第8話.新しい職場

 キョウと別れてから、一か月が経った。

 いつまでも家の中に引きこもっていられないため、ルナは就職活動を行い、無事に再就職を果たしていた。


 今度も事務員として、そこそこの商家の書類を捌いている。


「ルナさん、お疲れ様。はいこれ」

「フィガロ先輩もお疲れ様で……あ、ありがとうございます」


 同じ事務員であり、ルナの先輩にあたるオオカミ族の男性、フィガロが冷たい紅茶を入れて持ってきてくれた。

 そのまま差し出されたので、ルナは慌てて手を伸ばす。


「あっ」

「おっと」


 紅茶を受け取る時に手が触れてしまい、ルナは思わず声を出してしまう。

 フィガロもすぐに気づいたようで、手渡すのをやめてルナの机の近くに置き直してくれた。


「こういうところに気が回らないのは、俺の悪い癖だなあ。不快な思いをさせてごめんね?」

「いえ! 私の方こそ、なんだか過剰に反応したみたいになってしまって……置いてくださいとお願いすればよかったのに」


 ルナは、全然気が回らない自分が嫌になった。


「いやいや、物を差し出されたらそれを受け取ろうとするのは普通でしょ」


 過剰すぎだよと、フィガロはウィンクしていた。

 これが先輩なりの気遣いだということを、ルナはもう知っている。


 ――キョウはこんなことしなかったなあ。

 ここまで考えて、ルナは慌てて今考えたことを頭から追い出した。


 新しい職場は前と変わらず快適だ。騎士団の事務所ほどの人数はいないけれど、仕事はきちんと回っている。


 ルナの指導係をしてくれているフィガロも優しく、時に厳しく仕事のことを教えてくれており、ありがたい限りだ。

 ただ一点を除いて。


「うん? 俺の顔、なんかついてる?」

「いえ! 紅茶、いただきますね」


 先輩のことを見ていたら、昔大好きだった人のことを思い出していました、なんて言えるわけがない。

 ルナは誤魔化すように、机に置いてもらった紅茶に手を付けた。


 フィガロは自分の机に戻り、仕事に戻った。ルナも一口飲んだ紅茶を机に置き、残りの書類を処理に戻った。


 * * *


「フィガロ先輩、すみません。今お時間よろしいでしょうか」

「うん? どうしたの」


 気持ちを切り替えて整理をしていたルナは、手元の書類を持ってフィガロの机へと向かった。


「こちらの商会からの請求書については、こちらの指定された方法で書き写してから、経理に回すという手順で合っていますか?」

「うん、合ってるよ。金額と日付の齟齬がないか確認して、あそこのボックスに入れておいてくれればいいから」

「分かりました。ありがとうございます」


 ルナが頭を下げて自席に戻ろうとすると、フィガロが感心したような声を上げた。


「それにしても、ルナちゃんは本当に丁寧だねえ」

「え? そうですか? 分からないことを聞いただけなんですが……」

「いやいや、それが大事なんだよ」


 殊勝なことをしたつもりがないので、ルナはフィガロの言葉に戸惑ってしまう。

 フィガロはくるくるとペンを回しながら、苦笑いを浮かべながら言った。


「即戦力っていうのはもちろん助かるんだけどさ。中には『前の職場ではこうだったから』って、独自のやり方で突っ走っちゃう子もいるんだよね。こっちにはこっちのやり方があるから、それを無視されると……ね?」

「ああ、そういうことですか」

「その点、ルナちゃんは経験者なのに偉ぶらないし、一つ一つちゃんと確認を取ってくれる。こっちのやり方を尊重してくれてるのが分かるから、教える側としてはすっごく助かるよ。採用して正解だったな」


 べた褒めに近い勢いでフィガロがいうので、ルナは照れくさそうに笑った。

 新しい環境で自分の働き方が認められるのは、素直に嬉しい。騎士団での経験が無駄ではなかったのだと、自信にもつながる。


 ――でも。

 ふと、フィガロの頭にある灰色の耳が、ぴくりと動くのが目に入った。

 嬉しそうに揺れるその耳を見て、ルナの脳裏にまたしても、あの人の姿がよぎってしまった。


 キョウなら、こんな風に器用にペンを回したりしないだろうな。

 きっと、太い指で不格好にペンを握りしめて、眉間にしわを寄せながら書類と格闘して……最後には『分かんねえ!』って、頭を抱えていたに違いない。


 フィガロのようなスマートな大人の余裕は、キョウにはなかった。

 けれど、そんな不器用さが、どうしようもなく愛おしかったのだ。


 ――なに考えてるの。

 目の前にいるのはフィガロ先輩だ。キョウじゃない。


 それなのに『同じオオカミ族の男性』という共通点だけで、勝手にキョウの面影を重ねて、比べてしまっている。

 自分に仕事を教えてくれているだけの先輩に対し、なんて失礼なことをしているんだろう。


 それだけじゃない。もう終わったはずの恋をいつまでも引きずって、いちいち思い出しては感傷に浸る自分は、あまりにも嫌な奴だ。


「ルナさん? どうしたの、顔色が悪いけど」

「い、いえ! なんでもありません。お褒めいただいて光栄です!」


 心配そうに覗き込んでくるフィガロの視線から逃れるように、ルナは慌てて背筋を伸ばした。


「仕事、戻りますね」


 逃げるように自分の席につき、ルナは強く唇を噛みしめる。


 仕事に集中しよう。余計なことは考えないようにしよう。

 そう自分に言い聞かせながら、ルナは震える手でペンを握り直した。

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好きだからこそ、オオカミ族の番は辞退します おかかむすび @OkakaSiomusubi

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