第四章: 嘘の嘘は真実
結婚式当日の朝。
源三は、人生で最後となるであろう正装――黒のモーニングに身を包んだ。鏡の中に立つ自分を、彼は一分近くも見つめていた。佐伯は黙ってその後ろに立ち、震える手でうまく締められない源三のネクタイを整える。
「……航くん。私は、ちゃんと笑えているか」
源三が鏡越しに問う。
「はい。世界で一番、頑固で立派なおじいさんに見えます」
佐伯は表情を変えず、けれど確かな手つきで襟元を正した。
式場の扉の前。
重厚なパイプオルガンの音が、建物の震動となって伝わってくる。
陽菜が源三の左腕を取り、佐伯は源三の右側にぴたりと寄り添った。
「源三さん。私の肩に、すべてを預けてください。客席からは、あなたが私を頼っているのではなく、私を導いているように見せます」
佐伯は小声で囁き、源三の右腕を自分の左腕に深く絡ませた。
重い扉が開く。
光の洪水の中に、純白の花嫁と、死神に支えられた老人が踏み出した。一斉に立ち上がる参列者の視線が、バージンロードの起点に立つ三人に集まる。
「……行くぞ、陽菜」
源三の声はかすれていたが、その背筋は驚くほど真っ直ぐに伸びていた。
「うん、おじいちゃん」
一歩。
赤い絨毯を踏みしめた瞬間、源三の身体が右側に大きく傾ぎそうになった。
佐伯は、表情一つ変えずに左腕に力を込めた。源三の右腕を自分の身体に密着させ、釣り上げるようにして体重を支える。傍目には、頼もしい親戚の青年が、誇らしげな老人の隣を敬意を持って歩いているようにしか見えないはずだった。
二歩、三歩。
源三の呼吸が、次第に短く、熱を帯びていく。
佐伯の肩に食い込む源三の指先が、小刻みに震えていた。一歩進むたびに、老人の命が火花を散らして削られていくのが、腕を通じて伝わってくる。
「……くっ、はあ……」
源三の意識が遠のきかけ、視線が床に落ちた。膝の力が抜け、身体が沈む。
「前を」
佐伯は参列者には聞こえない極限の低声で、源三の耳元に投げつけた。
「前を見てください、源三さん。陽菜さんの、背中を」
その言葉に弾かれたように、源三が顔を上げる。
隣を歩く陽菜は、ただ前だけを見つめていた。ベールの下で、彼女は唇を白くなるほど噛み締め、溢れ出しそうな涙を必死に堪えている。
陽菜は気づいていた。自分を支える祖父の腕が、氷のように冷たく、そして岩のように強張っていることに。それが、命の最後の灯火を振り絞っている証拠だということに。
(おじいちゃん。お願い、あと少しだけ)
陽菜は心の中で叫んでいた。祖父の嘘を壊さないために、彼女はあえて顔を向けない。ただ、祖父の手が離れないよう、自分の右腕をしっかりと横腹に押し当て、共に歩幅を合わせた。
十メートルほどの道が、永遠のように長く感じられた。
佐伯のワイシャツの下では、源三を支える腕の筋肉が悲鳴を上げていた。
だが、佐伯の心はかつてないほど静かだった。死を運ぶのが自分の仕事だと思っていた。けれど今、自分は間違いなく、一人の男が人生の最後に灯した「意地」という名の生を運んでいる。
ようやく、新郎の待つ祭壇の前へ辿り着いた。
源三はゆっくりと陽菜の腕を放し、震える手で彼女の右手を新郎の手の上へと重ねた。
「……陽菜を、頼む」
それは、この世の誰の言葉よりも重い、契約の言葉だった。
新郎が力強く頷く。その瞬間、源三の身体から全ての力が抜けた。
崩れ落ちる寸前、背後に回っていた佐伯が、その身体を抱きとめる。
「……見事でした、源三さん」
佐伯の囁きに、源三は微かに微笑んだ。その瞳は、人生のすべてをやり遂げた者だけが持つ、深い安らぎに満ちていた。
式の後半、陽菜が読む「感謝の手紙」の時間がやってきた。
椅子に座り、佐伯に身体を預けながらそれを聞く源三の前で、陽菜はマイクを握った。
「おじいちゃん。私を育ててくれて、ありがとう。……おじいちゃんが、いつも元気で、強くて、私の前で笑ってくれたから、私は今日まで幸せでした。……これからも、ずっと、ずっと大好きだよ」
陽菜は最後まで「病気」という言葉を使わなかった。
彼女は、祖父が命を懸けて守り抜いた「元気な祖父」という嘘を、最高の笑顔で受け取ってみせたのだ。
式場を去る間際、陽菜は佐伯と一瞬だけ目が合った。
彼女は声を出さずに、唇の動きだけでこう言った。
『ありがとうございました。航さん』
それは、佐伯が終焉支援官として初めて受け取った、生身の感謝の言葉だった。
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