第3話 2つの傘

 遥と華英と朱莉の3人は、放課後の教室で、初めてコンタクトを入れる遥の前に集まっていた。

 

「遥、なんでわざわざ毎日取り替えるタイプにしたの?」

 朱莉がそう言った。

「1週間とか、3日間とかだと、いつ取り替えたか忘れてちゃうと思ったから。」

「だけど、こんなに怖がってて、毎日なんて入れられるの?」

 華英が言った。

「いざとなったら、メガネに戻すから。」

「ねぇ、早く入れてみなよ。せっかく手洗って、準備したんでしょう?」

 朱莉が遥の肩を掴んだ。

「待って、1回、深呼吸するから。」

 2人は遥の瞳を見つめる。

「あー、ダメ。やっぱり怖い。」

「私が押さえて、朱莉が入れるとか。」 

「やめてよ、その方が怖すぎる。」


 3人がいる教室へ、渉ともう1人の男子がやって来る。

「何やってんの?」

 渉が遥の机の前に来た。

「あー、ちょっと、コンタクトあるから気をつけて。」

 華英がそう言った。

「お前たちの声、廊下の端まで聞こえるよ。」

 渉がそう言うと、一緒に来た木下哲きのしたてつが遥の顔を覗いた。

「遥、早く入れなよ。なんか、余計な2人もやってきちゃったよ。」

 華英が言った。

「よし!」

 遥は水に浮かぶコンタクトを指ですくうと、

「みんな、そんなに見ないでよ。」

 そう言って、少し横を向いて左目にコンタクトを入れた。

「どう?」

 哲が聞いた。

「待って、右目も入れる。」 

 遥は右目にもコンタクトを入れ、数回瞬きをする。

 遥の周りに集まっていた4人は、みんな遥の顔を見ていた。

「よく見える。」

 遥がそう言うと、4人は一斉に拍手をした。


「おい!お前たち、もういい加減、家に帰れよ。テスト期間に入ったぞ!」

 教室のドアを勢いよく開けた担任が、5人に注意した。急いで玄関に向かった5人は、ケラケラと笑いながら下駄箱に上靴を収めていく。

「じゃあな。」

「またね。」

 5人はそれぞれの方向へむかって歩いていった。


「渋谷さん!」

 哲が追いかけてきた。

「同じ方向でしょう?一緒に帰ろうよ。」

「うん。」

 遥は哲の方を向くと、

「小島くん?」

 と不思議な顔をした。

「ひどいなあ。コンタクトする前は、本当に見えてなかったんだね。」

「ごめん。」

「俺、D組の木下哲。渉と同じ中学だったんだ。」

「そうなんだ。」

「学校は慣れた?」

「そうだね。たくさん人がいるから、ちょっと大変。木下くんは何部なの?」

「俺は軟式野球部。」

「軟式って何?」

「柔らかい球を使う方。」

「じゃあ、硬い方はなんていうの?」

「硬式野球。甲子園とかはそっちだよ。うちの学校は2つともあるんだ。」

「ふ~ん、大きな学校ってなんでもあるんだね。」

「渋谷さんは、ずいぶん小さな所から来たって聞いたよ。」

「そうだね。1クラスしかなかった。」

「けっこうモテたでしょう?」

「モテるわけないじゃん、それにみんな保育園からほとんど一緒だし、好きとか嫌いとか、そんなのぜんぜんないよ。」

「そっか。」

「苦労して入れたけど、ちゃんと外せるの?コンタクト。」

「わかんない。」

「よく見える?」

「うん。よく見える。」

 遥は哲に笑顔をむける。遥の澄んだ目は、哲の心に、鮮やかな色をつけた。 

 転校してきた時から、ずっと気になっていたけど、哲は遥の事が好きだと確信した。

「渋谷さん、あのさ。」

「何?」

「下の名前ってなんていうの?」

「遥。木下くんは、鉄砲の鉄?」

「そんなわけないだろう、哲学の哲。」

「わかった、もう覚えたよ。哲学の哲ね。私の家、こっちだから、じゃあね。」

 遥は手を振って行ってしまった。


 テストが終わった日。

 午前中に曇っていた空は、雨を抱え込んだように低くなってきた。学校を出て1つ目の交差点につく頃には、ポツポツと雨の雫が道路を濡らし始めた。

 遥は手に持っていた薄い緑色の傘を開くと、内側に浮き上がった小さな花を眺めた。

 信号が青になる。横断歩道を渡りきった所で、哲が遥に声を掛けた。

「渋谷さん、一緒に傘に入れて。」

「木下くん、傘持ってるでしょう?」

 遥は哲の持っている黒い傘を指さした。

「これ、壊れちゃってさ。」

 哲は嘘をついた。

 傘の中に入ると、遥が持っている柄を掴んだ。

「俺が持つよ。」

「ありがとう。」

 遥の持っている薄い緑色の傘の中は、ちいさな花が広がっていた。

「あれ?外側にはこんな模様なかったよ。」

「中だけなの。濡れると見える花なんだって。」

「そうなんだ。」

 哲は遥の肩をそっと自分に寄せた。

「傘からはみ出したら、濡れちゃうよ。」

「大丈夫だって。木下くん、傘が壊れたなら、ここから困るね。」

「あっ、まあそうだね。」

「私の家近いから、木下くんに傘貸してあげる。」

 遥はそういうと、傘の中を抜けて出して、走っていってしまった。

「渋谷さん、そうじゃくて、あのさ……。」

 雨の中に消えていく遥の背中は、あっという間に見えなくなった。

 嘘なんかつかなきゃよかった。

 哲はため息をついた。

 自分も傘を広げて遥の隣りに並んでいたら、もう少し話しができたのに。

 明日から、部活が始まる。

 次にこうして会えるのはいつだろう。


 家に着いた遥は、びしょ濡れになった制服を洗面所の物干しに掛けた。乾いたタオルで丁寧に制服を拭くと、体が冷えたせいか少し寒気がした。

 父に温かいものが食べたいとラインをすると、布団に入り、目を閉じた。冷たい自分の腕をさすると、肩を触った哲の手の感触を思い出した。遥は肩をギュっとつねると、その感触を忘れるために、このまま眠ってしまおうと、固く目を閉じた。


 小さい頃はなんのためらいもなく繋いでいた手も、いつの間にか指先が触れるだけでも恥ずかしくなる。

 急に馴れ馴れしく遥の肩に触ってきた哲は、叶太よりも少し大人びて見えた。

 

 傘、持ってたくせに。

 本当の気持ちをつぶやくと、少し体が熱くなった。

 


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