02 構想
埼玉県さいたま市にある金属部品加工メーカー、荻山精機。建築用金属部品をメインに据えて製造を行っている。煌希の配属部署は製造部だった。まだまだ半人前の青二才であるものの、右と左ぐらいはわかるようになったといえる。
大小さまざまなプレス機群が鉄板を打ち抜き、製品を膨大に産み落としていく。金属音が鳴り響く工場内の一角にある作業台で、煌希は立ち働いていた。卓上に
壁掛け時計を眺める。午前十一時を回っていた。もうひと踏ん張りすれば昼休みだ。
十数ヶ所のビス穴のあいた、手のひら大の金属板。端面から三分の一の部分が直角に曲げられている。傷、
再び立ち位置に舞い戻る。目視、箱詰め、ひたすら同じ作業の繰り返し。飽きるといえばそれまでだが、仕事だと割り切れば無我の境地に達することができる。
延々と続く作業のなか、ふと煌希は手を止めた。別のなにかに注意が引き寄せられる。せわしない作業音のなかに、独立した楽曲らしき音色の存在を聞きつけた。どこか既視感を覚える旋律。辺りを一瞥し、聞き耳を立ててみる。
間髪入れず、顔を下に向けた。両頬が膨らみ、ぷっと思わず吹き出してしまいそうになる。
どうやら鼓膜から伝わる音ではないらしい。内なる世界、自身による脳内環境での演奏のようだ。会社帰りにいつも通っている行きつけのスーパーマーケット、その店内で流れているテーマソングだった。
検品梱包は煌希ひとりだけではない。作業台を五人の男女従業員が囲んでいた。みな黙々と作業をこなしている。煌希は周りに目を配り、気づかれないように鼻歌でテーマソングを奏でてみた。
今日はカレーだ、ふんふふふん、明日もカレーだ、ふんふふふん♪
勤務中にあるまじき行為であるのは自覚している。だが無我の境地といえど、瞬間的でもいい、安らぎのひとときを自分に与えないと、辛いだけの仕事なんてやってられない。だから、この衝動を抑え込むのはいまの煌希には不可能だった。少しばかりのノイズなら、プレス機の騒音で掻き消されるだろう。そんなプラス思考までもが頭をもたげる。
そのとき、誰かが左腕をつついてきた。はっとして顔を向けると、傍らで作業をしている垂れ目が特徴的な中年女性、岡田が煌希に微笑みかけていた。「鼻歌、聞こえてるわよ」
鼻歌が呼吸とともにぴたりと止まる。血液が怒濤のように顔面に押し寄せ、煌希は己の赤面を感じ取った。「やっぱり、聞こえちゃいましたか……」
岡田が詰め寄るようにささやいてきた。「どうしたの浮かれちゃって。誕生日が近いからかな」
浮かれているつもりはなかった。安らぎのひとときだとは口が裂けても言えない。煌希は気恥ずかしさを噛み締めてつぶやいた。「そ、そうかもしれませんね。ははは」
煌希は、高校新卒の正社員だった。そして二年目を過ぎた今月、めでたく二十歳の誕生日を迎えるのだ。
岡田が作業する手を休めずにささやき続ける。「誕生日の夜は、もちろん初ビールに挑戦するんでしょ?」
二十歳からはさまざまなことが可能になる。そのなかのひとつ、飲酒、喫煙の解禁だ。べつだん食指が動く事柄でもなかった。しかしながら煌希は思った。苦いと聞くビール。これを制すれば、苦み走った男に近づく。「そうですね。それもいいかも。ついでにケーキも買っちゃおうかな」
「ビールのアテにケーキ? そんなの合うの?」
「わかりません。飲んだことないし」
岡田が短く笑った。「そうよね。これから試すんだもんね」
煌希も笑みに同調した。検品済みの製品を箱のなかにおさめながら、ビールとケーキの相性を想像だけで検証していく。
「あー、そっか。あれかぁ」岡田が急になにかを思いだしたのか、確信したような不敵な笑みを煌希に向けてきた。「可愛い彼女が祝ってくれるんだから、ビールなんかどうでもいいかぁ」
煌希は面食らった。思わず反射的に口走る。「いやだから、彼女なんていませんよ」
蚊帳の外だった残る三人の射るような視線が、煌希の顔に同時に突き刺さった。
二十八歳の先輩男性、坂井が眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、苦々しく言い放つ。「上之、そのツラでいないと言われてもな。説得力なんてまったくねえよ」
岡田も不満げにつぶやいた。「そうよねぇ。そんな綺麗な顔して彼女いないなんて、信じられないわ。フリーだった期間なんてなかったんじゃないの」
