第二章 雨の周波数

 世界から、色彩が剥離(はくり)し始めていた。


 翌朝、彼が目にしたのは、彩度を極端に落としたような東京の街だった。

 オフィスの部下たちが動かす口元は、何か意味のある言葉を紡いでいるようでいて、実はただの記号の羅列を吐き出しているように聞こえる。レイナが淹れてくれたコーヒーは、泥水のように味気なく、ただ熱さだけが喉を焼いた。


(おかしいのは、俺のほうだ)


 彼はそう自分に言い聞かせ、逃げるように街へ出た。

 スクランブル交差点。灰色の人波が、機械仕掛けのように交差していく。

 その雑踏の向こう側で、そこだけ鮮烈な色彩を放つ一点があった。


 雨が降っているわけでもないのに、ずぶ濡れの制服を着た少女が立っている。


 黒髪が頬に張り付き、水滴が顎から滴り落ちている。周囲の誰も彼女に気づいていない。彼女だけが、別の時間の、別の天候の中に生きているようだった。

 彼女の瞳が、彼を射抜く。

 その瞳の色を、彼は知っていた。十年前、図書室の窓際で、夕陽を透かして見たあの色だ。


「……ミサキ?」


 喉から漏れた名前は、都会の喧騒にかき消された。

 だが、少女の唇が動くのが見えた。

 ガラス越しに見る無声映画のように、音は届かない。それでも、彼には分かった。彼女は怒っているのではない。ただ、泣き出しそうな顔で、何かを訴えている。


――こっちへ来て。

――早くしないと、あなたが消えてしまう。


 不意に、強烈な記憶がフラッシュバックする。

 狭いアパートの一室。コンビニの安い弁当。未来への不安。それでも、二人でいれば世界は無限に広がっていると信じていたあの頃。

「俺は、成功してみせる。こんな生活、もうたくさんだ」

 そう吐き捨てた彼に、ミサキは悲しげに首を横に振った。

「違うよ。幸せは、誰かに見せつけるものじゃない。私たちが、ここで息をしていること、それだけでいいのに」


 あの時の彼女の言葉は、今の彼にとって、あまりにも眩しく、そして残酷な刃物だった。

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