忘れても、心は覚えている

第8話  新しい患者さん

 五月の終わり。私が訪問看護ステーション「ひまわり」で働き始めて、二ヶ月が経った。

 田中さんとのリハビリは順調に続いている。週に二回の訪問で、今では小さな木工作品を次々と作れるようになった。

 そして今日、私は新しい患者さんの訪問に向かうことになった。

 

「水野さん、今日は佐々木さんのお宅に中村さんと一緒に行ってもらいます」

 朝のミーティングで、吉田所長が告げた。

「はい」

「佐々木和子さん、八十五歳。アルツハイマー型認知症で、中等度です」

 

 認知症。

 私は、少し緊張した。

 専門学校で学んだけれど、実際に認知症の患者さんを担当するのは初めてだ。

 

「独居ですが、娘さんが週に二回訪問されています。訪問看護とリハビリ、両方入ってます」

「わかりました」

 

 ミーティング後、中村さんが声をかけてきた。

「あかりちゃん、認知症の方は初めて?」

「はい」

「大丈夫。一緒に行くから」

 中村さんは、いつもの明るい笑顔で言った。

 

 午前十時。私たちは佐々木さんの家に向かった。

 小さなアパートの二階。古い建物だけど、手入れはされている。

 

 インターホンを押す。

「はい」

 女性の声。娘さんだろうか。

「訪問看護とリハビリのひまわりです」

「あ、どうぞ」

 

 ドアが開く。

 出てきたのは、五十代くらいの女性。少し疲れた表情をしている。

「いつもありがとうございます」

「こちらこそ。今日は新しいスタッフも一緒です」

「初めまして。理学療法士の水野あかりです」

「よろしくお願いします。佐々木真由美です。母の娘です」

 

 部屋に入ると、リビングに一人の女性が座っていた。

 佐々木和子さん。

 小柄で、白髪をきれいに結んでいる。穏やかな顔立ちだ。

 

「お母さん、看護師さんとリハビリの先生が来たわよ」

 真由美さんが声をかける。

「まあ、いらっしゃい」

 和子さんは、にこやかに笑った。

 

「こんにちは、佐々木さん」

 中村さんが明るく挨拶する。

「こんにちは」

 和子さんは礼儀正しく返事をした。

 でも、中村さんのことを覚えていないようだった。

 

「今日は新しい先生も一緒なんです。水野さんです」

「まあ、初めまして」

 和子さんは、私に笑顔を向けた。

「初めまして。水野あかりです」

「よろしくね」

 

 中村さんは、慣れた様子でバイタルチェックを始めた。

 血圧、体温、脈拍。

「今日も調子いいですね」

「ええ、おかげさまで」

 

 私は、和子さんの様子を観察していた。

 表情は穏やか。言葉もはっきりしている。

 一見すると、認知症だとは思えない。

 

「じゃあ、リハビリをお願いします」

 中村さんが私に言った。

「はい」

 

 私は、和子さんの隣に座った。

「佐々木さん、今日は一緒に体を動かしましょう」

「はい」

「まず、立ち上がってみましょうか」

「ええ」

 

 和子さんは、ゆっくりと立ち上がった。

 少しふらつくけれど、問題なく立てる。

「歩いてみましょう」

「どこに?」

「リビングを一周しましょう」

「はい」

 

 和子さんは、私と一緒にゆっくり歩いた。

 歩行自体は問題ない。

 バランスも悪くない。

 

 リハビリは順調に進んだ。

 三十分ほどで、一通りの運動を終えた。

 

「ありがとうございました」

「いいえ、こちらこそ」

 和子さんは、にこやかに答えた。

 

 真由美さんがお茶を出してくれた。

「ありがとうございます」

 

 少し休憩していると、和子さんが私を見て言った。

「あなた、初めて会うわね」

「え?」

 私は、戸惑った。

 さっき、自己紹介したばかりなのに。

 

「初めまして。どなた?」

 和子さんは、本当にわからないようだった。

 

「お母さん、さっき紹介したでしょう。リハビリの水野先生よ」

 真由美さんが説明する。

「まあ、そうだったの。ごめんなさいね」

 和子さんは、申し訳なさそうに笑った。

 

 これが、認知症なんだ。

 さっきまで一緒にリハビリをしていたのに。

 もう、忘れてしまっている。

 

 私は、複雑な気持ちになった。

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