午前0時のエンドロール | 幸せな悪夢と、痛いほどの現実について
銀 護力(しろがね もりよし)
第一章 硝子の箱庭
首都高速を滑る黒曜石の獣――AMG G63の車内は、深海めいた静寂に満たされていた。
タイヤがアスファルトを噛む振動さえも、分厚い革のシートが優しく吸い取ってしまう。外界から隔絶されたこの空間は、彼にとって移動手段というよりは、精巧に作られたシェルターのようだった。
ハンドルを握る彼は、フロントガラス越しに流れる東京の夜景を見つめる。
光の粒が無数に散らばり、高層ビルの輪郭を縁取っている。だが、それは美しいというよりは、誰かが丹念に書き込んだ回路図のように無機質に見えた。
「ねえ、聞いてる?」
助手席から、甘く、しかしどこか平坦な声が鼓膜を揺らす。
婚約者のレイナだ。彼女は一流ブランドの新作カタログから抜け出してきたかのように、隙のない装いをしている。髪の一筋、まつ毛の角度に至るまで、すべてが完璧に計算されていた。
「ああ、聞いてるよ。来月のパーティのことだろう」
「そう。ドレスコードはサムシング・ブルーだって。馬鹿みたいだけど、付き合ってよね」
彼女の横顔は、美術館のガラスケースに収められた彫像のように滑らかだ。そこに体温や、血の通った湿度は感じられない。
彼はふと、自分たちが酸素の薄い水槽の中に閉じ込められているような錯覚を覚えた。息苦しさはない。ただ、圧倒的に何かが欠落しているという空虚な予感だけが、胸の奥で澱(おり)のように沈殿していた。
タワーマンションの最上階。彼らの「城」に帰宅したのは、日付が変わる直前だった。
広すぎるリビングには、生活の匂いが希薄だ。彼はグラスを片手に、壁一面の造り付けの本棚へと歩み寄った。そこには、インテリアの一部として購入された、誰も開くことのない洋書が整然と並んでいる。
その整列を乱すように、一冊だけ、背表紙の日焼けした文庫本が押し込まれていた。
(……なんだ、これは)
指先が吸い寄せられる。引き抜くと、パラパラと乾いた音がした。
その瞬間、鼻腔をくすぐったのは、雨上がりのアスファルトと、日向に干した布団が混ざり合ったような匂いだった。
懐かしさが、痛みとなって脳髄を突き刺す。
ページの間から、一枚の葉書が滑り落ちた。変色した紙片に、走り書きの文字が躍っている。
『世界はもうすぐ終わる。急いで。』
その文字を目にした途端、部屋の空気が微かに振動した気がした。
耳鳴りだろうか。遠くで、波の音のようなノイズが聞こえ始めた。
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