第二章:日常の中に潜む死の匂い


佐伯がこの家に泊まり始めてから一週間が経った。



表向き、佐伯は在宅ワークをこなす親戚の「航さん」として振る舞い、源三の通院の付き添いや買い出しを甲斐甲斐しく手伝った。



陽菜はその姿を見るたびに、「航さんが来てくれてから、おじいちゃんの顔色が良くなったみたい」と、無邪気に喜んだ。



だが、その笑顔の裏側で、深夜の廊下は凄惨な訓練場と化していた。



「……あと、三歩です。前を見て。背筋を伸ばして」



午前二時。陽菜が寝静まったのを見計らい、佐伯は廊下で源三の身体を支えていた。



源三の顔は、苦痛で土気色に変色している。パジャマの上からでもわかるほど、彼はこの数日でさらに痩せ細っていた。末期がんによる倦怠感と激痛が、彼の四肢から自由を奪い去ろうとしている。



「くっ、はあ……はあ……」



源三の左腕を、佐伯が自分の肩に乗せ、密かに体重を預かっていた。客観的に見れば、親密な二人が寄り添って歩いているようにしか見えないはずだ。だが実際には、佐伯の右肩には源三の全生存本能が重くのしかかっていた。



「……航くん、すまん。もう、少し……休ませてくれ」



壁に手をつき、源三が崩れ落ちるように座り込む。佐伯は無言で、用意していた鎮痛剤と水を手渡した。



「源三さん。やはり無理があります。当日は車椅子を……」



「ダメだ。陽菜の視線は、私ではなく、新郎と、その先に続く未来に向いていなきゃいけないんだ」



源三は、震える手で薬を飲み込んだ。



「……あんた、どうしてこの仕事を選んだんだ? 死神なんて、嫌われるだけだろうに」



唐突な問いに、佐伯は動きを止めた。暗い廊下で、自分の指先を見つめる。



「……死にたいと願う人が、法の下に、誰にも責められずに旅立てる。それは一つの救いだと考えたからです」



「救い、か。……冷たい救いだな」



源三は自嘲気味に笑った。



「私のような嘘つきには、あんたのような冷たい奴がちょうどいいのかもしれんな」



翌朝、台所からは陽菜が朝食を作る小気味よい音が聞こえてきた。



佐伯がリビングへ行くと、陽菜が向日葵の刺繍が入ったコースターを並べていた。



「おはようございます、航さん! おじいちゃん、まだ寝てますか?」



「ああ。昨夜は少し、昔話が長引いてしまったからね」



嘘をつくことへの抵抗感は、もはや摩耗して消えかけていた。佐伯は陽菜の向かいに座り、差し出されたコーヒーを啜る。



「航さん、実は相談があるんです」



陽菜が少しだけ声を潜めて言った。



「式当日のサプライズなんですけど……おじいちゃんへのお手紙、読もうと思ってるんです。今まで、恥ずかしくて一度も言えなかった感謝の気持ちを、全部。……航さん、おじいちゃんの体調、大丈夫ですよね? 最後まで、聞いててくれますよね?」



彼女の澄んだ瞳には、祖父が明日をも知れぬ命であるという疑念は一欠片もなかった。彼女が計画しているのは「感謝の儀式」であり、それは源三にとっては「永遠の別れの儀式」に他ならない。



「……ああ。きっと喜ぶと思う。彼は、君の笑顔が一番の薬だと言っていたから」



佐伯の言葉に、陽菜は「良かった」と胸をなでおろす。



その光景は、どこからどう見ても幸せな家族の朝だった。だが、佐伯の胸ポケットには、源三の死を執行するための、あの「青い封筒」が、皮膚に突き刺さるような冷たさを放って収まっていた。

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