第9話 氷柱

 火傷をした澄子に付き添って、救急外来の待合で、叶太は座っていた。

 救急車が止まり、玄関の方を向くと、遥の父の覚がやって来る。

「おじさん、どうしたんですか?」

「あっ、叶太。」

 一緒にきた渉は、一度だけ会った事のある叶太の事を覚えていた。叶太の方をチラッと見ると、ストレッチャーに乗っている遥に付き添って歩いていった。

「遥、何かあったんですか?」

 叶太は渉に聞いた。

 処置室に吸い込まていく遥を、3人は呆然と見送った。

 澄子が、治療を終えて出てくる。

「あら、渋谷くん、どうしたの?」

「遥が倒れたんだ。」 

 医者に呼ばれた覚は、遥が倒れた原因について説明を受ける。

「娘さん、ずっと風邪を引いていたのかな、ずいぶんと炎症反応が高くってね。」

 覚は少し前から、遥が市販の風邪薬を飲んでいた事を、思い出した。

「それに、貧血と栄養不足。まあ、若い女性なら、けっこうある事だよ。娘さんには、ダイエットをやめるように、お父さんからちゃんと注意してくださいよ。」

 遥に付き添っていた澄子は、

「お医者さん、なんて?」

 そう聞いた。

「風邪をこじらせたみたいだ。あと、ちゃんと食べさせろって。」

「そっか。」  

 遥の横にいる叶太が、

「さっき看護師さんがきて、この点滴が終ったら帰っていいって言ってたよ。」  

 そう、覚に伝えた。

「渋谷くん、遥にちゃんと食べさせてるの?」  

 澄子がそう言った。

「ちゃんと、食べさせてるよ。」  

 少し大きな声で言った覚に、

「ごめん。渋谷くんも、いっぱいいっぱいだよね。」

 澄子はそう言った。

 遥が目を覚ます。

「遥。」

 叶太が遥の顔を覗いた。

「なんで叶太がいるの?」

「おまえ、なんて格好してるだよ。」

「本当だね。」

 遥は右手で顔を覆った。そうだ、渉が家にきていたはず。遥は顔から手をとって、渉の方を見た。

「ごめん。ずっと待ってたね。」

 渉が叶太の隣りに並ぶ。

「渋谷、林さんの車に携帯落としただろう。」

「そうだったかな。」

 渉は遥の携帯を枕元に置いた。

「林さんが家に届けにきて、遥に謝ってくれって。」

 遥は渉の顔を見せると、

「謝るのは、私だよ。」

 そう言った。

「なんかあったのか?」

「ちょっとね、いろいろ。哲の時もそうだった。」

 遥はまた顔を右手で覆った。

「なんかよくわかんないけど、林さんはまた練習に来いって言ってたよ。」

「冴木くん、もう行けないよ。」

「それは、渋谷が決めたらいい事だから。」

 渉は遥が言い出せないでいる理由を考えていた。渋谷が本当に好きなのは、ここにいる幼馴染なんだろう。林さんとも哲とも上手くいかなかったのは、2人はただの幼馴染なんかじゃなくて、とっくに結ばれているんだよ。

