第4話 水たまり

 初めてキスをした相手の事は、自分が死ぬまで忘れる事はないだろう。たとえそれが好きじゃなかった相手だとしても、淡い思い出色に染まった心は、いつまでも色褪せる事はない。初めて足を踏み入れた恋という空間の中では、自分さえも見えなくなる。


 

 転校してきてから2ヵ月が経った。

 5月。

 高体連が始まった。

 華英と組み始めたダブルスも、息が合うようになってきた。力技で攻めていくことの多い遥と、多彩なシャトル捌きで相手を動かしいく華英は、次にどこにシャトルを落とすか予想ができず、相手を翻弄させた。

 華英は今まで何人かとダブルスを組んではいたが、彼女の動きに合わせられる相手は、なかなかいなかったようだ。

 順調に勝ち進み、準決勝戦に向かう準備をしていると、

「渋谷、哲達が応援に来てるよ。」

 渉はギャラリーに座っている軟式野球部の同級生達に手を振っていた。

「野球の方は終わったの?」 

 華英が渉に聞いた。

「軟式はチームが少ないから、優勝して県大会が決まったって。哲もさ、本当に野球が好きなら、硬式の方に入ればいいのに。」

 渉がそう言うと、遥は哲の方を見ることなく、華英とアナウンスされたコートへ向かった。

「遥、ここが一番の勝負だからね。相手は去年、優勝してるから。」

 立て続けに試合があるせいか、遥は少し疲れていた。

 最初のセットを落とすと、遥のガッドが切れた。

 違うラケットに取り替えて握ったグリップは、いつもの感覚と少し違う。

「大丈夫、何かトラブルがある時は、絶対勝つから。」

 華英はそう言って笑った。

 華英の言う通り、決勝まで駒を進めた2人は、決勝戦もストレート勝ちで優勝した。

「渋谷、もっと試合に慣れないとダメだな。足がぜんぜんついていってない。」

「はい。」

 顧問の先生がそう言うと、遥は額に残る汗を拭いた。汗で濡れたタオルをカバンに押し込むと、華英と一緒に会場を後にした。

 玄関を出たところに、渉と拓哉が待っている。

「俺の家で、祝勝会って話しになってるんだけど。」

 拓哉がそう言った。

「本当!私も行きたい、ねえ、遥も行こうよ。」

 華英は遥を誘う。

「渋谷、哲も来るってさ。」

 渉がそう言った。

「私、ガッド張り替えてもらいたいから、これからお店に行こうと思ってて、せっかくだけど、ごめん。」

 遥は誘いを断った。

「遥、ガッドなら知り合いに頼んであげるよ、貸して。」

「ううん。今日は、このまま帰る。また、今度。」

 何人かが集まって話しをしている中を抜け、遥は歩き出した。父に連絡をして、スポーツ店の駐車場まで迎えに来てもらうと、遥は車の中に乗るなり、後部座席で横になった。

「遥、シートベルト。」

「わかってる。」

「疲れたか?」

「うん。」

「前も大会はあったけど、こことは規模が違うからな。」

 遥は目を閉じていた。

「何か食べてくか?帰って作るのもなんだし。」

「そうだね、私、ラーメンが食べたい。」


 次の日。

 学校も練習も休みだったので、遥はラケットを取りに、父に昨日のスポーツ店まで送ってもらった。

「帰りは歩いて帰るから。」

 父にそう言うと、遥は店の中に入っていった。

 新しくガッドが張り替えられたラケットを受け取りレジを済ませると、誰かが遥の肩をたたく。

「木下くん。」

 哲が立っていた。

「昨日、来ると思ったのに。」

「ガッド切れてたから。」

「なんか俺の事、避けてない?」

 店を出て歩き出した遥の後を、哲がついてくる。

「別に避けてないよ。」

「だってぜんぜん、目を合わせてくれないじゃん。」 

「そんな事ないよ。」

「ねぇ、ちょっとそこで話そうよ。」

 哲は遥の手を握ると、近くのコーヒーショップに入った。

「私、こういう所、苦手。」

 遥は少し後ずさりした。

「奢ってあげるよ。俺と同じものでいいでしょう?」

「大丈夫、私、自分で払うから。あんまり苦くないものってどれ?」

「誘ったのはこっちだから。一緒に頼むからね。」

 店の奥の席まで行くと、いろんな人がそれぞれの時間を過ごしているのがよく見える。

「こっちの生活に慣れた?」

 哲が聞いてきた。

「どうかな。」

 遥はメガネをカバンにしまう。

「見えるの?」

「見えないよ。」

「なんでコンタクトつけないの?」

「休みの日だし。」

「なんか、冷たいね。もっとテンション上げて話せない?」

「木下くん、大きな町で暮らしてる人って、こんな風にお店で誰かと話したりするの慣れてるんだね。こういう所、よく来るの?」

「今日はたまたま遥に会ったから、来たんだよ。」

「遥だって…?」

「だって、そう言う名前だろ。むこうではなんて呼ばれてたの?」

