第6話 入道雲

 なんのしがらみもない高校生の頃は、好きだって言ってしまえば、全ての事が免罪符になると信じてしまっている。心は未熟なのに、体はすでに大人になっているあの頃は、うまく伝えられないもどかしい言葉さえも、それを優しさだと履き違えて、思うように触れてもいいと、勘違いしていたのかもしれない。

 

 自宅へ戻ってから、遥は哲に電話をした。

「遥、心配したんだよ。」

「ごめん。」

「痛むの?」

「大丈夫。華英に悪い事しちゃった。」

「水川さん、シングルスで優勝したみたいだよ。」

「そっか、良かった。木下くんは?」

「俺は1回戦で負けたよ。」

「冴木くんがね、野球好きなら、硬式の方をやったらいいのにって言ってたよ。」

「好きだから、すぐにレギュラーになれる軟式にしたんだよ。硬式なら、そうはいかないから。」

 哲は遥に昨日の事を聞きたいと思っていた。玄関で会ったあの男の事も。

「その手が治るまで、部活なんてできないだろう。黒板の字も写せないだろうから、俺が勉強、教えてやるよ。」

「いいの?」

「図書室は6時まで開いてるから、放課後、そこで待ってる。」


 月曜日。

「華英、優勝おめでとう。」

 遥は朱莉と教室に入ってきた華英に、声を掛けた。

「遥こそ大丈夫?こんな事にならなかったら、ダブルスもいけたのに。」

 華英はそう言った。

「ごめん。」

「まだ痛むの?」

 朱莉が遥のギプスを触る。

「硬っ!何これ。」

「すごく重たいの。」

 華英もギプスを触った。

「硬っ!これじゃあ中の腕、めっちゃムレムレじゃん。」

「そうなの。そのうち、すごく臭くなりそうで心配してるの。」

「そんな事になったら、木下っていうやつに嫌われるよ。」

朱莉がそう言った。

「遥、木下くんと付き合ってるの?渉が言ってたから。」 

 華英は遥に聞いた。

「付き合ってるっていうか…。」

「この前、遥の荷物を持ってたあの人は?」 

「あの人は前の学校の人。小学校の時からずっと一緒だったし、親も知り合いだから。」

「なーに、遥、男の子の知りたいがたくさんいるんだね。」

 朱莉が遥の制服を引っ張った。

「キレイな顔した人だったよね。優しそうで。」

 華英がそう言った。

「俺が3回戦で負けたやつの事か。」

 渉が哲を連れて教室に入ってきた。

「渋谷、ちゃんと哲に謝れよ。哲、せっかく応援に来たのに、そいつと帰ってしまうなんてひどいよ。」

 渉は遥にそう言った。

「渉、遥はすぐに病院へ行かなきゃならなかったんだし、幼馴染が連れて行った事くらい、別にいいじゃない。もしかして、本当はその人に自分が勝てなかった事、悔しいんでしょう?」

