才的な音楽家くらいだろう。そもそも僕がそんなに愛されているなら、今日までのどん底の日々は何だったんだ。

 そういって跳ね除けようとして......しきれなかった。

 心の中で誰かが記憶の扉をトントンと叩き、気づかなかった、気づこうとしなかった可能性の存在を訴えている。

 なぜ、死にたかったのに今日まで生かされたのか。どうしてあの時間に祐樹さんが僕を見つけたのか。

 遡って生まれてから今まで、僕が忘れていて、目に入れすらしなかった小さなことまで含めて全て偶然じゃなくて計画だったとしたら。

 本当に神様は僕に無関心だったと言えるんだろうか。


 「どうして神様はイエス様の命をもってしてまで凛久君の罪を赦したかったか分かる?」

 (............)

 「君を一人ぼっちで絶望させるなんて、絶対にしたくなかったから。君の心の中に住んで、どんなときも一緒にいたいから。君を悪の支配から取り戻して、守りたかったから。」

 『イエス様が十字架にかかったのは、「人類のため」じゃなくて、「君のため」なんだよ。』

 (......っ)


 「で、でもっ」

 「もったいないよ。僕みたいな奴のために死ぬなんて。そんなこと言われたって僕は何もできないよ。」

 今更そんなこと言ったってどうにもならないのに、言わずにはいられなかった。産んでくれなんて頼んでない、なんていって叫ぶ子供みたいだ。僕なんかのために命をかけたなんて、有難いことのはずなのに、自己否定感の方が大きく膨らんでいく。

 「神様は後悔してると思う?」

 (............あ)

 「俺だって、自分がすごいから救われたんじゃない。心が綺麗だから許されたわけでもない。信じると決めた、ただそれだけだよ。」

 (そっか......。神様は最初から......。)

 『神様』の願いは最初から、「僕」だったんだ。僕が一つの感謝だってしたことがないのに今まで守って、『イエス様』の命をもってしてまで僕の罪を赦した。そして今日、祐樹さんに会わせて、ここに連れてきた。それほどのことをしたのに神様の願いは、「僕が神様の手をとること」だ。それも、これから先も今までよりもっと、僕を近くで守り、愛するために。

 

 「神様は凛久のことを最初から知っている。なんてったって神様が創ったんだからな。凛久の見せたくないところ、嫌いな部分も知ってる。それでいて君がいいと言っているよ。」

 それに、と椅子に体を預けて祐樹さんは僕の目を見た。

 「神様だったらきっとこう言うよ。『そんなのいいから早くわたしのもとに戻っておいで。抱きしめたくて仕方がない。』」

 「......っ」


 祐樹さんの語った話は、普通に考えてあり得ないことばかりだ。簡単にそんな話を信じるなんてできるはずがない。そうやって今まで僕は傷つき、壁をつくり、自分を守ってきた。

 でも。

 『神』『イエス』の想いに触れて、揺らがないなんて無理だ。どうしても思ってしまう。『そんな存在が本当にいればいいのに』って。

 何かが変わるかもしれないのに、踏み出すべきなのかもしれないのに、僕はやっぱり動けない。迷うことすら怖くて、目を逸らそうと窓の方に目をやって......息を、呑んだ。

 (わ......!)

 目に飛び込んできたのは窓の外で煌めく星々。

 すっかり暗くなった灯りの少ない夜の裏通り、寒い夜空のしっとりした空気に、首が痛くなるほど見上げても、なおも無限に広がる星空。

 (綺麗だ......。)

 僕が星空に見とれているのに気付いた祐樹さんが電気を消してくれて、さっきよりもさらに星空が澄んで見えた。その広さに、輝きに、ただただ圧倒される。

 (......あ。)

 そのときストンと何かが腑に落ちた気がした。

 『世界を創った神様なら、常識外の奇跡ができても不思議じゃないかもしれない。』

 

