第一話 ①

 放課後のチャイムが鳴る。ホームルームが終わる。常平有真つねひらあるまは鞄を肩にかけると、廊下側の隅の席をぼんやりと眺めた。そこは、空席。席の主は、放課後になってすぐに帰ったわけではない。今日は元から、欠席しているのだ。

「常平」

 背後で静謐な男の声がした。

かい

 振り向けば、藍川あいかわ櫂が立っている。ストレートの髪を目に触れるギリギリまで垂らし、髪と同じ藍色の瞳は、海の底のように静かで、真っ直ぐだ。有真とは六歳の頃からの付き合いで、いわゆる幼馴染である。

「どうかしたか?」櫂は先ほどまで有真が見ていた方向にチラリと視線を向けた。

「ああ! 別に大したことないよ。桃実さんは今日も休みだったなーと思っただけ」

 廊下側の隅の空席は、桃実とわという女子生徒のものだった。

「そうか」

「テストの日はさすがに来てたけど……」

「テストは来ていたのか」

「え、お前見てないの?」

 櫂は目を逸らし、短くため息を吐いた。

「話したこともない他人の事情に興味はない」

「わあ、冷たい。一応クラスメイトなのに。まあ、僕も話したことないけど」

「心配なのか?」

 有真は目を伏せた。髪と同じ白い睫毛が影を作る。

「心配、だね」

 エメラルドグリーンの瞳は、どこを見るでもなく、憂いを纏い、揺らぐ。

 櫂はその様子を無言でじっと見守り、息を吸った。

「誰も彼もに心労をかけていては、いずれ身を滅ぼす。お前らしいが、優しすぎるのもよくない」

 仏頂面で、冷たく鋭く言った。

「ふふ。ありがとう」

 しかし、櫂に反して有真は微笑んだ。二人は教室の後ろの扉から、生徒で賑わう廊下に出る。

「なぜ感謝する?」歩きながら櫂が聞く。

「櫂なりに、僕を心配してくれたんだろ?」

 有真は微笑みを隠さない。嬉しさが顔だけに留まらず、体中から滲み出ている。まるで昼下がりの花畑だ。

「はぁ……」と櫂は呆れたように目を背けた。「ニヤニヤと気色悪い」

「急にひどくない?」

 二人は階段を降り、昇降口で靴を履きかえ、外に出る。

 その瞬間、熱気と蝉の大合唱が二人を包む。真上に昇った太陽は容赦なく照り、緑の葉も、クリーム色の校舎も、黒いアスファルトまで、世界の全てを輝かせている。

「暑いね~」

「全くだ」

 有真はワイシャツの襟を扇ぐ。彼の白銀の短髪はそよ風になびき、光を透かしていた。櫂は玉のような汗を首筋に流す。水筒を取り出してゴクゴク飲んだ。

「そうだ! 櫂、このあと時間ある?」

「ああ。今日は暇だ」

「じゃあ、今お金持ってる?」

「金銭の貸し借りはあまり好まない」

「貸せってわけじゃないよ! 僕の店でご飯食べない?」声を弾ませ、有真は言う。「今ならちょうどランチタイムだし、お前の好きなアイスもある!」

 どう? と有真は櫂に迫った。エメラルドの目が南国の海面のようにキラキラ輝く。有真は叔母が経営するカフェでアルバイトをしていて、これから昼食をとったあと、シフトに入る予定だ。

 櫂は立ち止まり、気圧されて顎を引いた。

「誘うような言いかただが、仕事の邪魔にならないか?」

「ならないよ。一緒に食べよう!」

 有真は櫂の手首を引き、足音を立てて駆け出した。

 燦々と降り注ぐ陽光も、騒々しく鳴き盛る蝉も、彼らの日常を彩る舞台装置だ。肌を流れる汗は、走るうちに炭酸水のように弾ける。高校生という儚い一瞬は、色濃い無敵の期間だ。

「ただいまー!」

 カランコロンと小気味よい音が鳴る。カフェ〈つねいこい〉の扉が、有真の手で開かれた。

「おかえり~!」

 カウンターの向こうのキッチンで、茶髪を一つ結びにした女性が快活な笑みを浮かべた。客は地域の人が二、三人ほど。ランチタイムといっても、メインの客層の高校生が来るのはもう少しあとだ。

「あら、櫂くん! 久しぶりじゃない!」

「お久しぶりです。と言っても、二年ぶりでしょうか」

「そんなものかしら? だとしても、顔つきがちょっと大人っぽくなったんじゃない?」

 座って、と育子は二人をテーブル席に促す。櫂は決まり悪そうに目を泳がせながら、有真と向かい合って座った。

 外とは打って変わって冷房が効いた店内は、ギラついた太陽を異世界に思わせるような極楽空間だった。焦げ茶色の木目調の壁と床、天井にはシーリングファンが緩やかに回っていて、部屋の隅には観葉植物が鉢植えされている。弾むようなジャズピアノが控えめに流れ、道路に面した大きな窓は直接陽光を入れはしないが、明るさを取り入れていた。

「さあ、何食べる?」

 育子がメニュー表とお冷をテーブルに並べる。櫂は水を一気に飲み干した。

「僕はまかないのトマトパスタで!」有真がメニューを見ずに即答した。

「はいはい。櫂くんは?」

おれは……」

 空のグラスを置いた櫂は一ページずつメニュー表をめくり、順番に隅々まで見る。

「おすすめはね、期間限定のマンゴーフロートと、ご飯メニューならロコモコかな。どれも育子さんのこだわりたっぷりなんだ」

 有真がおすすめをベラベラと喋る。

「ちょっと有真。そんなに一気に言ったら櫂くん困っちゃうじゃない。ちなみに一番のおすすめはやっぱり、3Ⅾラテアートよ。今の時期はちょっと暑いけど、有真の十八番メニューなの」

 得意げに話し、甥の頭をがしがしと撫でる育子。有真は「そんなことないよ~」と照れた。櫂は二人をチラリと見て、何ごともなかったように再びメニューに目を落とす。涼しい表情は変わらない。

「では、ロコモコプレートと、3Ⅾラテアートをいただこう」

「アイスは?」

「バニラを一つ」

「ラテは甘くする?」

「頼む」

 有真の追加質問に櫂はテンポよく答えていく。

「了解! ちょっと待ってて!」

 荷物を持って店の裏へと消えた。育子はクスッと笑うと、「あの子、ずっと櫂くんを店に呼びたがってたから、ちょっとはしゃいでるわね」と慈しむ表情をした。

「来てくれてありがとう、櫂くん」

 櫂は「いえ」と短く返事をし、ポケットからスマホを取り出した。

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