第3話


「やめてやれ、女」


 白い札に意識を向けていた舞衣の横から――悟空の蹴りが突き刺さった。

 草履だった分、まだマシだが……男からの容赦ない蹴りだ。

 ――あ。

 視界が、一瞬で真っ赤に染まった。


「おいッ、女の子だぞ!!」


 宙を舞う札を切り捨て、倒れた舞衣に駆け寄った。

 両手で掴んだ札もいらない……そんなことよりも、だ。


 ……この子を庇うように、孫悟空と向き合う。


「蹴ってんじゃねえ」

「悟……にぃ、……っ」


「オレが生きた時代じゃあ、男も女も平等だったぜ……平等に死んでた。それがいつの間にか男が上で女が下になり、今じゃ塗り替えられつつあるんだろ? 平等って形でよ……だからオレの時代へ追いついた……いいや、戻ったのか? 男女平等。だったら蹴って問題はねえはずだが?」


「常識の話はしてねえ」

「んだと? ウキキっ、じゃあオマエは、一体なんの話をしてんだよ」

「男としての――信念の問題だ」


 女に手を上げる? 論外だ。足を出すのだってダサい。

 どんなやり方であれ、女性に――ましてや年下の女の子を傷つけるなんて、最低最悪の行為だ。理由があろうと許されることじゃない。違うのかよ。


「女に手を出す男がかっけぇのかよ、孫悟空!!」

「……その名は捨てたんだ、呼ぶんじゃねえよ……。オレはッ、岩戸の山猿だ! 大層な名前でオレを縛ってんじゃねえぞ!! 反吐が出るぜ……!」


「名で、縛る、から……嫌がるんだね……」


 頬を手で押さえた舞衣が体を起こした。

 すぐにでも支えてやりたいが、孫悟空を……いいや、岩戸の山猿を見ていなければならない。

 舞衣を見たいが、今はこいつから目を離すな。


「孫悟空……ね。人からの見え方で妖怪は強さが決まる、こともある……、大層な名前なのに嫌がるのは、対策されることを嫌うから……? それとも縛られたくない、から……? 山猿なら、自由度は上がる、ものね……」


「女ァ……少し黙っとけ」


「おい、山猿……女を蹴るな、殴るな。言わなきゃ分からないのかよ……やるんだったらおれにしろ、おれが全部、受け止めてやる――」


「……いいぜ、その意気、受け取ってやる。封印から目覚めた寝起きの体操にはちょうどいい!」


 如意棒を振り回し、巻き起こった風で周囲の樽や棚が倒れた。

 腕力と、風圧だけで、地形を変える強さが彼にはあるのだ……さすが、妖怪。


「多少打たれ強い自信があるのかもしれねえが、堪えられると思うか? オレは、妖怪なんだぜ――妖怪(ばけもん)の力を侮るなよ」


「ッ」


 山猿が踏み込んだ、その時だった。



「バカ猿!!」



「あぁ?」

「あんたの好きにはさせない! ……だから、これは苦肉の策なの……!!」


 舞衣が取り出したのは一枚の……白い札だった。

 宙に舞うどの札とも変わらない、同じような白い札。

 山猿も訝しんで、眉をひそめて白い札を注視していた。


「なにしてんだ? その札がどうしたって?」

「これはね、闇よ」


 闇? おれは知識がないのでなにも分からなかったが、山猿は違うようだった。

 明らかに動揺を隠し切れず、嫌な汗を顔に浮かべて意識が完全におれから外れた。


「おい、テメエ……ざけんな。それを破るんじゃねえぞ――バカなことはやめろ」


「破ったら、もちろん出てくるよ。一つ目悪食の、闇がね」


 ――”一つ目悪食の、闇”……?

 あの山猿でさえ怯える妖怪が、その札に封印されているのか?


「時間差がある分、危険度は低いけどね……でも、妖怪でさえ飲まれたら終わり。その存在は完全に抹消される」

「テメエらも例外なく、食われたら終わりだぞ…………分かってんのかよッ!!」


 動揺する山猿と比べ、舞衣は……冷静だった。冷静には、見えている……でも。

 札を掴む手が震えているのが分かった。

 おれは、舞衣の手に、そっと手を添えてやる。

 落ち着け――おれもいる。

 舞衣はひとりじゃない。


「……うん。――あんたらに好き放題されるくらいなら共倒れがいい……だから一緒にいこうよ、バカ猿ちゃん」

「このクソガキがァ!!」


 ――びりりィッッ!! と、白い札が破られた。

 すると、一瞬で大量の黒煙が溢れ出てくる。

 その煙はあっという間に倉庫内を黒く染め、壁の大穴から外へ飛んでいった。


 周囲が暗くなる――煙が雷雲となり、島を囲っていたのだ。

 そして、一瞬だけ、真上からおれたちを見下ろしていた――


 その見た目はおれでも知っている妖怪だ……確か……(バックベアード)……だっけ?