 『神様とイエス様が本当にいるなら、』

 漠然とした感覚だったものが、言葉になって体の中にこだまする。

 『その愛を信じてみてもいいのかもしれない。』


 「祈ろうか、凛久。」

 一人黙り込む僕のことを見守っていた祐樹さんの声が、星の薄明りの中からそっと聞こえた。

 なんだか答えが出たみたいだから、と暖炉で温まったテーブルの上に手を置き、両手を組み合わせる。

 祈り方なんか僕は分からないから、祐樹さんの祈りを復唱する形でぎこちなく、拙く、『神様』に話しかける。


 「僕、さっき初めて神様とイエス......様のことを知ったんだ。」

 そう、本当にさっき。今日のことを昨日の僕に言ったって、信じてもらえないだろう。

 「でも、ずっと神様あなたは僕を見てた。」

 ずっと、自分は一人だと思っていた。

 自分が努力したから成功して、自分が無能だから失敗して。不幸にも生まれてしまったから、死ぬまで生きるしかなくて。

 みんなと同じじゃないと悪いことをしているような気がして、ちょっとでも判断を間違えたときにはこの世の終わりみたいに思えた。


 でもその間、神様は。

 最悪な時も、最高な時も、俺を、愛していた。


 (あれ......?)

 閉じている目が熱くなり、温かい雫が何度も頬を伝う感触がした。声が震え、それを落ち着けるようにゆっくりと息を吐きだす。

 僕が涙を流さなくなったのはいつからだろう。なんで今更、と心の奥で笑おうとしたとき、気が付いた。 どれだけ苦しくても泣けなかったのは、涙を流しても意味が無かったから。誰も僕に興味がないし、泣いたって誰も気にしない。

 一緒に涙を流してくれる人がいなければ、人は泣けないんだ。

 でも、今は違う。

 今まで感じたことのない、温かい気配。心を熱いお湯で満たすように、確かに『寄り添われている』感触に、涙は止まるどころかせきを切ったようにあふれだす。

 「信じるよ。」

 きっと聞こえているだろうけど、ちゃんと聞こえるように、思いを乗せた。

 「僕の心に来てほしい。」


          ◇


 そのころ天界では。

 (......!)

