Il filo d’argento che intrecciamo Ⅱ (私たちが紡ぐ銀の糸)
八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子)
本編
それはふとした瞬間にやってくる。
仲睦まじい夫婦を目にして、仲の良い家族の姿を垣間見て、何気ない団欒の香りを感じて……。
そして、未知はどうしてと思う。私だけがと、なぜ、こんな目に合わなければならなかったのかと。
どこかへと問うてみるが、答えはない。
自らへと回帰してくるだけ、そして自ら答えを見つけることのできない日々を、時間を、過ごすのだ。
「未知、どうした?」
「あ、ごめん」
鶏小屋の藁替えの最中に、それはやってきた。
雄鶏と雌鶏にとって何気ない触れ合いを見て、ふと、それに取りつかれた。
思考は一つに絞られ、そして、答えのない大海へと誘われる。
昔は嵐の海だったけれど、今は凪いでいる、いや、無風で無波だ、そう、問いは感情的であるというのに、さざ波すら起こることはない。
「卵、割るなよ、あまりぼんやりしていると突っつかれるぞ」
ふっと手元に視線を戻せば、卵を握った右手に痛みが走る。
首をくくくっと震わせた雌鶏の黄色の混じった輝かしい目が、見つめていた。
「そりゃぁ怒るわな」
長髪を束ねて裏でポニーテールのようにした若い男が、それを見て笑う。
切れ長の目に窪んだ頬に細面の面構えの、好男子とでも例えればよいだろうか。
体調を崩してしまったり、三者面談などの行事ごと、何故か玲香の予定やタイミングが合わないことが多く、その都度に、佳彦が学校へとやってきては、友人たちの言の葉へと流れる。
「残念なイケメンなのよ、仕事ができていた頃は、かっこよなイケメンだったのよ、あんなのじゃなくてね」
来られる度に気恥ずかしかった。
玲香になんとか来てもらおうと、喜ぶとばかりに話題にすると、ため息を交えながら寂しそうに漏らした。
「普通だと思うけど……」
「いいえ、まだまだよ、もっと、背中に張りがあったわ、何かこう、漲ったものを帯びて、言葉の端々に鋭さと重さが宿っていた人だったもの、あんなではなかったわ」
話をしているリビングから長窓の先にある縁側で、畑で使った鍬の曲がりを金槌で叩いている背中を、玲香の複雑な思いを絡めた視線が見つめると、すぐにその顔が振り向く。
『なに?』
声は遮られていた、だが、口がとぼけたように動いている。
「馬鹿」
『はいはい』
幾度となく見慣れた馴れ合いに呆れながら、未知は手元のお茶を啜る。
「でも、そんなことを聞くと、妻としては気分がいいわね」
「え?」
「好きな男が、そう思われるのは、嬉しいものよ」
「話題に上ることが?」
「違うわ、未知ちゃんが恥ずかしがることがよ」
「私が恥ずかしがることが嬉しいの?」
「ええ、そう、だいぶ慣れてくれたんだなって、そう思えるのよ」
「それは、そうかもしれないけど……」
住み始めた当初は、佳彦の顔をまともに見ることができず、あまり話らしい話もできずにいた。
どう、話しかけたらいいのか、どう、接すればいいのか、分からなかったのだ。
三か月ほど過ぎた頃、未知に朝の仕事ができた。
鶏小屋から卵を取ってくる仕事だった。
おっかなびっくりで、そろそろと手を伸ばしては、突っつかれながら卵を採る。
生みたての卵は温かくて、殻がほんのりとやさしい、そう、固いのに柔らかいのだ。
「あ!……」
雌鶏のくちばしが握った卵の指先を突いた。体は反射的に身を守る動きをして、手にしていた卵がぽとりと地面に落ちる。
パキリ、と音がした。
「どうした?」
「卵、落としてしまって……」
声に驚きながらも冷静に振り向く、真後ろに佳彦が立っていて、こちらをのぞき込んでいた。
「それくらいなら、大丈夫だ」
上から覆いかぶさるように体を曲げた佳彦は、手を伸ばして卵を優しく、地面より取り上げた。
「ヒビが入ったくらいだな、中身は大丈夫だぞ」
「でも、卵は割れたらダメになるんじゃ……」
「薄皮があるんだ、中身を包むように薄い和紙みたいな膜がな」
そういいながら、ぽろぽろと割れ落ちた殻のあたりを未知に見せた。
「見たことないか?」
「初めて見ました……」
「大切なものを守るための薄皮さ」
言いながら苦笑する佳彦は、自らに薄皮の部分を向けて、やがて口を開いた。
「玲香から、あったこと、については聞いてる」
未知の体が強張った、思わず、ゴクリを唾をのむ。
「別にすべてを話してくれなんて言わない、俺だって、子供みたいなもんだから、玲香に迷惑をかけっぱなしさ、だからこそ、そうだな、これだけは言える、子の薄皮みたいに、無理矢理に薄皮を破ろうとは思わないし、破ってくれとも思わない、でも、殻のままでいることだけは、お勧めしないよ、失敗して、危うく玲香を失いかけてしまった俺からのアドバイスだ」
言うだけ言うように、佳彦は去っていく。
その言葉に、未知はやや混乱した。
理解しようとするたびに、靄がかかったようになる。けれど、言わんとすることだけは、意味が理解できなくても、体はそっと受け入れたようで、強張りが、徐々に、徐々に抜けていく。
未知が、その薄皮を纏ったままに、殻に小さな穴を開けたのは、それからしばらくしてのことだった。
「未知ちゃん!佳彦!朝ごはん!」
鶏張りの通る声が二人の名を呼ぶ。
互いに顔を見合わせて、そっと微笑み合いながら、雌鶏雄鶏に感謝して、採り終えた卵の籠を抱えて、未知は声のもとへと足早に向かう。
ゆったりとした足取りで、佳彦はそれを追って行く。
今日も一日が始まる。
銀の糸を紡ぐ一日が。
Il filo d’argento che intrecciamo Ⅱ (私たちが紡ぐ銀の糸) 八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子) @suzunokisuzunoki
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