03 故障
空は低く垂れ込める層雲に覆われていた。ときおり陽光が雲間からうっすらとのぞく。じめじめとした空気が絶えず身体中にまとわりつき、作業服内部の発汗を促した。六月の中旬、午前の気温は湿度とともに上昇しつつある。まさに梅雨入り、作業現場は酷暑へと続く階段をのぼり始めていた。
工場内の通路を低速で慎重に走らせる。煌希は、リーチフォークリフトの運転席におさまっていた。とはいえ、座席が存在しないため、立ち乗っていると表現したほうが適切だ。マストを前進させ、ストレッチフィルムで巻かれた梱包済み製品パレットに、フォークを差し込む。パレットを持ちあげ、後方確認したのち、走行レバーを手前に倒す。軌道を作業場から反転させ、製品倉庫へと走らせた。
製造工場と倉庫を繋ぐシートシャッターにゆっくりと近づく。センサーが反応し、オレンジ色のシートが上方へと巻きあがった。煌希は製品倉庫内へとリーチを前進させた。
鋼板の支柱で組み立てられたパレットラックと呼ばれる棚が、床面積の端から端まで等間隔で設置されている。見上げるほどの高さに、製品パレットは三段おさまる。始業からこれで三度目だった。ゆっくりとマストを上昇させ、パレットラックの三段目に載せる。フォークを製品パレットから引き抜き、マストを下降させると、煌希はほっと吐息をついた。マストの上昇は、高ければ高いほど操作の難易度が上がり、そのぶん神経を使うのだ。
工場内へ戻ると、プレス機群の打撃音が猛威を振るった。耳をつんざく騒音にも、いまは耐性がついていた。白線で指定された専用置き場にリーチを停める。電源を切り、煌希は床へと降り立った。繰り返しの作業へと戻る無我の境地が、ただ前へと身体を突き動かす。
通路に歩を進める。足取りはいつにも増して軽かった。無我の境地といえど、どうしても頬が緩みがちになる。独り笑いに陥らないためにも、可能な限り平常心に努めた。
本日の日付は、六月二十日の木曜日だ。まだ日中だが、ある意味、イブと称することもできる。明日の金曜日には、いったいどんなイベントが待ち受けているのか。
季節の推移を二十四に分けた二十四節気のなかのひとつ、一年で昼の時間が最長になる日、夏至。その六月二十一日が煌希の誕生日なのだ。
青空の象徴、本格的な夏が始まる素晴らしき日でもあるの。母は得意満面でそう付け加えていた。
歩きながら、工場の高い天井を眺める。心の高揚が急速に半減していった。いまの空模様を思えば、自ずと答えが出る。母の言葉に当時は異論などなかったが、あえていま苦言を呈しよう。夏至は梅雨の真っ只中だ。見上げれば曇天、青空など望めはしない。
それでも、軽い足取りがさらに軽くなったような気がする。抑えつけていた自分の表情筋が、自然と弛緩していく。歩調はまさに弾んでいた。
空を感じる。そう表現するしかなかった。床を踏みしめているのに、その実感が薄い。上空に舞いあがるような浮遊感が全身を包み、心までも上昇させる。鼻孔に、嗅いだことのない高高度の香りが漂いだした。
ふらっと足もとがふらついた。バランスを失いかけ、煌希は我に返った。めまいのような不安定さを身に覚え、とっさに壁に手をついて立ち止まる。
奇妙な浮遊感がまだ体内に残存していることに、思わず微苦笑が漏れた。今週末のソロキャンプ道具買い出し作戦が楽しみだとはいえ、いくらなんでも浮かれすぎている。こんなことで怪我でもしたら、本末転倒ではないか。
数人の怪訝なまなざしがこちらを見つめていた。ぎくりとして、煌希は澄まし顔で足早に歩き出した。まずい、体調不良と勘違いされてしまう。浮遊感が抜けきっていないせいか、足裏に違和感がある。ぎこちない歩き方になりながらも、素知らぬ顔で作業場に舞い戻った。
段ボール箱を閉じるビニールテープの音が、辺りに甲高く響く。四人の男女がせわしなく取り囲む作業台を、一人分空いた立ち位置に回り込む。ひと呼吸置き、積み上げられた部品に手を伸ばした。