 華英は渉にそう言った。

「幼馴染なら、何かあるんじゃないかって、余計に心配になるだろう?」

 渉は華英に言った。

「なにムキになってんの?木下くんが言うならまだわかるけど、なんで渉がそんな事、言うのよ。」

 華英は渉に言い返した。

 ちょうどチャイムが鳴り、渉と木下は自分の教室へ戻って行った。


 放課後。

 遥は図書室で、哲を待っていた。

 窓を見ると、モクモクと膨れている入道雲が、いつ雨を降らせようかと企んでいるようだった。

 哲が遥の隣りに座った。

「木下くん、雨降りそうだから、もう帰ろうか。」

「こんなに晴れているのに?」

「きっともうすぐ雨になる。」

 遥はノートをカバンにしまうと、席を立った。

「じゃあ、俺の家でおいでよ。今日の分は今日やらないと。」

「木下くんは明日に残すの嫌いなの?」

「嫌だな。明日やればいいやって思っても、明日は明日の事があるし。そうやって残しておくと、少しずつ時間が短くなっていくようでさ。」

「真面目なんだね。」


 哲の家まで歩いていると、急に雨が降り出した。

「家、もう少しだから、走るよ。」

 哲は遥の左手を握った。

「ただいま。」

 哲の家は静かだった。

「いつも誰もいないんだ。みんな仕事。19時を過ぎないと誰も帰ってこない。」

「うちもそうだよ。今はみんなそうでしょう?」

「遥、制服濡れただろう。服貸すから、着替えたら?」

「大丈夫だよ。」

「俺のジャージ貸してやるよ。それならいいだろう。制服、少し干しておけよ。」

「うん。」

 哲は遥が着替えている間、部屋を出ていた。本当は右手が使えない遥の着替えを、手伝ってあげたかったけれど、遥は恥ずかしいとそれを嫌がった。

 高校生っていっても、体はもう大人なんだし、そんな関係になったって、それはそれで、自然の流れだろう。右手が怪我をしている事が理由にするなら、右手が治ったら、いいんだよな。哲はそう思っていた。

「着替えたか?」

「終わった。」

「入るからな。」

 哲の少し大きなジャージを着た遥は、制服をハンガーに掛けようとしていた。

「俺がやるよ。左手だと難しいだろう。」

「ありがとう。」

窓辺に2人の制服が並んでいる。

「遥、幼馴染の話し、ちゃんと聞かせて。」

「小さな町って、みんなそうなの。家族の事もみんな知ってる仲なの。」

「遥はその人の事、好きだったの?」

「違うよ。あの日も病院に連れて行ってもらっただけだから。」

 遥は嘘をついた。

「そっか。それならよかった。」

「どうしてそんな事聞くの?」

「だって、幼馴染なんかと比べられたら、俺なんかすぐにフラレるし。」

「そんな事ないよ。一緒にいた時間なんて、関係ない。」

 叶太と話すと辛くなって飲み込んだ言葉が、哲の前では嘘になって、口からこぼれてくる。

 

 叶太とは何もなかった。

 3日間も一緒にいたのに、叶太は隣りで教科書を見ていた小学生の時の様に、時々辛そうな笑顔を見せながら、自分の隣りに座っていた。 

 夜になる度、本当の気持ちを言えないまま、お互い眠れずに朝を迎えた。2人でいるのに、1人でいる時よりも、淋しくて悲しかった。こんなに辛い思いをするのなら、叶太といた記憶を、全部切り取って捨ててしまいたいと思った。

