第2話 霧雨
新しい学校の制服は、セーラー服だった。セーラー服なんて、一生着る事はないと思っていたから、遥は嬉しくなり、早速それに袖を通した。
鏡の前でリボンを結ぶ練習をしていると、いつまでも女でいたい、と言った母の顔が急に浮かんだ。
少しずつ女になっていく自分が、とても気持ち悪かった。
遥はセーラー服を脱いだ。
脱ぎっぱなしになっていた短パンとTシャツに着替えると、居間に置きっぱなしの段ボールから、食器を出して棚にしまい始めた。
そう言えば、お弁当箱、用意してないや。
職場に挨拶に行った父にラインをすると、もうすぐ帰るから、一緒に買いに行こうと返事がきた。
次の日。
転校した高校は、1学年全部で8クラスあった。40人が机を並べる教室は、圧迫感がある。
遥はなるべく目立たないように挨拶を済ませると、担任から一番奥の席に案内された。ここからは黒板がぜんぜん見えない。遥はカバンからメガネを出すと、黒板が見えるように、首を横にむけた。
たくさん人がいるはずなのに、誰もが遠くにいる様に感じる。
悠には、間に合わなかった教科書の代わりに、授業で使う分のページのコピーが渡されている。知らない国の中で、1人取り残された気分になった遥は、淡々と進んでいく授業の板書を、ひたすら書き写していた。
休み時間になり、2人の女の子が遥の前にきた。
「何部に入るの?ラグビー部、マネージャー募集してるよ。チア部も募集しているし。」
「そんな部活もあるの?」
「あるよ。前の学校にはなかったの?」
「前の学校は、3つしかなかったから。」
「へぇ~、ずいぶん小さな学校だったたんだね。クラスは何組あったの?」
「1組。」
「それなら、みんなお友達じゃん。」
「そうだね。」
「部活は何をやってたの?」
「バドミントン。」
「じゃあ、バドミントン部に入ろうとしてた?」
「1回見学してから決めようと思って…。」
遥の近くにいた女の子が、
「私もバドミントン部なの。今日、練習あるから、見においでよ。」
そう言った。
「遥っていうんだっけ。私は
「私は
口紅のせいなのか、2人共薄っすらと唇がキレイなピンク色をしている。まっすぐ伸びたキラキラした髪に比べて、自分の髪は、ただ後ろで集められただけの厚ぼったい束。
今まで生きてきた17年間が、否定された気分になる。
目の前にいる女の子が、普通の女子高生の規準になるのなら、自分のように、朝起きてそのまま学校へくる様な人間は、この環境では少し生きにくい。
「ねえ、黒板見えないんだったら、先生に言って前にしてもらったら?」
華英がそう言った。
「大丈夫。」
「部活の時は、メガネなの?」
「メガネもとってる。」
「それで、よくやってこれたね。」
「そんなに人もいなかったし。」
「ここは部員は30人以上はいるよ。コンタクトにしたら?」
「みんな、そうなの?」
「コンタクトの人、多いね。私もそうだし。」
遥は華英の目を覗いた。
「ぜんぜん、わからなかった。」
「当たり前じゃん、そんなの。」
「みんな、化粧してるの?」
遥は2人に聞いてみた。
「私は化粧なんかしてないよ。これは色付きのリップ。うちの学校、けっこう厳しいからさ。」
朱莉が言った。
「この髪なら、頭髪検査引っ掛かるよ。」
華英は遥の前髪をおでこに押さえつけた。
「厳しいんだね。」
「あとで、裏技教えてあげる。」
3人はすぐに打ち解けた。
放課後。
華英に案内されたバドミントン部を見学にきた。
「ラケット貸すからやってみなよ。」
華英は悠にラケットを渡すと、コートに入った。
「渉、ちょっとそっちに寄って。」
華英は隣の男子にそう言うと、遥にシャトルを渡した。
「サーブ、打ってみてよ。」
遥は華英にむかってサーブすると、高く上がったシャトルは、長い滞空時間を経て、華英のラケットからまた、高く返された。広い体育館のいろんな場所で、シャトルを打つ音が聞こえている。
「ねえ、遥。私と組まない?」
華英はそう言った。
「私、ダブルスなんてやったことないよ。」
「大丈夫。」
「転校生?」
隣りの男子が遥にそう聞いた。
「そうです。」
「何組?」
「B組です。」
「バドミントン、けっこうやってたの?」
「…はい。」
「俺、冴木渉。《さえきわたる》あっちは、小島拓哉。《こじまたくや》拓哉はF組だから。」
遥はABCと指を折っていた。
「遥、ここは8組あるんだよ。」
華英が言った。
「同じ学年でも、知らない人の方が多いでしょう?」
遥は華英に聞いた。
「そうだね。あっ、先生きたよ。挨拶に行こうよ。」
華英は遥の手を引っ張った。
家に戻ると、父が台所に立っていた。
「お父さん、私がやるよ。」
「今日は早く終わったから、カレーくらいならお父さんでも作れるぞ。」
「料理なんかしなくても、買ってくればいいんだし。」
遥は無理して普通の家庭を取り戻そうとする父を見るのが嫌だった。
「部活やる事にしたの。これから私も遅くなる時は、すぐ食べれるもの、買ってこようよ。」
「そんなのばっかり続いたら、体壊すぞ。」
「大丈夫だよ。お弁当は自分で作るから。」
「すまないな。なあ遥、せっかく都会に来たんだから、塾に行かないか?来年は受験だろう。」
「行かないよ。それにまだなんにも決めてないし。」
部屋に戻ると、遥は窓を開けた。霧雨が降っているせいか、ぼんやりとオレンジ色に見える街灯の光に照らされて、小さな雫が騒いで見える。
教科書のない空っぽのカバンの中。
きっと叶太のランドセルも、そうだったんだろうな。
ここはこんなにすごい人だもの、いろんな事が紛れて消えて、そのまま何もかも忘れて行くはず。
叶太も近くにいる誰かを好きになって、自分のことなんて、あっという間に忘れていくんだろうな。
あの町から少し離れただけなのに、新しい学校でも楽しくなくやっていけそうなのに、なんでだろう。心が鎖でグルグル巻きにされているようだ。
思い出になんかなりたくない。だけど、思い出にすらなれないのかと思うと、それもまた悲しい。
恋だとか、愛だとか、そんな感情なんて、みんな嘘っぱちだって思ったじゃない。長年一緒にいた父と母だって、いつの間にか気持ちが離れていったんだし。
叶太、私の事なんかもう忘れた?きっと忘れたよね。私だって、少しずつ忘れていくんだもの。
遥は膝を抱えると、顔を伏せた。
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