ふと、斜め前方の岡田と目が合う。煌希の顔を見つめるなり、彼女は妙な表情を浮かべた。「上之君、どうしたの。顔色悪いわよ」
「えっ」煌希は思わず自分の顔に手を触れた。「本当ですか?」
坂井を含む他のメンバーも同感らしい。みな揃ってうなずいた。
べつだん、不調は感じられなかった。さっきの
坂井が呆れたような顔になった。「なんだ、寝不足かよ」
「はい……」
「でもまあ、体調悪いなら無理すんなよ。早退したっていいんだからさ」
岡田もうなずいた。「無遅刻無欠勤。有給だってほとんど使わない。こういうときぐらい早退して身体を休めてもいいのよ」
仕事のことは気にすんな。体調不良のときはお互い様なんだから。残りのふたりもそう気遣いの言葉をかけてくる。
煌希は戸惑った。明日の誕生日に浮かれて寝不足なだけだ。このまま早退に甘んじるのも悪くないが、なんだか仮病を使っているようで気が引けてしまう。「いえ、全然大丈夫ですよ。寝不足なんてよくあることだし。中身は快調そのものですから」
誰もが心配げなため息を漏らす。
岡田の表情に、やれやれといった諦めの色が浮かんだ。「ほんと無理はしないでね」
はい、とうなずき煌希は作業を再開した。沈みがちになった雰囲気も、すぐに通常の流れに染まっていく。ストレッチフィルムを巻き、製品パレットが完成すると、四度目の製品倉庫へとリーチを走らせた。
午前十時ちょうど、工場内のスピーカーからチャイムの音が響き渡る。十分間の小休憩の時間になった。
煙草の価格高騰により喫煙者は激減した、と周知の事実ではあるものの、ガテン系の喫煙率は依然として高い。工場の片隅にある喫煙所は、男性従業員でごった返している。遠巻きに見ても、煙草のヤニ臭さが漂ってくるようだった。
煌希は自販機で冷たい缶コーヒーを買った。工場の出入り口を出て外壁をたどると、軒下にベンチがある。ここも従業員たちの休憩所となっていた。
ベンチに腰をおろし、缶のプルタブを開ける。よく冷えたコーヒーをひと口含むと、砂糖ミルク入りの味わいが口のなかに優しく広がった。
煌希はほっとひと息ついた。やっと人心地がつく。……なわけもなかった。
全然大丈夫と豪語しただけに、いまさら弱音は吐けない。
体調が急変していた。ひどく気分が悪い。ぴりぴりと痺れにも似た鈍い痛みまでもが、全身に生じているありさまだった。冷や汗が額や首筋に滲み出しているのがわかる。まいった、どうしよう。焦燥に駆られながら、ひたすら自問自答を繰り返す。
そのとき、聞き慣れた男の声が思考を中断させた。「おおっと! そこにいるのはもしかして!」
煌希は顔を上げた。口もとを緩ませた、半笑いの茶髪頭が近づいてくる。
厄介なのが来た、そう思った。それも、いま最も顔を合わせたくないのが。
三つ年上の男性従業員、関根が
関根は、躊躇することなく煌希の真横にどかっと座った。顔をこちらに向け、目を輝かせている。
煌希は無言を通した。特に返す言葉はない。いままでさんざん反論したからだ。
次第に関根の目の輝きが光度を落としてきた。眉をひそめて訊いてくる。「どうした上之。冴えない顔して」
なにを言ってもいじられるに違いない。煌希はそう思いながらも、とりあえずは正直に伝えておくことにした。「なんだか体調が芳しくなくて。吐き気もしてきたし」
妙な間があった。煌希は関根を見た。関根も煌希を見返した。
「つわりか」関根が深刻な面持ちになった。煌希の両肩をがっと掴み、じっと顔をのぞきこんでくる。「誰の子だ!」
あーそうだ、この人は馬鹿なんだ、と煌希は思った。それでも、こんなのでも、会社の先輩であるのことに変わりはない。敬意を表し、オブラートに包んで言ってみる。「相変わらず、関根さんは馬鹿ですね」
関根は鼻でふっと笑った。「褒めんなよ」
