第一話 ②
カフェの二階は、
有真は学校の制服を脱ぎ、制汗シートで汗を拭いてから、〈つねいこい〉の制服であるモカ色のシャツと、黒いスラックスに着替えた。デニム生地のエプロンを着けながら、無意識に鼻歌を歌う。
一年ほど前から、有真の体調は安定している。店員として、そして友人として、やっと櫂をもてなせるのだ。
鼻歌を止めないまま、スキップしそうなほど軽い足取りで階下のキッチンに降りた。すでに育子はパスタを茹でている。有真はその横で、3Ⅾラテアートを作り始める。
育子厳選のコーヒー豆を挽く。話し声が通らなくなるほどの大きな音には、有真は昔から慣れっこだ。
ラテアート作りは、年齢が二桁になったあたりから、カフェが休みの時に、育子に教わっていた。三カ月前、バイトを始めたばかりの頃は、接客をこなすのに手一杯だったが、少し慣れてくればラテアート作りにも手が回るようになった。
まだ、育子のように豆を選ぶことや、通の人も喜ぶようなシンプルかつ味わい深いコーヒーを淹れることはできない。長年の経験と、知識が必要だからだ。だが、幼い頃から詳しい作り方も、コツも、技術も教わったラテアートなら、少し丁寧に作ることを意識するだけで客に出せるほどの腕前になった。有真が働き始めてから、以前よりも高校生の客が増えてきている。
「できた」
有真は呟いた。繊細な作業の末、マグカップの縁に手をかけて顔を出す、かわいらしい猫のラテアートができあがった。
「おっ、かわいくできたじゃない! 今日の第一号!」
横から育子が覗き、有真の脇を突く。
「へへ。ちょっと右耳が小さいけど」
「そうかしら? ちゃんと左右対称に見えるわよ。ほら、早く持っていきなさい。ご飯、櫂くんと一緒に待ってていいから」
急かされ、有真は客席に出た。そこまで広くない店内は、窓際のテーブル席に座っている櫂のもとにも十秒かからずに行ける。
「お待たせしましたー」
店員らしく、それでも親しみを込めた口ぶりで、櫂の前にカップを置く。ところが櫂は、スマホを険しい面持ちで見たまま動かない。
「櫂?」
有真が呼ぶと、ようやく顔を上げた。
「ああ、すまない」
「何かあった?」
「いや……」
浮かない様子でスマホをポケットにしまう。だが、目の前のカップを見ると、再び動きを止めた。
「……かわいい」
いつもの涼しい表情で、硬い声色のまま、息を吐くように呟いた。
「え? あ、ありがとう」有真は照れくさそうにはにかむ。
「これ、お前が?」
「うん」
櫂はカップをソーサーごと持ち上げ、まじまじと見る。
「すごいな」
「そうかな。まだ粗削りだし、もう少し凝ったのをできるようになれたらいいんだけど……」
「卑下する必要はない。昔から作っている話は聞いていたが、これほど良質だとは」
有真はラテアートを、櫂に今、初めて見せた。隠していたわけではないが、昔は育子と作り、すぐに自分で飲んでしまうから、単に見せる機会がなかったのだ。
「よかった。気に入ってもらえて」
櫂はラテアートを崩さないよう、慎重にカップに口をつけ、「味もいいな」と褒めた。
有真は嬉しさに鼻の下を伸ばしながら、エプロンを外し、櫂の向かいに座る。ラテアートを作ったが、まだ厳密には勤務時間ではなく、育子が作るパスタを待つのだ。
入り口のベルがカランコロンとまた鳴った。女子高校生の二人組だ。櫂と有真と同じ学校の制服を着ているが、面識はない。彼女らは育子に案内されるまま、別のテーブルに座った。
「お前、勤務開始は何分後だ?」
「んー、あと三十分くらいかな」
壁掛けのアナログ時計を見ながら有真が答える。櫂は「そうか」と言うと、再びラテを飲む。
「え、やば!」
先ほどの女子高校生の声が、有真たちの耳まで届く。
「しかもこの辺だって。怖ぁ~」
「この街の治安どうなっちゃってるんだろ~」
「ウチらは生き延びようね!」
「うん。絶対だよ」
女子高校生たちは見ていたスマホを机上に伏せ、何やら固い握手を交わしている。
「何かあったのかな?」
有真が呟くと、「恐らくこれだ」と櫂がスマホにニュース記事を表示させ、差し出した。
【消えた? 上半身のみの遺体】
