第2話 田中さんのお宅

 住宅街を抜けて、少し古い家が並ぶ地域に入る。

 桐島さんは迷いなく道を進んでいく。私は必死について行く。

 十分ほど走って、一軒の古い家の前で止まった。門には表札が出ている。「田中」。

 

「ここだ」

 桐島さんが自転車を降りる。私も降りて、深呼吸をする。

 初めての訪問。初めて会う患者さん。

 桐島さんが門を開けて、玄関に向かう。私も後に続く。

 インターホンを押す。

 

「はい」

 女性の声。少し疲れたような声だ。

「訪問リハビリのひまわりです。桐島です」

「あ、はい。どうぞ」

 玄関のドアが開く。

 出てきたのは、七十代後半くらいの女性。田中さんの奥さんだ。小柄で、少しやつれて見える。

 

「いつもお世話になっております」

 桐島さんが軽く頭を下げる。

「こちらこそ」

 奥さんが私に気づく。

「あら、新しい方ですか」

「はい。水野あかりと申します。今日から同行させていただきます」

 私は丁寧にお辞儀をする。

「まあ、若い方ね。よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

 

 玄関で靴を脱いで、手を消毒する。奥さんが廊下の奥を指さす。

「あの人、居間にいます」

「ありがとうございます」

 桐島さんについて廊下を進む。古い家特有の、木の軋む音がする。

 居間のふすまが開いている。

 そこに、田中さんがいた。

 

 車椅子に座って、テレビを見ている。八十代とは思えないほど、背筋がしっかりしている。でも右手は膝の上に力なく置かれていて、右足も少し内側に傾いている。

 脳梗塞の後遺症。右片麻痺。

 資料で読んだ情報が、目の前に現実としてある。

 

「田中さん、こんにちは」

 桐島さんが声をかける。

 田中さんは顔だけこちらに向けた。無表情だ。

「...ああ」

 小さく返事をして、またテレビに視線を戻す。

 

 私は緊張で心臓がバクバクしている。

 どう声をかけたらいいんだろう。

 

「田中さん、今日は新しいスタッフが一緒です。水野さんです」

 桐島さんが私を紹介してくれる。

「は、初めまして。水野あかりです。よろしくお願いします」

 私は笑顔で挨拶する。明るく、元気に。専門学校で習った通りに。

 でも、田中さんは私の方を見ることもなく、テレビを見続けている。

 

「...」

 気まずい沈黙。

 どうしよう。

 桐島さんは何も言わず、田中さんの横に座った。

 

「今日の調子はどうですか」

「...変わらない」

 ぼそっと答える田中さん。

「そうですか。じゃあ、いつも通りやりましょうか」

「...」

 返事はない。

 

 桐島さんは気にした様子もなく、立ち上がった。

「田中さん、立ってみましょう」

「...やだ」

「そう言わずに」

「やだ」

 はっきりと拒否された。

 

 私は戸惑う。どうするんだろう。説得するのかな。

 でも桐島さんは、それ以上何も言わなかった。

 

「わかりました。じゃあ今日は座ったままでできることをやりましょう」

 桐島さんはそう言って、田中さんの右手を優しく持ち上げた。

「肩、動かしますね」

「...」

 

 桐島さんは淡々とリハビリを進めていく。肩の運動、肘の運動、手首の運動。田中さんは無表情のまま、されるがままになっている。

 私はただ見ているだけだ。

 何もできない。何を言っていいかわからない。

 

 十五分ほどで、桐島さんは手を止めた。

「今日はここまでにしましょう」

「...」

 田中さんは何も言わない。

 

「また次回、お願いします」

 桐島さんが声をかけると、田中さんは小さく頷いた。

 

 奥さんが玄関まで見送ってくれる。

「すみません、あの人、最近ずっとあんな調子で」

「大丈夫ですよ。少しずつやっていきましょう」

 桐島さんが優しく言う。

 

 自転車にまたがって、二人で田中さんの家を後にした。

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