ダメージゼロのようだ。煌希は即答した。「褒めてませんよ」
関根も片手に缶コーヒーを持っていた。プルタブを開けて口に運ぶ。「で、それで? 誰の子なんだ」
まだ続ける気か。煌希はうんざりした。「どうしてもそっちの方向に持っていきたいんですね」
「もちろんだ」関根は大きくうなずいた。「これは民意だ。誰もがそれを待ち望んでいる」
煌希はため息まじりに関根を見返した。関根はツッコミを待っているようだ。喜色満面の笑みをこれでもかと浮かべている。
仕方なく煌希は口を開いた。「それ、どこの国の民意なんですか」
「満場一致で可決された案件でもある」
「どこの世界の満場ですか。関根さんの頭のなかだけでしょう」
「俺には見える。芸能界でスターダムにのしあがる上之の姿が」関根は天を指差した。「男の娘部門だけどな!」
煌希は深いため息をついた。なにを言っても無駄なようだ。このひとは病んでいる。それも末期。もう手の施しようもない。「関根さんは、ほんとそればっかりですね。マジで気分が悪くなりましたよ」
「体調不良なら半休して病院に行けよ」関根が穏やかなまなざしを向けた。「お腹の子に障るといけないからな」
「そうですね」と冷めた口調で言っておく。関根には付き合いきれない。煌希が目を向けると、そこは笑うところ、と関根の顔に書いてあった。
呆れてものも言えない。煌希は嫌味を込めてつぶやいた。「関根さんは、お笑い芸人にでもなりたいんですか。そっちこそ会社辞めて、吉本に入ればいいのに」
「違う」関根が今度は、顔を輝かせた。「俺は、スター上之のマネージャーになりたいんだ。俺を養ってくれ!」
目が点になる思いだった。ため息は尽きない。煌希はうなだれ、手にした缶コーヒーを眺めた。全身の痛覚に刺激を感じる。体調は悪化していくばかりだ。
小休憩の十分間は、あっという間に過ぎる。作業再開のチャイムが鳴った。ベンチから立ち上がり、にやついた表情の関根が現場に引き揚げていく。煌希も重い足を引きずって作業場に戻った。
岡田が、さも心配そうに見つめる。坂井も眼鏡のレンズ越しに、不安げなまなざしを投げかけてくる。
煌希のなかに気まずい緊張が走った。心臓が早鐘を打ってくる。つわりのごとく、本当に吐き気を催してしまった。
ただ押し黙り、ひたすら作業を進める。製品パレットが完成すると、煌希はリーチのもとに向かった。ふらつく足もとを悟られないように、軽快なふりをして歩を進める。顔色もかなり蒼白しているに違いなかった。鏡を見るまでもない。周囲の説き伏せるような視線が、それを物語っている。
午前十一時を過ぎたころだった。もう何度目かもわからない製品パレットが完成した。朦朧としてくる意識のなか、煌希はリーチのもとへ向かおうとした。
ところがだしぬけに、岡田が声をあげた。「上之君、顔が真っ青よ! もう帰ったほうがいいってば!」
弱音を吐くに相応しいタイミングだった。というより、もはや我慢の限界でもある。煌希はぎこちない笑いを岡田らに向けてみせた。「やっぱり早退しようかな。はは……」
一同に促され、おぼつかない足取りで上司にその旨を報告しにいく。ふらふらと更衣室で半袖シャツとデニムに着替え、通勤用のリュックサックを肩にかける。工場の玄関口でタイムカードを押し、自転車置き場に向かった。愛車の自転車にまたがり、ペダルを踏み込む。力ない低速運転で工場をあとにする。いろんな意味でのため息がほっと漏れた。
煌希は曇天を仰いだ。悲願はついに達成された。会社の早退に成功したのだ。
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フライングターゲット 浅賀迅 @gajin_fuwari
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