第3話 それでも、使わざるを得なかった

 異変は、予告なしに来た。


 夜の九時を少し回った頃、部屋の明かりが一瞬だけ弱まった。完全に消えたわけじゃない。ただ、蛍光灯が迷ったみたいに、ちらりと瞬いた。


 俺は、反射的に天井を見上げる。


「……またか」


 最近、この建物は調子が悪い。築年数も古いし、驚くほどの話じゃない。そう思おうとした、その直後だった。


 ブツン。


 今度は、はっきりと音がした。


 部屋が暗くなる。エアコンが止まり、冷蔵庫の音が消え、テレビの画面が黒く落ちた。完全な停電だ。


 窓の外を見る。街灯は点いている。隣のアパートも明るい。どうやら、この部屋だけらしい。


 ブレーカーだ。


 俺は立ち上がり、玄関横の分電盤を開けた。案の定、主幹ブレーカーが落ちている。アンペア不足か、古い配線の問題だろう。


 レバーを上げる。


 ……何も起きない。


 もう一度、強く押し上げる。


 すぐに、落ちた。


「……は?」


 嫌な汗が、背中に浮かぶ。


 考えたくない可能性が、頭をよぎる。

 だが同時に、別の考えが、はっきりと形を持って現れた。


 ――作れる。


 心臓が、嫌な跳ね方をする。


 違う。

 まだだ。

 今日は使わないと、決めたはずだ。


 スマホのライトをつけ、部屋に戻る。暗闇の中で、机や椅子の輪郭だけが浮かび上がる。電気がないだけで、部屋はこんなにも頼りなくなるのか。


 スマホの画面に、通知が表示された。


【お知らせ】

この地域で一時的な電力トラブルが発生しています


 地域?

 外は明るいのに?


 胸の奥が、ざわつく。


 冷蔵庫の中には、明日の朝食が入っている。ノートパソコンは、充電が残り少ない。スマホだって、無限じゃない。


 ――使え。


 そんな声は聞こえない。

 聞こえないからこそ、自分の意思だと分かってしまう。


 俺は、部屋の中央に立った。


 何かを作ろうとは、考えない。

 装置の形も、仕組みも、想像しない。


 ただ、あるべきものが、そこにあると決める。


 息を吸い、吐く。


 次の瞬間、音が戻った。


 冷蔵庫の低い唸り。

 エアコンの送風音。

 蛍光灯の、わずかなノイズ。


 灯りが、点いた。


「……え?」


 拍子抜けするほど、何も起きない。


 火花も、光もない。

 空気が揺れることすらない。


 ただ、電気がある。


 俺は、恐る恐るブレーカーを見る。

 レバーは、上がったままだ。


 試しに、コンセントを一本抜く。

 別の延長コードを抜く。


 それでも、灯りは消えない。


 背中が、冷たくなる。


 ブレーカーを、落とした。


 部屋の電気は、消えなかった。


 完全に、理解してしまう。


 これは復旧じゃない。

 回復でもない。


 供給だ。


 しかも、電力会社を経由しない。

 発電所も、送電網も、関係ない。


 この部屋にだけ、

 最初からそうだったみたいに、

 電気が「ある」。


 俺は、椅子に座り込んだ。


 心臓が早い。

 でも、手は震えていない。


 それが、いちばんまずい。


 スマホを見る。

 さっきの通知が、更新されている。


【復旧のお知らせ】

電力トラブルは解消しました


 解消していない。

 俺が、ねじ伏せただけだ。


 それでも、

 誰にも分からない。


 窓の外は、相変わらず平穏だ。

 誰も騒いでいない。

 サイレンも聞こえない。


 この異常は、

 俺の部屋だけに閉じている。


 立ち上がり、部屋を見回す。


 変わったものは、何もない。

 なのに、世界の見え方だけが違う。


 使ってしまった。


 理由は明確だ。

 生きるため。


 好奇心じゃない。

 検証でもない。


 だから、言い訳ができない。


 俺は、携帯を置き、深く息を吐いた。


「……一回だけだ」


 誰に言うでもなく、呟く。


 だが、その言葉に、何の保証もないことを、もう知っている。


 今日、初めて使った。

 明日も、使わずにいられるか?


 その問いに、答えは出ない。


 ただ一つ、はっきりしている。


 この力は、

 使った瞬間に、

 日常の側には戻れない。


 一万円で手に入れたのは、

 永久機関だけじゃない。


 「普通に困る」という選択肢を、

 永遠に失う権利だった。


 俺は、暗くならない部屋で、

 しばらくその事実を噛みしめていた。


□□□



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