 ある者は何かに気づいたように手を止め、ある者はよく聞こうと耳を澄まして。一人の少年の変化に吸い寄せられるように一人、また一人と地上に視線が集まる。

 そして、

 『僕の心に来てほしい。』

 少年の声が小さな鈴の音のようにリンと響いたその瞬間。


 「「「「「「うおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!」」」」」」


 天が揺れるほどの歓声が沸いた。

 「聞いたか!今の聞いたか!」

 「はい!私も今確かに、彼の心の中にいるのを感じます!」

 「よかったなあ!ほんとによかった!」

 「いやあーめでたい!今日は宴や!」

 神が、天使たちが興奮と驚喜に包まれ、ある者は踊りだし、ある者は隣にいた者と抱き合い、ある者は宴会の用意を始めようとしている。


 天が喜びでお祭り騒ぎに満ちる中。


 胸がいっぱいになるイエスは愛おしげな目で、一人静かに彼の名前を呼んだ。

 「愛してるよ、凛久。」


         ◇


 空高く響く銀琴ハープ金管ラッパの音、離れていても伝わるほどの活気。天界ではまだ宴が続いていた。

 そこに。

 またも"ここにいないはずのモノ"が気配を消して佇んでいた。


 「出てこい。」

 「はは、最初から気づいてたんだろう。カミサマ。」

 恐らく初めから隠れる気などなく、一瞬で神に見破られた悪魔サタンは暗闇から姿を現した。

 今日に限っては、いつもの邪悪な笑みを浮かべる気力もない。本当は早くこの場から立ち去りたいだろう。

 「で、いつにするんだぁ?」

 そこで。

 唐突に悪魔サタンは話題を変えた。

 そちらが本題だと暗に示すように、声音を変え、神の横顔を窺う。

 「......。」

 「来るんだろぉ?『世界の終わり』は。」

 今更隠すなよ、と薄笑いを浮かべる悪魔サタンは、その答えに怯えているかのように神の口元を見つめた。


 「ああ。終わりは来る。」


 「___っ!やっぱりな......!いつだ?!」

 心臓をはねさせ目をかっぴらく悪魔サタンを、その視線の先にある世界にんげんたちを見据え、端然と神は答えた。


 「イエスが来る。もう一度。」

 イエスが再びこの世界まで降りてくるとき。

 今度こそ支配権は完全に悪魔から神に移る。

 天も地も、すべて新しくつくられる。悪魔が支配していたものをすべて滅ぼして。

 災害、戦争、疑心と恐怖を口切りに、あらゆる天変地異がこの世界を揺るがす。

 そして、イエスが2千年前死んで蘇ったのと同じように、かつて神を信じ亡くなった人たちが、この日復活する。

 その日には、すべての人が『裁かれる』。

 人が死後、神の前で裁判の席につき、生前の行いを突き付けられるのと同じように。


 「......はぁ......。いったいいつまで待つつもりなんだあ?イエスが十字架にかかってから2千年は経っただろうに。」

 無意識に止めていた息をゆっくりと吐いた悪魔サタンは、顔色を悪くさせたまま呟いた。

 『その日』がいつかは誰も知らない。分かっているのはその"兆候"と、"いつか必ず来る"ということだけ。

 

 「凛久を見たか。彼はこの世界で罪と絶望ではなく、わたしとともに生きることを選んだ。」

 人間がイエスを信じなければ、本当の意味での救いは成らない。

 2千年も前にイエスは人間の罪をあがなったのに、それを信じる人がいなければ、いったい何のために、誰のために死んだというのだろう。

 すでに神と人との和解は済んでいる。他ならない、イエスの十字架での死によって。

 しかしそれを知らないまま、人々は『時間切れ』になろうとしている。

 だが、今なら間に合う。

 「わたしは諦めきれない。一人でも多くの人がわたしのもとに戻ってくるのを。」

 あと少し。あと一日。

 一日待てばどれほどの人間が救いを手にするだろう。


 現実は、それほど簡単ではない。神に従う人々はよく働き、神のこと、イエスのことを述べ伝えた。だが、誰もが神を信じようとするとは限らなかった。ある者は転ばぬよう足元を見つめ、ある者は目の前の障害に視界を奪われ、ある者は今も自分を縛る過去を凝視する。

 天を仰ごうとする者はわずか。


 「わたしを信頼し、全てを委ね、神の全能の手に守られたいと思う者はいないのか。」

 かみにならすべて任せられると言ってほしい。あなたを狙うすべての悪、追う苦難の手から守らせてほしい。わたしはあなたに、今まで見たこともないような景色を見せたい。


 「イエスが自分の命を捨ててまで人を愛し、救おうとしたことを、受け入れる者はいないのか。」

 知ってほしい。あなたのために命すら惜しまなかったか人は誰かを。そして、あなたにはその価値があることを。

 「すべての罪を許され、過去から、罪から解き放たれようとする者はいないのか。」

 もうすでにイエスがあなたの罪をあがなった。あとは信じて赦されたいと望む、ただそれだけ。わたしにはその権威があるのに。

 「体が死んでもなお、天国でわたしたちと共に永遠に生きることを望む者はいないのか。」

 一切の苦しみが無く、愛と安息と笑いであふれる場所。わたしが両手を広げて待つ場所で。あなたの魂を一番に出迎えて、よく頑張った、これからも一緒だと抱きしめたい。


 「わたしが愛するのと同じくらいわたしを愛し、ともに歩むと決める者はいないのか。」

 あなたを創り、守り、与え、その瞳にわたしが映っていなくても変わらず愛を注ぎ続けた。今日まで一日も絶やすことなく手を伸ばし続けて。

 この手を。

 この手をあなたが掴んでくれたら、どれほどの幸福だろう。愛するだけでなく愛し合えたらどれほどの喜びだろう。


 『神』の願いはただ一つ。

 長い長い『片想い』が『両想い』になること。







 【わたしの目にはあなたは高価で貴い。わたしはあなたを愛している。

 イザヤ書43章4節】

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