第三章: 崩れゆく均衡
結婚式を三日後に控えたその日、ついに均衡が崩れた。
午後の穏やかな陽光がリビングに差し込む中、陽菜は完成したウェディングドレスの最終フィッティングを行っていた。
「おじいちゃん、どうかな? ちょっと派手すぎない?」
カーテンの向こうから現れた陽菜の姿は、純白のレースに包まれ、まるで光を纏っているかのように眩しかった。
座椅子に座っていた源三が、ゆっくりと立ち上がろうとする。
「ああ……綺麗だ。陽菜、お前は本当に……」
言葉を紡ごうとした源三の顔から、ふっと血の気が引いた。目を見開き、喉の奥でひゅっと短い呼吸が漏れる。
「おじいちゃん?」
陽菜が駆け寄ろうとした瞬間、源三の膝が折れた。
「源三さん!」
傍らに控えていた佐伯が、反射的に飛び出した。源三が床に叩きつけられる寸前、その痩せた身体を横から抱きしめるようにして受け止める。
源三の指先が、佐伯のシャツを強く掴み、爪が食い込む。激痛に耐える老人の荒い吐息が、佐伯の耳元で鳴り響いた。
「おじいちゃん! 嘘、どうしたの!? 顔が真っ青だよ!」
陽菜が悲鳴のような声を上げ、ドレスの裾を振り乱して膝をつく。彼女の手が震えながら源三の頬に触れようとした。
「……陽菜さん、大丈夫です。下がっていてください」
佐伯は努めて冷静な、しかし有無を言わせぬ声で制した。
「……貧血です。最近、式への緊張で寝不足だと仰っていましたから。私が部屋へ運びます。陽菜さんは、冷たい水とタオルを」
「でも、あんなに苦しそうに……」
「大丈夫です。私の家系にはよくある発作のようなものですから。すぐに落ち着きます」
佐伯は源三の軽い身体を軽々と抱き上げ、寝室へと急いだ。背後で、陽菜が立ち尽くしている気配がした。
寝室に源三を横たえ、襖を閉めると、源三は激しく咳き込んだ。口元を押さえた掌には、鮮血が滲んでいる。
「……航、くん……すまん……。もう、隠し通せ、んか……」
「黙ってください。呼吸を整えて」
佐伯は慣れた手つきでカバンから強力な鎮痛剤を取り出し、源三に飲ませた。支援官としての携帯品には、死を早めるための薬剤だけでなく、死の瞬間まで尊厳を保つための応急処置具も含まれている。
数分後、痛みが引いたのか、源三の呼吸が少し落ち着いた。
その時、襖が静かに開いた。陽菜が、水とタオルを持って立っていた。
彼女の瞳には、先ほどまでの無邪気な輝きはなかった。代わりに、深い深い、底の見えない不安の影が宿っている。
「航さん……」
陽菜の声が震えていた。
「おじいちゃん、本当は、どこか悪いんじゃないですか?」
「言ったはずです。一時的な貧血だと」
「嘘です」
陽菜は、床に落ちていた一枚の「紙」を指差した。源三を抱き上げた際、佐伯のカバンから滑り落ちたもの――「終焉支援官」の身分証と、青い封筒の端が、そこにあった。
「航さん、あなた……本当は誰なんですか? 終焉支援官って、安楽死の……」
佐伯は心臓の鼓動が速くなるのを感じた。
事務的に「はい、そうです」と言えば、この茶番は終わる。源三を病院へ送り、陽菜に真実を話し、残酷な、けれど正しい別れの時間を過ごさせることができるのだ。
だが、ベッドの上で源三が、血のついた手で佐伯の腕を掴んだ。
源三の目は、激痛に歪みながらも、死よりも強く「嘘を突き通せ」と命じている。
佐伯は無言で身分証を拾い上げ、カバンの中に押し戻した。そして、一欠片の動揺も見せずに陽菜を見据える。
「……私の現在の本業は、終末支援官です。それは事実です」
陽菜の顔から、さらに血の気が引く。
「じゃあ、おじいちゃんは……!」
「ですが」
佐伯は、彼女の言葉を鋭く遮った。
「私が今ここにいるのは、仕事としてではありません。源三さんに頼まれたからです。……自分が病で弱っている姿を、結婚式を控えた君に見せたくない。最期まで『元気な祖父』として君の隣を歩きたい。そのために、身体の支え方を知っている私を、親戚として呼び寄せてほしい。……そう、泣きながら頼まれたんです」
佐伯は、あえて「安楽死」という言葉を口にしなかった。あくまで「病弱な老人の、孫への見栄」という枠組みの中に物語を押し込める。
「陽菜さん。私が支援官だからといって、源三さんが今すぐ死ぬわけではありません。私はただ、彼が『理想の祖父』を演じきるための小道具に過ぎないんです」
「……でも、おじいちゃんの病気は、本当は……」
「ただの貧血です」
佐伯は冷徹なほどに言い切った。
「あなたが『ただの貧血だ』と信じる限り、それは貧血なんです。あなたが彼の嘘を暴けば、おじいさんは、ただの『哀れな病人』として式に出ることになる。……それは、源三さんが最も恐れていることです」
陽菜は、ベッドの上で荒い息をつく祖父と、冷徹な仮面を被った佐伯を交互に見た。
彼女の瞳の中で、激しい葛藤が渦巻いている。だが、やがて彼女は震える拳を握りしめ、ぽつりと呟いた。
「……おじいちゃんは、私の前では『かっこいいおじいちゃん』でいたいだけ、なんですね」
「そうです」
「航さんも、そのために……協力してくれてる。親戚のふりをして」
「……はい」
陽菜は、溢れそうになる涙を指で乱暴に拭った。
「……分かりました。おじいちゃんがそうしたいなら、私は……何も知りません。だって、おじいちゃんはただの貧血で、航さんはちょっと変わった仕事をしてる親戚のお兄さんだもん。そうでしょ?」
陽菜は無理やり笑顔を作った。それは、源三の嘘よりもずっと痛々しく、そして美しい嘘だった。
佐伯は初めて、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
嘘をついているのは、自分と源三だけではない。陽菜もまた、二人を救うために「騙されているフリ」という最大の嘘をつき始めたのだ。
この家を包むすべてが、偽物になった。
しかし、その偽物の中にしか存在し得ない「幸せ」が、確かにそこにはあった。
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