第8話 みぞれ

 遥が免許をとれた頃、別れた母が父を訪ねてきた。


「お母さんね、やっと気がついたの。大切なのは、本当は家族の方だったのに。」 

 遥は母と目を合わせなかった。

「許してもらえるとなんて思ってないよ。だけど、あの人とじゃ、もう暮らせないの。」

 母はキレイに塗られたワイン色の爪をしていた。遥はその爪を、削ぐ様な思いで見つめていると、

「勝手な事言うな!」

 黙っていた父が大声をあげた。

「ごめんなさい。」  

 母は泣きながら謝った。

「1回壊れたものが、簡単に戻ると思うなよ。」

「わかってる。」

 父が怒りで震えているのを見ない振りして、

「遥、キレイになったね。成人式、お母さんも一緒に見たいな。」

 母は遥の手を握った。遥は母が握っている手を離した。

「私には選ぶ権利なんかないし、そうやっていつも、大人の都合に振り回される。」

 遥は玄関へ向かった。


 バイト先まで歩いていると、徹也からラインがきた。

 <今日はバイト?>  

 <そうです。>

 <何時に終わるの?>

 <1時>

 <明日は?> 

<明日はないです。>

 <学校は?>

 <休み>

 <じゃあ、免許がとれたらお祝いに、朝日を見に連れて行ってあげるよ。バイトが終わる頃、迎えに行く。>

 <ごめんなさい。今日は行けないです。>

 <何かあったの?>

 <いいえ、また今度。>

 

 バイトが終わり、母と父が言い合っている家に帰ると思うと、足取りが重くなる。何度もため息をついているのに、心の中が淀んだ空気で、ずっと曇っている。


「遥ちゃん。」

 徹也が声を掛けた。

「待ってたの?」

「待ってたよ。」

「行けないって言ったのに。」

 遥は暗い顔をしていた。

「何かあったの?」

「何も。」

 小さくため息をついた遥の手を握ると、

「おいで。」 

 徹也はその手を引っ張った。

 寒いせいか、昨日から右の手首が少し痛む。遥は徹也の歩くスピードに合わせた。

「火曜日、練習に来なかったね。」

「テストがあって。」

 遥は嘘をついた。徹也は遥を車に乗せた。


 父に母から電話があった日、めったに感情を出さない父は、少しイライラしていた。

 遥は父の気に障らないように、すぐに自分の部屋に入った。

 父と出会って、別の人に夢中になって、また父の所に戻ってこようとする母は、自分は悪くないと何度も口にしている。

 時々自分が当たり前の様に嘘をつく事は、そんな母とよく似ている、遥はそう思った。自分をよく見せようとするためには、嘘だって仕方ない事だと、平気で言える。自分の中に流れている血は、母と同じ、男の人に寄りかかろうとする、生ぬるい、汚ごれたものなんだ。全部を入れ替えるのには、やっぱり消えてしまうしかないのかな。


