第7話 雪の結晶

 高校生活が終わろうとしている。

 

 遥の折れた右腕は、寒くなると時々痛んだ。


「哲、北海道へはいつ行くの?」

「卒業式が終わった次の週。」

「遥は大学へは家から通うの?」

「うん。家から通うよ。」

「なんか、いつも一緒にいたから離れるなんて想像ができないね。」

 哲はそう言って遥の手を握った。

「夏休みには帰ってくる?」

「帰ってくるよ。」


 ひとつの恋が終わろうとしていた。

 

 遥が転校して、叶太との恋が終わったように、離れてしまった哲とは、次第に連絡がなくなった。

 色褪せてしまった哲がくれたノートのコピー。

 たくさん嘘をついて、哲の笑顔を胸に刻んだ、去年の夏。


 藤の花の咲くお寺を通ると、今年も変わらずこぼれ落ちそうな紫色が、風に揺れていた。変わってしまったのは、2人の心だけ。


 大学生になった遥は、バイトと学校の往復が続いていた。高校の時の様に何かに夢中になる事もなく、与えられた課題と与えられた役割を、なるべく目立たないようにこなしていく毎日。

 苦手だったコンタクトも、今はすんなり入れる事ができる。

 嘘をついて誤魔化した事も、時間が経てば、もう少し嘘をついても良かったとさえ、思ったりもする。


 

 雪虫が飛ぶようになってきた頃、遥は楽器店に寄り、ピアノの楽譜を選んでいた。自分の小指よりも大きい音符を見ていると

「渋谷?」

 誰かが遥に声を掛けた。

「冴木くん。」

 遥の名前を呼んだのは、渉だった。

「そっか、渋谷は小学課程選んでたのか。」

 渉と遥は同じ大学に通っている。

「久しぶりだね。」

「本当だな。同じ学校にいるのに、ぜんぜん会うことってないよな。」

「冴木くんは、何を専攻してるの?」

「俺は体育を選んでるんだけど、水泳も柔道もあって逃げたいよ。おまけに保健なんか超苦手だし。教師になるのって、こんなに大変だったなんて、知らなかった。渋谷もピアノの試験あるんだろう?」