今朝、街見(まちみ)海浜公園を散歩していた老人が、上半身のみになった血だらけの遺体を発見した。すぐに警察に通報したが、捜査している間に遺体はどこかに消えてしまったという。今は海浜公園全体を封鎖し、入念に調べているとのことだ。
「街見海浜公園って、すぐそこじゃん!」
有真はざっと記事を読むと、驚いて顔を上げた。事件現場は、〈つねいこい〉から歩いて三分ほどのところにある。
「今日の昼、ちょうど先ほど出たニュースだ」
「上半身だけって残酷な……。怖いね。櫂、僕たちは絶対生き延びようね」
「そこの女子と同じことを言っている……」
呆れたような目で有真をじっと見た。
「はいはい、お待たせ―」
育子が横から、トマトパスタとロコモコプレートを持ってきて、テーブルに並べる。
「櫂くん、アイスはあとでいいわよね?」
「はい」
「それじゃあ二人とも、ごゆっくり」
ひとつウインクすると、育子はまた厨房に戻っていった。
「……気を取り直して、今は食べようか」
「ああ。料理は熱いうちに食うのが美味い」
二人はいただきますと言って食べ始める。
「……美味い」
「だろ?」
口数はそれほどないが、櫂の手は止まらない。次から次へと口に運ぶ櫂を見て、有真は顔を綻ばせた。
有真が完食、櫂の皿が残り数口分になった時、テーブルに置いていた櫂のスマホが着信した。画面に表示された名前は「喜助(きすけ)」。櫂の保護者だ。
「もしもし。……今、常平のカフェに。……は? そんなメニューなかったぞ」
迷惑そうに耳から少しスマホを浮かせる。『えー!』と叫ぶ電話の音声が若干漏れていた。
「用がないなら切る。……何だ。……そのようだな。ああ、了解。用心する。……あ? 矛盾した要求はやめろ。……ああもう、わかったから切るぞ」
通話を切ると、櫂は盛大なため息を吐き、消耗したように肩を落とした。
「何だって?」
「大した連絡ではない。最近危ないから、早く帰ってこいとのことだ」
「それにしては櫂、不機嫌そうだけど……」
電話でのやり取りを思い出したのか、櫂は窓を向いて頬杖をつく。
「早く帰ってこいと言うくせに、使いを頼まれた。全く、相反する指示はやめてほしい」
有真は「あはは」と苦笑する。「一緒に行こうか? お使い」
「は? お前、これから勤務だろ」
「そうだけど、育子さんに相談したら抜けられるかもしれないし」
櫂は有真を見て、それからカップに残ったラテに目を落とす。中身は半分以上減ったが、ラテアートは少し潰れるくらいで、猫の形を保っていた。
「……いや、平気だ。お前はお前の仕事をしろ。己ならどちらもこなせる」
「そっか。お前、意味わかんないくらい足速いもんな。お使いしても早く帰れるって!」
「さあ、どうだか」
有真は立ち上がり、エプロンを着ける。「じゃあ、僕はバイトに行くね」
「ああ」
アイス持ってくる、と、有真は食べ終わった皿を持ってキッチンに向かった。
「お待たせ」
有真はアイスを出す。櫂の静かで鋭い目が、ほんのわずかに潤い、輝く。
「美味い……!」
口に入れた瞬間、櫂の表情がわかりやすく緩んだ。幼馴染の有真ですら滅多に見たことのない、とろけるような微笑み。大好物の食べ物には、どんなマッサージよりも仏頂面をほぐす効果があるのかもしれない。
元々いた客が会計し、新たな客も来る。有真は次々と、キッチンと客席を往復した。
物騒な報道はあったが、このカフェにはどこ吹く風。万物を焼く太陽の光も、血も、死肉も争いも無縁だ。
「来てくれてありがとう。気をつけて帰れよ!」
櫂が精算し、有真がレジで見送る。
「ああ。料理、ラテ、アイス、全て美味かった。また来る」
出入り口のドアが開き、蝉の大合唱が店内に流れる。ゆっくりと、扉は櫂の姿を隠して閉じていく。完全に閉まれば、再び夏の暑さから隔離された。
すると、戸が外からの風圧でわずかに揺れる。ベルがカランと鳴った。今日はそれほど風が強くなかったから、いきなり突風が吹いたことに、有真は首を傾げる。
「櫂?」
ドアを開けて外を覗いた。櫂はいなかった。店の前を横切る道路は、車も人も通らず、ただ陽炎が揺らめいていた。
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