「渋谷さん。」

 遥は嘘をつく。保育園から同じ同級生は、みんなお互いを名前で呼び合う。叶太は最近まで、小学生の時と同じ、ちゃんをつけて遥の名前を呼んでいた。

「名字だと、なんとなくよそよそしいよ。」

 哲はそう言った。遥はストローで一気に飲み物を吸いあげると、コップの中に四角い氷が見えた。

「ねえ、この後、どうする?」

 哲は聞いてくる。

「家に帰るよ。」

「ちょっとだけ一緒に来てほしい所があるんだけど、いい?」

 哲は立ち上がった。

「ごちそうさま、美味しかった。木下くん、どうもありがとう。」

 遥がそのまま帰ろうとすると、哲は遥の手を握って歩き始めた。遥は何度も手を離そうとしたが、哲は遥の手に指を絡めた。

「木下くんは誰にでも簡単に手を繋ごうとするんだね。」

 遥が聞いた。

「そんな事ないよ。」

 

 古いお寺の前につくと、

「ほら、こっち。」

 哲は遥をお寺の裏側に連れて行った。哲が案内したその場所には、たくさんの藤の花が風に揺れている。  

 雨が地面につく手前に止まっているような藤の花は、時間の流れも止めてしまっているみたいに感じる。はっきりとした白と紫色は、ただそこに吹く風に気持ちよさそうに揺れている。

「すごいね。こんなの初めて見た。」

 遥は哲にそう言うと、藤の花の近づいた。

「遥、ちゃんと見えてるの?」

「見えてるよ、揺れているのもわかる。」

 遥の目に映る藤の花を、哲は見ていた。

 

 遥が転校してきた日。

 下駄箱がわからなくて探している背中に、哲は声を掛けた。不安そうな小さな肩と、精一杯作っている笑顔が、哲の心に突き刺さった。

「クラスは3階にあるよ。」

「どうもありがとう。」

 やっと目が合って話そうとした時、担任が遥を迎えにきた。

 

 哲は藤の花に見惚れている遥の口元にゆっくり近づくと、遥の肩を抱いて、そっと唇を重ねた。 

 遥は突然の事におどろいたが、哲が唇を少しずつ動かす度に、体の力が抜けていった。

 藤の花を揺らしている風は、遥の心にも心地良い風を感じさせる。

 哲の唇が遥から離れると、

「ごめん。急にこんな事して。」 

 そう言って、哲は遥の目を見た。

 今の哲の顔は、どんな表情をしているのだろう。ぼんやりと見える顔の輪郭に、遥はそっと触れようとした。

 哲は遥を抱きしめると、もう一度、遥の唇に近づいた。自分の腕の中にいる遥が、逃げ出したがっているように感じた哲は、遥を人から見えない場所まで、連れて行った。

「遥、俺と付き合おうよ。転校してきた日から、ずっと好きだったんだ。」

 哲がそう言うと、遥は下を向いた。

「木下くん、返事はちゃんとするから。」

 遥はまた藤の花を見て、今にもこぼれ落ちそうな花のひとつを、静かに触った。

「この花は、みんな下をむいているはずなのにね。」

 遥はそう言って、哲の方を見た。

「本当だね。」

 

 家に帰っても、体の力が抜けたような遥は、晩ごはんを残して、自分の部屋に閉じこもった。

 哲とキスした事が、頭の中も心の中もみんな埋め尽くしている。

 自分の唇は、哲の唇の温かさをまだ感じている。


 遥の耳に母の笑い声が聞こえた。

 誰かの温もりを覚えたら、忘れられなくなってしまうんだ。

 遥は膝を抱え、耳を塞いだ。

 叶太が来るまで空けておいた隣りの席は、哲が座った。哲に気持ちが移ろうとしている自分は、言い逃れのできない罪を裁かれているような気持ちになった。   

 遥は机の引き出しに閉まってあった叶太からの手紙を手に取った。今まで気が付かなかったけれど、イタズラなQRコードだと思っていたものは、好きだと言う言葉が塗りつぶされている。

 あいつ、本当にバカすぎる。

 遥は一晩中泣いた。


「おはよう。」

 哲が遥に声を掛けた。

「おはよう。」

「今日はメガネなんだ。」

「そう。」

 メガネをしていても、遥の両目は、赤く充血しているのがわかった。

「もしかして、怒ってるの?」

 哲が遥の顔を覗いた。

「ううん。コンタクトがうまく入らなかっただけ。」

 遥は嘘をついた。

「そう、それなら良かった。良くないか。」

 哲がそう言うと、ちょうど朱莉がやってきた。

「おはよう、遥。」

「おはよう。」

「じゃあ、あとで。」

 哲が去っていく背中を見ていた朱莉が、

「遥、あの人と付き合ってるの?」

 そう聞いてきた。

「違う。」

 遥は小さな声でそう言った。

「今日はメガネか。後で無理矢理コンタクト入れてやろうか。」

 朱莉が遥の顔を見た。

「やだよ。」

 遥はそう言って笑った。

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