 雷雲のような闇が……巨大な一つ目を細め、にやぁ、と、白い歯を見せながら歪んだ……笑ったのだ。


 そして。

 ――黒煙が島の真下へ移動した。



 脅威が去ったように空は晴れ、清々しい気分になりそうだが、まだ終わっていない。

 知らぬ間に脅威はどんどんと迫ってくるのだろう。そういう妖怪なのだ。


 真下にいるであろう闇は、時間をかけてゆっくりと、島ごと、おれたちを食ってしまうのか。

 その答えは汗びっしょりになった山猿を見ればよく分かる。

 あの孫悟空でさえ怯える相手……なのだから。

 これで終わりなわけがない。


「正気かよテメェ……! 島の人間、全員の命を巻き込みやがってェッ!!」

「……なんとかするつもりよ。全員を道連れは、さすがにあたしだってしたくないし」


「できんのかよ! 相手は、あの闇なんだぞ!!」

「分かってる……だってもうやるしかないじゃん!!」


 うー、と唸るような舞衣。

 流れで頷いていたけど、そろそろちゃんとした説明が欲しいなあ、と思い、舞衣に聞くと、


「部外者は黙っててよ」

「いとこなのに!」

「クソが。こっちも早いとこ脱出しねえと巻き込まれ――――あ?」


 山猿が違和感に気づいたようだ。

 遠くを見て、目を見張った……なんだ?


「おいおい……おいおいマジかよ!? 島の外に出られねえ……? ッ、やられた、妖怪(オレたち)専用の結界か!! 逃がさねえつもりかよ……いや、当然だが、にしても早ぇだろうが……ッ。神内家のご当主サマがいい仕事をしやがるぜ……!」


 山猿が手近な樽を掴んで、外へ放り投げる。

 樽は放物線を描き、明後日の方向へ飛んでいき――――





 空から飛んできた樽を避ける必要はなかった。


 禿頭で細身の老人は、二本の指で横一線を引く。

 すると――飛んできた樽は分解され、老人の足下にパーツごとで並んだ。


 その老人は岩戸の山猿の、苦し紛れの反撃を、ないものとしたようだ。



雛菊(ひなぎく)、島の外へ逃した妖怪については他の一族と連携して対処だ。まだ島内にいる妖怪については、結界で閉じ込めておるから問題ない……儂らで処理をすればいい。……島の外へ逃したのが数体分でまだよかったわい」


「おじいちゃん……これって大丈夫な事故……?」


「大丈夫なわけあるかい。派手にやってくれたもんだのう……舞衣も、悟ものう。ま、封印を解かせたのは孫悟空だがな。孫どもが悪いわけではないが……、誰を責めるべきかと言われたらふたりだな、これは仕方ない。しかし、お前は責めてやるなよ、ミスを重く捉えているのはなによりも本人たちだろう」


「舞衣……」


 事情を知っている分、責任を強く感じるのはまだ中学生の妹だろう。多感な時期である。長女である雛菊は、この失敗が妹の人生を歪めてしまうんじゃないかと心配で気が気じゃなかった。

 いとこである男子の方は、まだ詳しい事情を知らなかった。知ったら――彼は妹に寄り添ってくれるだろうか。

 もちろん、舞衣を責めるとは、雛菊も思っていなかったけれど。


「最悪の結果だな」

「島の外にいる闇、だよね……」


「およそ四十日後に、島の全てを飲み込む闇だ。通称バックベアード。実際は違うんだが、亜種と思ってくれれば構わん。ともかく、これをどうにかせんと、夏を越すことはできんというわけだ。逃げることは可能だが、この島を捨てることができるか、という話になってくるが…………聞くまでもないだろう?」


「……うん、この島を、守りたい」

「ならどうするか、考えねばならん。……さてさて、頭が痛いのう」


「……どうしたらよかったのかな……」

「どっちにしろ最悪だ。二択ある最悪の片方を選んだだけ……結局、なんにせよ今年の夏は最悪になるだけだった――だな。これじゃあ怒る気にもならんよ」


 怒るどころではなく対処に思考を使っている、とも言えた。


「しかし、誰かの狙い通りの展開かもしれん……封印が弱まっていたのを放置していた儂も悪いな……仕方のない最悪だ」

「おじいちゃん? どこにいくの?」

「倉庫へ向かう。神内家の当主としてな、なにも言わないわけにもいかんよ」


「…………そう、よね」

「儂は一応、あいつらに説教をする。だから……お前は慰めてやれ」


 悪者は全て儂が。そう言った祖父の背中を見て、長女が微笑み、


「はい、いつもごめんなさい、おじいちゃん」

「怖がられるのは慣れておるよ」





 …つづく

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