「いやいや、誤解ですって。まだ女子と付き合ったことありませんから!」煌希は声を荒らげ、両手を振って全否定した。
誰もが唖然と黙り込んだ。プレス機の稼働音が響く工場内で、検品作業台を囲む五人の間だけに無音が生じる。重苦しいばかりの沈黙が降りかかった。
ふいに顔面が痙攣した。煌希は後悔の念に押し潰されそうになった。どうしてむきになって否定する必要があるのだ。皆が思うままに言わせておくのが、最善の選択ではないのか。
それなのに……未経験(童貞)であることを自ら暴露してしまった。男性陣だけならいざ知らず、女性の前で醜態を晒してしまった。たちまちに恥じらいが表層にのぼり、両手で顔を覆いたくなる衝動に駆られる。
嘘つけ、嘘ばっかり、沈黙が破られ野次が飛ぶ。皆が一様に同じ反応を示した。呆れたように肩をすくめ、冷めた表情で作業を再開する。
拍子抜けだった。誰ひとりとして煌希の心情に気づく者はいない。
「はは……」煌希は引きつる口もとを強引に緩ませた。フェードアウトぎみに語気が弱まる。「彼女いませんから……」
それでも、岡田はちらちらと煌希に視線を送り、本当はいるくせに、と追求のまなざしを幾度も向けてきた。もう苦笑いを返すしかない。
鬱屈したような冴えない気分で作業を押し進める。時間の流れが停滞し、目前だった昼休みが遠ざかっていくようにも思える。手にした製品の外観を眺めながら、煌希は瞬間的な回想に浸った。
臆病、シャイ、腰抜け。並べ立てれば限りない。そう、俗にいうヘタレであると高校の友人たちは太鼓判を捺した。そんなことはないと否定した母も、顔が笑っていた。
いま一度、自分を顧みる。むろん変化などない。むしろ症状は、年齢とともに悪化しているとさえいえる。
自然と口もとが引き締まる。ネガティブな気分を追い払い、厳かに心のなかで復唱した。
ヘタレを克服し、栄光の未来を掴み取ること。密かに作業の手を止め、煌希はそっと目を閉じた。
単独登山のキャンプ泊が若かいときの趣味だったのよ。着想は、楽しそうに語る母の昔話を思い出したことだった。
長年に渡り、苦しみ続けたこの性格。変わりたいと切望するものの、どうしていいかわからず時間だけが過ぎていく。気がつけば十九歳、高校を卒業し社会人になっていた。
強くなりたい。好奇の視線をはねのけ、胸を張って生きてみたい。思いばかりが日々加速していく。
人生においての特大イベントのひとつに挙げられる、成人。二十歳の誕生日が近づいてくる。煌希は決断に迫られた。女々しい過去を払拭し、未来を切り開く瞬間はこのときしかない。
人生観がガラっと変わるわよ。ソロキャンプ、煌希も大人になったらやってみるといいわ。母の声が胸のうちを駆け抜ける。
それは茨の道である。だが、やるべきことは決した。計画を練らねばならない。登山、キャンプ、すべてひとりでやってのける。
毎週アウトドアショップに通い、熟考している。経験も知識もない。その穴を埋めるべく、指南書は毎晩読みふけっている。ショップの棚からキャンプ用具を手に取るたび、まだ見ぬ山々への闘志がメラメラと燃えあがってくる。
大自然のなか、ソロキャンプで己を鍛えあげる。ヤマメの塩焼きを喰らい、月に向かって咆哮をあげる。
強靱なる肉体と不屈の精神が備わった煌希に、誰もが尊敬のまなざしを向けるのは必至だ。もうヘタレだなんて言わせない。女みたいだなんて思わせない。
煌希の胸は高鳴った。気分は、小躍りから盆踊りへと発展する。ついにはサンバを踊りながらガソリンを口に含み、火のついた
「ふはははは!」広がる妄想世界から含み笑いが漏れ出し、現実世界に煌希の高笑いが広がった。
メンバー全員がとっさに顔をあげ、揃って絶句した表情で硬直した。
どんよりと長い数秒の沈黙が流れ、そして破られた。皆が同時に声をあげる。なに、いまの。突然どうしたんだ。マジびっくりしたわ。上之、気でも触れたか。煌希に、一同の奇異な目が一斉に注がれた。
煌希は慌てふためいた。「ち、違うんです。これには深い事情が……」
この事情に、そんな深さは微塵もなかった。漢になりたい。ただそれだけだった。
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