第4話 二回目の訪問
三日後、私は一人で田中さんの家に向かった。
自転車を漕ぎながら、何を話そうか考える。
天気の話。テレビの話。桐島さんが言っていた。
でも、いざとなると何も思いつかない。
田中さんの家に着く。
深呼吸をして、門を開ける。
インターホンを押す。
「はい」
奥さんの声。
「訪問リハビリのひまわりです。水野です」
「あ、どうぞ」
玄関で靴を脱いで、手を消毒する。
奥さんが出てきた。
「今日は桐島さんは」
「今日は私一人です」
「まあ、大丈夫」
「はい、大丈夫です」
そう言いながらも、心臓はバクバクしている。
居間に向かう。
田中さんは前回と同じように、車椅子に座ってテレビを見ている。
「田中さん、こんにちは」
私は明るく挨拶する。
田中さんは顔だけこちらに向けた。
「...ああ」
また、小さな返事。
私は田中さんの隣に座った。
テレビでは、野球中継をやっている。
「野球、お好きなんですか」
「...まあな」
「どこのチーム、応援してるんですか」
「...巨人」
少し会話ができた。
嬉しくなって、続ける。
「巨人、強いですよね」
「...昔はな」
「昔」
「...今は、だめだ」
田中さんの声に、少し感情が混じった。
これだ。これが大事なんだ。
「田中さん、昔からずっと巨人ファンなんですか」
「...ああ。子供の頃から」
「じゃあ、もう何十年も」
「...そうだな」
田中さんは少し、表情が緩んだ気がした。
「現役の時は、よく球場に行ったもんだ」
「球場に」
「息子を連れてな。東京ドーム、何回行ったかわからん」
「息子さんと」
「ああ。あいつも野球が好きでな」
田中さんが、自分から話し始めた。
私は黙って聞く。
「でも、あいつ、今は忙しくてな。孫も連れてきてくれない」
「お孫さん、おいくつなんですか」
「小学生だ。男の子が二人」
「野球、好きなんですか」
「さあな。会ってないから、わからん」
田中さんの声が、少し寂しそうになった。
「孫に会いたいんですね」
「...まあな」
田中さんは、また黙り込んだ。
私は、奥さんの方を見た。
奥さんは台所で、こちらをちらっと見ている。
「田中さん」
「ん」
「お孫さん、今度会えるといいですね」
「...無理だ」
「なんでですか」
「こんな体じゃ、孫に会わせる顔がない」
田中さんの右手が、ぴくりと動いた。
「昔は、孫と野球やったんだ。キャッチボールしたり、バッティング教えたり」
「へえ」
「でも、もう無理だ。右手が動かない。立つのも大変だ。こんな姿、見せたくない」
田中さんの目が、少し潤んでいた。
私は、何と言っていいかわからなかった。
頑張りましょう、とは言えない。
大丈夫です、とも言えない。
ただ、黙って聞いていた。
「あんたには、わからんだろうな」
田中さんが言った。
「昨日まで普通にできたことが、今日は全然できない。そんな気持ち」
「...はい。わかりません」
私は正直に答えた。
「でも、わかろうとすることはできます」
田中さんは、私を見た。
初めて、ちゃんと私を見た気がした。
「田中さんは、お孫さんとまた遊びたいんですよね」
「...ああ」
「じゃあ、一緒にそれを目指しませんか」
「無理だって言ってるだろう」
「無理かどうかは、やってみないとわかりません」
田中さんは黙った。
「田中さん、右手は動かなくても、左手は動きますよね」
「...まあな」
「キャッチボールは難しくても、他に何かできることがあるかもしれません」
「...」
「一緒に考えませんか。お孫さんと、また何かできること」
田中さんは、しばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「...考えてみる」
私は、少しほっとした。
「今日は、リハビリはいいです。また次回、お願いします」
「...ああ」
奥さんが見送ってくれた。
「ありがとうございます。あの人、少し話してましたね」
「はい。野球の話とか、お孫さんの話とか」
「そうですか」
奥さんは、嬉しそうに笑った。
「あの人、孫のこと、本当に大事にしてたんです。会えなくなってから、ずっと塞ぎ込んで」
「そうだったんですね」
「また、会えるといいんですけど」
私は、何か言いたかったけれど、何も言えなかった。
ただ、頷いて、田中さんの家を後にした。
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