「どこに行くんですか?」

 遥は徹也に聞いた。

「ここから少し離れているけれど、遥ちゃんにどうしても見せたいんだ。」

 徹也はそう言った。

 徹也がコンビニに寄った。車を降りると、誰かと電話しをしている。

「今さぁ、女の子と一緒なんだよ。」

 遥は降りようとしてドアを開けた時、徹也がそう言っているのが聞こえた。

「ミオリじゃないって、違う子だよ。そう、いつもの場所に。」

 徹也は笑っていた。遥はドアを閉めてうつむいた。    

 どうやってここから帰ったらいいのか、ぜんぜんわからない。ついてきてしまったのは私だし、今さら帰りたいだなんて、わがままを言って嫌われたくない。

 徹也は助手席の窓を叩く。遥が窓を開けると、

「降りないの?」

 徹也はそう言った。戸惑っている遥を見て、

「家族が心配するといけないから、友達の家に泊まるって連絡したら?」

 徹也が言った。

「みんなもう、寝てると思うから。」  

 遥はまた嘘をついた。

 家にはまだ母がいるのだろうか。イライラしている父の気を逆なでないように帰るには、どうしたらいいのだろう。

 何度も着信が残る父の携帯に、遥は深呼吸をした後、電話をした。

「遥、どこにいるんだ。」

「ごめんなさい。友達の所。」

「それならそうと、連絡をしなさい。」

「ごめんなさい。」

「もう遅いから帰ってきなさい。」

「お母さんは?」

「お祖母ちゃんの所へ行ったよ。」

「お父さん、」

「なんだ?」

「今日は友達の家に泊まる。」

「それならそれで、迷惑かからないようにするんだぞ。」

 電話を切った後、お父さん、帰ってこいって怒ってよ、遥は携帯を握りしめた。

 みんな、私が悪いんだ。

 徹也が運転席のドアを開けた。

「やっぱり、心配してたでしょう?」 

 頷いた遥は、青白い顔をしていた。

「大丈夫?なんか、元気ないね。」

「少し、眠くて。」

「じゃあ、着いたら起こすから、眠りなよ。」

 徹也は自分が着ていたコートを遥に掛けた。

「ありがとうございます。」

 遥は少しも眠くないけれど、黙って目を閉じた。

 

