第3話 焦りすぎた
しばらく黙って自転車を漕いでいたけれど、私は我慢できなくなって声をかけた。
「あの、桐島さん」
「ん」
「私、何か間違えましたか」
桐島さんは自転車を止めて、私の方を見た。
「間違えてない」
「でも、田中さん、全然やる気がなくて」
「ああ」
「どうしたらいいんでしょう」
桐島さんは少し考えて、言った。
「焦るな」
「え」
「お前は焦りすぎた」
「焦り、ですか」
「ああ。リハビリをやらせようとしすぎた」
「でも、リハビリしないと」
「それは正しい。でもな、田中さんにとって、今はそれどころじゃないんだ」
「それどころじゃない」
桐島さんは自転車を押しながら歩き始めた。私もついていく。
「田中さんはな、一年前まで普通に歩いてた。右手で字を書いてた。孫と遊んでた」
「はい」
「それが突然、何もできなくなった。右手は動かない。歩くのも大変。言葉もうまく出ない」
「...」
「そんな状態で、リハビリ頑張れって言われても、心がついていかないんだよ」
私は黙って聞いていた。
「お前が悪いわけじゃない。教科書通りだ。でもな、教科書に書いてないことがある」
「何ですか」
「患者さんの気持ちだ」
桐島さんは立ち止まって、私を見た。
「田中さんがなぜリハビリを拒否するのか。なぜやる気がないのか。それを知らないと、いくら技術があっても意味がない」
「どうやって知るんですか」
「話を聞く。ただ、聞く」
「話を」
「ああ。リハビリの話じゃない。その人の話だ。何が好きで、何が嫌いで、何をしたいのか。そういうことを知らないと、本当のリハビリはできない」
私はノートにメモを取りたくなったけれど、やめた。
これは、メモに取るようなことじゃない。心に刻むことだ。
「次の訪問は、お前一人で行け」
「え、一人ですか」
「ああ。俺がいると、田中さんはお前を見ない。お前が一人で行って、話を聞いてこい」
「何を話せば」
「何でもいい。天気の話でもいい。テレビの話でもいい。とにかく、田中さんの声を聞け」
私は不安だったけれど、頷いた。
「わかりました」
「焦るな。リハビリは、そこから始まる」
桐島さんは自転車にまたがって、また漕ぎ始めた。
私も慌ててついていく。
ステーションに戻ると、中村さんが声をかけてきた。
「あかりちゃん、どうだった」
「難しかったです」
「そうよね。田中さん、頑固だから」
「でも、桐島さんが教えてくれました。話を聞くことが大事だって」
「そうそう。それが一番大事」
中村さんは笑顔で言った。
「私たち看護師も同じよ。処置だけじゃなくて、患者さんの話を聞く。それで信頼関係ができる」
「信頼関係」
「そう。信頼がないと、どんなに正しいことを言っても届かないから」
私は記録を書きながら、今日のことを振り返った。
田中さんの無表情。拒否の言葉。
でも、それには理由がある。
私はそれを知らなかった。知ろうともしなかった。
次の訪問は三日後。
今度は一人で行く。
緊張するけれど、やってみよう。
田中さんの話を、ちゃんと聞いてみよう。
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