第10話 歌が聞こえる

 次の訪問、私は一人で佐々木さんの家に向かった。

 インターホンを押す。

 今日は、娘の真由美さんがいる日だ。

 

「どうぞ」

 ドアが開く。

「お母さん、リハビリの先生よ」

「まあ、いらっしゃい」

 

 和子さんは、いつもの笑顔で迎えてくれた。

 もちろん、私のことは覚えていない。

 

「初めまして。水野と申します」

「よろしくね」

 

 今日も、同じようにリハビリを始めた。

 立ち上がり、歩行、バランス訓練。

 和子さんは、素直に取り組んでくれる。

 

 ひと通り終わって、休憩していると、和子さんが突然、歌い始めた。

 

「赤とんぼ、赤とんぼ」

 

 童謡だ。

 和子さんの声は、澄んでいて、優しい。

 

「佐々木さん、歌、お好きなんですか」

「ええ、昔からね」

「上手ですね」

「ありがとう」

 

 和子さんは、嬉しそうに笑った。

 

「この歌、よく歌ったのよ」

「そうなんですか」

「子供たちにね。寝かしつけるとき」

 

 和子さんの目が、遠くを見ている。

 昔を思い出しているんだろうか。

 

「三人いたのよ。子供が」

「三人も」

「ええ。みんな元気に育ってくれてね」

 

 和子さんは、穏やかに語った。

 認知症で、さっきのことは忘れてしまうけれど、昔のことは覚えている。

 子供たちのこと。歌のこと。

 

「もう一曲、歌ってくれますか」

「いいわよ」

 

 和子さんは、また歌い始めた。

 今度は、「ふるさと」。

 

「兎追いし、かの山」

 

 私は、静かに聞いていた。

 和子さんの表情は、幸せそうだった。

 

 歌が終わると、和子さんは少し照れたように笑った。

「久しぶりに歌ったわ」

「素敵でした」

「ありがとう」

 

 その時、真由美さんが台所から出てきた。

 目が赤い。泣いていたんだろうか。

 

「先生、ありがとうございます」

「いえ」

「母が歌うの、久しぶりに聞きました」

「そうなんですか」

「ええ。認知症になってから、歌わなくなって」

 

 真由美さんは、ハンカチで目を拭いた。

 

「昔は、いつも歌ってたんです。家事をしながら、庭仕事をしながら」

「そうだったんですね」

「でも、最近は。何もかも忘れてしまって」

 

 真由美さんの声が震えた。

 

「私のことも、時々わからなくなるんです。娘だって」

「...」

「それが、辛くて」

 

 私は、何と言っていいかわからなかった。

 

「でも、今日、歌を聞いて。ああ、母はまだここにいるんだって思いました」

 真由美さんは、涙を流しながら笑った。

 

 和子さんは、娘の様子に気づいていないようだった。

 また、小さく歌を口ずさんでいる。

 

 私は、中村さんの言葉を思い出した。

 記憶はなくなっても、感情は残る。

 心は、覚えている。

 

 和子さんにとって、歌は特別なものなんだ。

 子供たちとの思い出。

 幸せな記憶。

 

 それは、認知症になっても消えない。

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