「渋谷、そんなジャージ着てたら、高校生に間違えられるぞ。」

「そうだね。恥ずかしいね。」

「俺、行くわ。早く元気なれよ。」

 そう言って覚と澄子、最後に渉に頭を下げると、病室を出ていった。


「遥ちゃんの彼氏?」

 澄子が聞いた。

 遥は首を振った。

「むこうでできた友達です。大学も一緒で。」

 遥はそう言った。

「遥ちゃん、今日は家においでよ。たくさん、唐揚げ作ったのよ。私、それで火傷しちゃったの。」

 澄子は覚を見ると、

「渋谷くんにも、ちゃんとわけてあげるから。」

 そう言った。

「叶太、」

 遥は叶太の顔を見た。

「遥、おいでよ。話したい事、たくさんあるし。」 

 叶太は遥の手を握った。

「お父さん、行ってもいい?」

「行っておいで。」


 叶太の家につくと、キッチンに唐揚げがたくさん用意されていた。

「遥ちゃん、まだ作りかけなの。私は手がこうだから、叶太と残りを揚げてくれる?」

「いいですよ。澄子さん、手、大丈夫ですか?」

「大丈夫よ。遥ちゃんも気を付けて。」

「はい。」

 叶太が油を温めている遥の隣りにきた。

「まだ、けっこうあるね。」

「うん。」

「母さん、なんでこんなに作ろうとしてたんだろう?」

「叶太、大好きなんでしょう?澄子さんの唐揚げ。」

「好きだけど、作り過ぎ。」

 遥は叶太を見て笑った。

「羨ましいなぁ。」

 覚に渡す唐揚げをタッパーに詰めていた澄子は、

「元奥さん、渋谷くんの所に行ったの?」

 覚にそう聞いた。

「来たけど、実家に帰ったよ。」

「私もバツイチだから、わかるけど、別れた相手って、世界一不幸になってほしいよね。」

「そうかもな。」

「叶太もそうやって育てて来ちゃったから、素直に好きになればいいのにさ、恋愛って汚いとかって思っちゃってるのよね。」

「みんな、親のせいなのか…。」

「親は親で必死だったんだし。」

「そうだな。」

「渋谷くん、時々、ご飯食べにおいで。私達は、そのうち、ちゃんとあの子達の前では揃って父親と母親になれると思うけど。」


 晩ごはんが済むと、澄子が叶太の部屋に布団を持って行った。遥はお風呂に入っている。

「叶太、遥ちゃんは具合が悪いんだから、あんたは下で寝なさい。ゲームして夜更かしなんかしたらダメだからね。」

「わかった。」

 澄子が部屋から出ていくと、遥が戻ってきた。

「俺、入ってくるわ。」

 叶太が部屋を出ていった。遥がテーブルに置かれたゲームの攻略本を見ていると、叶太が帰ってきた。

「叶太、ゲームするの?」

 遥が聞いた。 

「たまにだよ。ついつい自分が勝つまでやろうとするから、朝になる事もある。」

「わかる。」

 遥は叶太の隣りに座った。

「遥、どこの学校に行ってるの?」

「教育大。叶太は?」

「俺は隣りの公立大。ここから離れて、1人暮らし。」

「けっこう近くにいたんだね。」

「そうだね。」

「小百合は元気?」

「東京に行ったのは知ってるけど、それからは連絡はないんだ。」

「叶太が大切にしなかったんでしょう?」

 遥は叶太の気持ちを確かめようとした。

「そんな事ないよ。」

「遥は?」

「何が。」

「彼氏いるんでしょう。車の中に、携帯を忘れるくらいだもの。」

 遥は少し考えていた。

「どうしてかな、うまくいかないの。隣りにいるだけでいいなんて、やっぱりドラマの中の台詞なのかな。」

 叶太は遥の肩を自分の方に寄せた。

「叶太、どうして、連絡先、教えてくれなかったの?」

 遥は叶太にそう言った。

「もう会えないかもしれないのに、番号が残るのって辛いだろう。」

 叶太は遥の手を握った。

「10年も隣りにいると、あんまりにも近すぎて、また明日って言えば普通に会えるって、いつも思ってたけど、遥がいなくなって、急に淋しくなって、小百合と付き合ったんだ。だけど、小百合を好きになろうとすればするだけ、遥の事を思い出して、苦しくなって。遥にも彼氏ができたって聞いたら、どうしようもなくなって。」

 叶太は握っている遥の手を自分の胸に引き寄せた。

「叶太からもらったボタン、ちゃんと持ってるよ。忘れられないよ。ずっと会いたかった。」 

 遥は叶太の胸に顔をうずめた。

「遥。」

「ん?」

「キスした事、あるんだろう?」

「何、急に。」

「なぁ、あるんだろう?」

 叶太は俯く遥の顔を覗き込んだ。

「そうだね、あるよ。」

 遥は叶太の顔を見た。

「叶太は?」

「どうだろうな。」

 叶太は目をそらした。

「人に聞いておいて、自分は何も言わないの?」

「俺、自分からした事はないから。どういう時にしたいと思うのかなって思ってさ。」

「そんなの知らないよ。」

 遥は笑った。

 叶太は遥の顔を見つめている。

「子供の頃は手を繋いでも、なんにも思わなかったのにさ、今は遥の手を握ると、もう離したくないって思うんだ。」

 真剣な叶太の目を見た遥は、

「大人になるって、なんか困るね。」

 そう言って叶太の手を握った。    

 どちらからともなくキスした2人は、目が合うと静かに笑った。

 叶太は遥の体をベッドに倒した。

「風邪、伝染るよ。」

 遥は叶太にそう言った。

「もうとっく伝染ってるよ。」

 自分の頬を包んでいる叶太の手の温もりが、長く続いていた雨の終わりを告げるようだった。

 雲の間から見えてきた太陽の光りは、初めは少し照れていたけれど、だんだんと濡れていたアスファルトを乾かすまで、大きく広がっていく。

「高校の時、遥の背中から、ゼッケンをはずしたよな。」

「そうだね。」

 叶太は遥の上着を脱がせた。

「寒い?」

「ううん。」 

 目を閉じた遥の上に、叶太が重なる。

 叶太は遥の唇に近づくと、どうしようもないくらいの好きという感情が、体中から溢れてきた。

 


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