「そうなの。私、ピアノなんて全く弾けないから、逃げ出したい。」  

 遥はそう言って笑った。

「なあ、渋谷、もう帰るのか?」

「うん。帰るところ。」

「もうちょっと、話ししない?下の店でさ。」


 コーヒーショップに入った遥と渉は、奥の席に座った。苦手だった注文も、哲から聞いて、すんなりできる様になっていた。

「哲とは、まだ続いてるの?」

 渉が遥に聞いた。

「ううん。連絡がなくなってから、けっこう経つ。」

「あいつ、何やってんのかな。」

 渉は哲に新しい彼女ができた事を知っていた。

「きっと、むこうの生活が楽しいんだろうね。」

 遥は少し視線を落とした。

「渋谷と哲は、絶対別れないと思ったのに。」

「…。」

 遥は少し遠くを見た。

「冴木くん、バドミントンは続けてるの?」

「続けてるよ。毎週火曜日と金曜日に、中学校の体育館でやってるから、渋谷も来ない?」

「いいの?」

「いろんな人が来てるから、きっと楽しいと思うよ。」


 火曜日。

 遥は渉と渉の母校の体育館に来ていた。

「昔ここでやってた仲間が集まって、夜に練習してるんだよ。」

「へぇー。」

 遥は久しぶりに履いたシューズの紐を縛ると、渉の後をついて行った。

「林さん、隣り、借りてもいいですか?」

 渉が近くの男性に話し掛けた。

「いいよ。この人は冴木の友達か?」

「そうです。同じ高校で、今も大学が一緒です。」

「同じ高校なら、あの水川と一緒?」

「あいつとダブルス組んでたのが、渋谷です。」

「そっか。じゃあ、少し打ったら、試合しようよ。」

 渉と少し打ち合いをした後、渉と遥、そして林と林に呼ばれた高校生の男性と、試合が始まった。

 大きな声で笑いながら、試合が進んでいく。

「ねえ、今度は俺と組んでみようよ。」

 林が遥に言った。

 林が点を決める度に、遥の笑顔が自然とこぼれてくる。試合を終えて、タオルで汗を拭く遥に、

「金曜日もくる?」

 林が聞いた。

「金曜日は、バイトがあるから。」

「バイトって何をやってるの?」

「居酒屋です。」

「何時に終わるの?」

「1時くらいかな。」

「そっか。今度行こうかな。」


「渋谷、送って行くよ。」

 渉が遥にそう言った。

「ありがとう。だけど本屋に寄りたいから、今日は歩いて帰る。」

「それなら本屋に寄ってやるよ。林さん、また。」

「また。渋谷さん、次の火曜日、待ってるよ。」


 渉が運転する車に乗ると、

「いつ免許を取ったの?」

 遥は聞いた。

「高校を卒業してすぐ。」

「私もとりたいけど、それならバイト辞めなきゃ。」

「短い間にとれる所もあるから、紹介しようか?」

「そんな所、あるの?」

「さっきの林さんは、自動車学校の先生なんだよ。」

「そうなの?」

「あんな風に見えるけど、すごい厳しい先生だからね。」

「どれくらいで免許がとれるの?」

「合宿もあるし、そうじゃないなら1ヶ月くらいかな。」

「着いたよ、本屋。」

「ごめんね、寄ってもらって。」

「俺も漫画買うから、一緒に降りるよ。」

 遥は車から降りると、いくつかの辞典を手に取っていた。

「辞典なんて買わないで、電子辞書を使えばいいのに。」  

 渉が言った。

「それなら調べた言葉に、付箋をつけておけないでしょう。」

「言葉って、見返す時ってある?」

「そうだね…。よく考えたら、あんまりないかな。」

「じゃあ、なんで付箋をつけるの?」

「なんでだろう。また調べるかもって思うのかな。」

「渋谷、変なやつだな。」

 

 遥は渉の車に戻った。

「正月には哲が戻ってくると思うから、またみんなで会おうよ。」

 遥は首を振った。

「冴木くん、私だってわかるよ。哲がどうして連絡をくれなくなったのか。」

「渋谷と会えば、気持ちだってまた変わるだろう。」

「それはないよ。」

 いつも哲と楽しそうにしていた遥が、とても小さく見える。

「渋谷、あのさ。」 

「私、ここでいいから。今日は楽しかった。また、火曜日に行ってもいい?」

「わかったよ。火曜日、また迎えにいくから。」

 渉は冷たい夜の風に消えていきそうな遥の背中を、ずっと見つめていた。


 金曜日。

 遥のバイト先に、数人の友人を連れて林がきた。

「本当にバイトしてたんだ。」

 林は遥にそう言った。

「嘘だと思ったんですか?」

「避けられたかと思ってた。」

 林はラストオーダーまで店にいた後、遥の事を裏口で待っていた。

「おつかれ。」

「待ってたんですか?」

「待ってたよ。家はこの近く?」

「少し歩きます。林さんの家は?」

「家はここから少し遠い。」

「じゃあ、急いで帰らなきゃ。寒いから雪降ってくるかもしれませんよ。」

「明日は仕事が休みだから、適当に時間潰して、始発で帰ればいいし。」

「そういう事、よくするんですか?」

「あんまりしないよ。学生の時は無茶もしたけど。」

「自動車学校の先生だって聞きました。」

「渉が言ってたのかい?」

「そうです。」

「あいつ、注意してもヘラへラしてて、何回も怒ったよ。」

 遥は笑った。

「私も免許取ろうと思ってて。」

「講習中にそうやって笑ってたら、遠慮なく注意するからね。渉とは友達なの?」

「そうです。」

「あいつはそうは思ってないよ。」

「ちゃんとした友達ですよ。」

「渋谷さん、下の名前は遥だったかい?」 

「そうです。林さんは?」

「てつや。」

「哲学の?」

「違う、徹夜のほう。」

 林は遥の手のひらに、徹也と書いた。

「あーあ、わかった。」

 自分を見上げた遥を、徹也は抱きしめようとした。

「あっ、雪降ってきた。」

 遥がそう言った。

「降ってないよ。」

「今、顔にあたったよ。ほら。」

「本当だ。」

「早く帰ろう。林さん、朝までいるなんて言わないで、走って帰ったら?」 

 遥は林の誘いを振り払うように、手を振って消えていった。

 

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