 家に帰って見た携帯には、叶太の番号もラインの入っていなかった。

 これが、叶太の答えなんだ。


 哲のノートを写していた遥は、左手で書くせいか、時間が掛かっていた。

「それ、写メすればいいだろう?」  

 哲がそう言った。

「だって、片手で撮れないし。」

「じゃあ、明日からコピーしてやるよ。」

「本当?ねえ、木下くん、ここの計算式、教えて?」

「いいよ。」

 木下は遥に近づいた。

「ありがとう、木下くん。」

 遥が顔を上げると、哲は遥のメガネを外し、肩を抱きしめた。

 好きで好きでどうしようもない遥に唇を重ねると、何度も離れてもまた、重なりたくなる。

「ちょっと、木下くん。」

 遥が顔をそらした。

「ごめん。遥の事、すごく好きなんだよ。」

 哲はまた遥の顔に近づこうすると、

「ちゃんと勉強しようよ。明日に残すの、嫌なんでしょう?」  

 遥は哲を止めた。

「わかったよ。」

 2人はまた勉強を始めた。

「雨、止んだから、帰るね。今日はどうもありがとう。」

 遥は立ち上がると、左手でカバンをよいしょと持った。

「送っていこうか?」 

 哲は言った。

「大丈夫。明日も図書室で待ってるから。」


 家に帰る途中の大きな水たまりに、遥はわざとに足を入れた。

「あっ、木下くんのジャージ、着てきちゃった。」


 次の日。   

 ジャージで登校してきた遥は、職員室に呼び出された。

「渋谷、校則違反だぞ。」

「すみません。右手が使えないので、制服を着るのが大変なんです。」

「渋谷の家は、確かお父さんだけだったよな。」

「そうです。父も早くに会社に行くし、先生、ほらスカートのホック、止められないんです。」

 遥は脇腹を触った。

「わかったよ。じゃあ、ジャージ登校の許可書をちゃんと出しておけよ。」

 

 職員室から出てきた遥を、華英と渉が待っていた。

「遥、木下くんが探してたよ。5時間目の体育、ジャージがないから見学にしようかって困ってた。」

 遥はそれを聞くと、哲のジャージが入っている紙袋を持って、哲の教室に走っていった。  

 クラスの中を覗くと、誰に用事?と数人の男子達が声を掛けてくる。哲が遥に気がついた。

 哲は紙袋を持って、遥を少し離れた所へ連れて行く。

「ごめん、昨日ジャージ着たまま帰ってちゃった。」

 遥は紙袋を哲に渡した。

「俺もごめん。今朝、制服がそのままだって気がついて、連絡しようと思ったんだけど…。遥、さっき職員室に呼ばれたんだろう?」

 哲の心配そうな顔を見て、遥は笑った。

「大丈夫。右手が使えないって行ったら、これからジャージ登校でいいって言われたから。」 

「えぇ~!これからジャージで来るの。」 

「うん。」

「そんな。」

 哲はがっかりしていた。

「どうして?」

「ジャージで一緒に帰るのかぁ。」

 哲は制服の入った袋を見つめた。

「もう、戻るね。そろそろチャイムなるから。」


 昼休み。

 遥達3人が家庭科室でお弁当と食べていると、哲と渉がやってきた。今日は拓哉も一緒だ。

「渋谷、勝手に電気レンジ使ったら、また職員室に呼ばれるぞ。」

 渉がそう言った。

「大丈夫。朱莉が平井先生に許可をもらったから。」

 遥がそう言った。

「今日は小島くんも一緒なの。めずらしいね。彼女にフラれた?」

 朱莉がそういうと、

「おまえら、言葉選べよ。」

 渉がそう言った。

「やっぱりフラレたのか。」

 華英が笑った。

「なんか楽しそうだな。そういう話し。」

 渉は拓哉の肩を組んだ。

「誰かが別れた話しって、1人女子には活力になるの。ねぇ~、華英。」

 朱莉と華英がそう言って笑った。

「哲と渋谷にも、別れてほしいのかよ。」

 拓哉がそう言った。

「別れてほしいよ、2人で泊まったって思うと、余計に嫉妬しちゃう。」

 華英は哲のジャージを指差した。

「泊まってないし、雨で濡れただけだし。」

 哲がそう言うと、

「それって、どっかで着替えって事だろう。絶対お前ら、もうそういう関係になったんだろう。」 

 拓哉が言った。

「違うって。」 

「違うよ。」

 否定した遥と哲に向って、

「渋谷、哲と別れてしまえよ。そうやって、幸せそうにしてるから、バチが当たって腕が折れたんだろう。」

 拓哉は近くに置いてあったマジックで、遥のギプスに別れろ!と書いた。

「小島くん、ひどい。私にもマジック貸して。」

 華英がそう言って、ギプスに遥が泣いてる絵を書いた。

 次々にいろんな事が書かれていく遥のギプスに、

「ほら、哲。一番いい場所残したぞ。なんか書けよ。」

 そう言って渉が哲にマジックを渡した。

「やっぱり、好きとかって書くの?」

 朱莉がそう言った。

 早く治れ、哲は遥のギプスにそう書いた。

「なんだよ~、それ。」

 みんなが一斉にがっかりした。

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