第1話

第1話:鉄壁の境界線とSOS

 今日もまた、俺の平穏な一日が始まる。  目立たず、騒がず、教室の壁の一部になりきる。それが俺、雨宮湊(あまみや みなと)に課せられた「モブキャラ」としての使命だ。


 だが、その平穏は、教室のドアが乱暴に開かれた瞬間に霧散した。


 早見レナ。  クラスの女王(クイーン)にして、歩く公序良俗違反。


 ブレザーを肩に羽織り、シャツのボタンは三つ目まで外されている。おかげで、彼女が歩くたびにその豊かなFカップ――アイドル時の「さらし」から解放された暴力的な双丘が、物理法則をあざ笑うように重々しく揺れていた。


「……ッ」


 教室中の男子が息を呑む音が聞こえる。  俺は慌てて視線を教科書に落とした。


 ガタッ、と。  隣の席に座ろうとした彼女の腰が、俺の机の角をかすめた。


【スキル:絶対神眼(アイドル覚醒)――パッシブ解析】 事象:物理的接触(小)。 結果:Fクラス資産の共振現象。 減衰時間:2.4秒。揺れパターン:8の字。視覚的破壊力:極大。


 脳内で再生される4Kスローモーションの解析データを、必死に理性で抑え込む。


「……はぁ?」


 頭上から、冷たい声が降ってきた。  見上げると、鋭い青色の瞳が俺を射抜いている。アッシュブロンドの毛先に入った淡いピンクが、彼女の苛立ちに合わせて揺れた。


「机、近すぎなんだけど。アンタ、邪魔」


 低く、ハスキーな声。学校中の誰もが恐れる「ギャル・レナ」の威嚇だ。


「す、すみません早見さん! すぐ動かします!」


 俺は震える声で返事し、慌てて机を数センチ左へずらした。  周囲からは「また雨宮が早見に絡まれてるよ……」「運が悪いな」という同情の視線が注がれる。


 レナは「チッ」と大きな舌打ちをすると、椅子に深く腰掛け、足を組み替えた。短いスカートから覗く太もも。そこに食い込む黒いガーターリングが、嫌でも視線を奪っていく。


 彼女は窓の外を向いたまま、不機嫌そのものの表情を崩さない。


 ――だが。  担任教師の退屈な声に紛れて、一通のクシャクシャになったメモが俺の机に滑り込んできた。


 俺は周囲を警戒しながら、机の下でそれを開く。


【メモの内容:】 (そこには、黒髪姫カットの猫が涙を流している下手くそな落書き) 『湊……助けて……(X_X) ダンスの練習しすぎて足が生まれたての小鹿みたい。朝の挨拶で起立する時、絶対転びそう。あと、朝ごはん食べるの忘れた。死んじゃう。助けてプロデューサー……<3』


【内部ステータス:糖分過多(シュガーオーバーロード)を検出】


 危うく「モブ」の仮面が剥がれそうになった。  この女……。外向きには全人類を敵に回すような睨みを利かせているくせに、俺宛てのメモではお腹を空かせた子猫そのものじゃないか。


 チラリと隣を見ると、彼女は依然として不機嫌そうな顔で窓の外を見つめている。  だが、金髪の隙間から覗く耳の先だけが、リンゴのように真っ赤に染まっていた。


(やれやれ……)  俺の脳内で、指揮官の意識が苦笑する。 (これじゃあファンが見たら、ショックで寝込むか、尊さで爆死するかの二択だな)


 俺は鞄の奥に手を入れ、彼女の非常事態用に常備している高カロリーのブドウ糖ゼリーの感触を確かめた。


「ミッション・コンプリートだ、レナ」


 俺は眼鏡の奥で、紫色の瞳を静かに細めた。 「貴様の血糖値は、俺が守ってやる。……すべては、武道館のために」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る