 思い出したくない事ばかりが、浮かんでくる。

 母が一度だけ、新しい学校の前で遥を待っていた。隣りにいた男性が、母にそっくりだと遥の顔を見た。 

 哲の部屋で、哲が遥のスカートに手を入れた時、遥は哲に抵抗した。あの日から、優しかった哲との距離が少しずつでき始めた。  

 どうしてうまくいかないのかな。


「遥ちゃん、着いたよ。」

 徹也が、遥の肩を軽く叩いた。

「もうすぐ、朝日昇るから、ここで見よう。」

 徹也は街が見てる丘の上に車を止めると、

「寒くない?」

 遥に聞いた。

「大丈夫。」

 黒い雲の間から見えるオレンジ色の朝日。

 少しずつ血液が流れて行くように、冷たくなった街が、朝日に包まれて生き返っていく。 

 遥は車のドアを開けると、外に出た。

「すごい景色だろう。」

 徹也が遥の隣りに並んでそう言った。

「本当。」

 遥の目に映る朝日を見ていた徹也は、遥の頬に手をやると、遥の唇に自分の唇を重ねた。

「ごめんなさい。」

 遥は徹也から離れると、下をむいた。

 徹也は距離を置こうとしている遥を抱きしめると、

「ここで朝日を見た2人は、絶対別れないって言われてるの、知ってる?」

 そう言って遥の髪を撫でた。

「そんなの聞いたことないです。」

 遥は再び徹也から離れた。

「ねぇ、遥ちゃん。なんか、辛い事でもあったの?」 

 徹也が遥の顔を覗くと、遥は首を振った。

「そうやってあんまり嘘ついたら、ダメだよ。」 

 徹也が遥の手を握ると、遥はもう一度朝日に目をやった。

「さっきの朝日の話しは、本当は嘘だから。」

 遥は徹也の顔を見た。

「林さんも嘘つきなんだね。」

「これで一緒だろう。」

 そう言って徹也は遥を抱きしめた。


 車に戻ると、

「このまま、家に来ない?」

 徹也が言った。

「ううん。帰ります。さっきまで、別れた母が家に来て、父と話し合いをしていたんです。」

 遥がそう言った。

「ごめんね、そんな時に誘って。」

「私にはもう、どうする事もできないから。」

 膝の上にある両手を、遥はぎゅっときつく握った。

「遥ちゃん。」

「何?」

「キレイなサーブだって言われない?」

「そんな事、言われた事なんてありません。」

「俺、遥ちゃんを見た時、やられたって思ったわ。」

「なにそれ。」

「ずっと遥ちゃんを見ていたいんだ。」

 徹也は遥の頬を触った。

「このまま帰したくないよ。俺の家に行こう。遥ちゃんとゆっくり話しがしたいから。」

 遥は首を振る。

「ちゃんと送っていくから、もう少しだけ、一緒にいてほしい。」

 徹也はそういうと車を走らせた。


 家につくと、徹也は無言で鍵を開けた。

 車の中で、話しをしなかった2人。徹也がこれからしようとしている事を考えると、遥は足の先から膝の感覚が、だんだんとなくなってくるようだった。

 好きとか嫌いとか関係なく、徹也は自分を大人の女として見ている。めんどくさい感情なんか捨てて、徹也と一緒寝てしまえば、私も母の気持ちを理解できるのかな。

 徹也は遥をベッドに連れて行った。

 服を脱がせようとする徹也の手を、遥は止めた。

「やっぱり、できない。」

 徹也は聞こえないふりをして、遥の手を押さえると、そのままキスを続けた。

 遥の強張っている体の力が抜けた時、徹也は泣いている遥の顔を見た。

「なんだよ。」

 徹也は遥から離れた。

「男の家についてきて、その気にさせて、泣いてごめんなさいって、最低だよ。」

 遥は起き上がると、

「ごめんなさい。」

 そう言って部屋を出ていこうとした。

 徹也が遥の手を掴んだ時、振り返った弾みで右目のコンタクトが落ちた。

「あっ、」

「どうした?」

 遥は徹也の手を振りはらうと、そのまま部屋を出ていった。

 

 自分がどこにいるのかも、どの道を歩けばいいのかもわからない。さっきまで朝日が照らしていた街は、今にも雪が降り出しそうに曇っていた。

 痛む右手をさすった遥は、近くにあるベンチに座った。

 徹也が何度もキスをした自分の唇が、汚らわしい。

 徹也の言う通り、期待させておいて逃げるなんて、最低だ。だけど、こんな風に誰かに触れる事が、大人のいう大人の恋愛というのなら、もう誰かを好きになる事なんてまっぴらだ。


 細かい雪に混じって、小さなまあるいみぞれが降ってくる。初めは風に飛ばられていた雪も、少しづつ、足元に積もっていく。

 歩いている人に、駅までの道を聞いた。

 遥は上着のポケットにあった手袋を取り出し、さっと指を入れると、駅にむかって走って行った。


 家の玄関に着くと、父が待っていた。

「友達って誰だ?どこに行ってたんだよ。」

 父は怒っていた。

「ごめんなさい。」

「どれだけ心配したと思ってる。」

「お父さん、私だって家に帰りたくない時もあるよ。」

 遥は自分の部屋のドアを閉めた。

 濡れた服を脱ぎ捨てると、捨てられない前の高校のジャージが、引き出しを開けてすぐ近くにあった。悠はそれを引っ張り出して着ると、寒くてそのままベッドにの中にもぐった。

 体は冷たいはずなのに、父に反抗したせいか、顔が熱い。昨夜は眠れずにいた事もあり、悠はいつの間にか深い眠りに落ちていた。


「遥。」

 父が遥を起こした。

「服が脱ぎっぱなしだぞ。」

「ごめんなさい。」

「冴木さんって人が来てるから、入ってもらってもいいか。」

「いないって言って。」  

 遥は布団を被ったまま答えた。

「そう言うわけには行かないだろう。靴があるのも知ってるし。下で待ってるから、早く降りておいで。」

「お父さん、お母さんと一緒に住むの?」

 遥は布団から出てきた。

「もうここへはこないよ。実家に帰るって言ってたから。」

「そうなんだ。」

「遥にとってはお母さんなんだから、会って話してもいいんだぞ。」

 遥は首を振った。

「さっきからずっと待っててもらってるから、早く下に降りておいで。」


「わかった。ちょっと待ってて。」

 遥は左目のコンタクトを外すと、メガネを掛けた。

 

 遥がいつまでたってもこないので、父が遥の部屋を開けると、ジャージを着た遥が倒れていた。



 

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