第3話 失恋、そして黒猫
ライカは呆然と、虚空を見つめていた。
その表情には、さっきまでの明るさはかけらもない。
当然か。
ここなら……俺なら、自分を受け入れてもらえる。
そんな淡い期待を、バッサリと切り捨てられたのだから……。
同情はする、でも……今の俺に、この子を受け入れられるだけの器はない。
「それじゃあ……俺はそろそろ会社に行かないとだから」
そのまま俺は身支度を整えて、逃げるように家を出た。
あの子も、俺が帰る頃には、もういなくなっているだろう。
だけど、もっと他に言うべきこと、してあげられることがあったのではと、後ろめたさで胸が痛い。
少し歩いたところで立ち止まり、俺はもう一度、我が家を振り返った。
見えるのは、築年数だけ積み重ねた、ただ古いだけの錆びたアパート。
もしも、今日、家に帰ってもまだあの子がいたなら……俺はどんな言葉をかければいいのだろうか。
「はぁ……もしも、拾ったのがただの犬猫なら、こんなに悩む必要はなかったんだけどな」
恨むべきは昨日の俺か。
いや、丸三日寝れないほどの仕事を振ってきたクソ上司のせいだな。
うん、そうに違いない。
まぁ……後のことは、未来の俺に任せるとしよう。
そう思考放棄して、俺はまた会社へ向かって歩き出した。
だけど、この時の俺は気づかなかった。
俺の部屋の窓の向こうから、じっと俺を見つめる黒い猫の視線に。
◇
徒歩で駅まで向かうと、鮨詰めとなった電車の中に身を投げる。
「うぐぅ」
地獄だ。
狭くて、臭くて、暑い。
電車が揺れるたびに、肘が横腹に刺さり、足を踏まれる。
毎日のことだが、慣れる気はしない。
しかも、これを乗り越えったて天国があるわけでもない。
また心身を削るブラック労働が待っている。
まるで、養豚場から出荷される豚になった気分だ。
あぁ……仕事やめたい。
そうこうしているうちに、電車が目的地に停車した。
電車を降りて、駅を出ると……俺は重い足取りで会社に向かう。
腕時計を見れば、時刻は八時十三分。
始業時間は九時だが、時代遅れな社風故に、少なくとも三十分前には着く必要があるのだ。
まぁ、この時間なら今日は大丈夫だろう。
そして、会社に着けばタイムカードを切って、自分の部署へと向かう。
「おはようございます」
一応挨拶はするが、返してくるやつなんていない。
俺の声は、誰の記憶にも残らない。
いつもならここで大体、上司の怒号が飛ぶのだが……。
ふと、疑問に思って上司の席を見てみると、そこに禿げた男の姿はない。
なんと、面倒な上司が今日はいない。
休みかは知らんが、運が良いな。
俺は上がる口角を抑えながら、静かに自分の席に座る。
そして、さらに運がいいことに————。
「宇佐美さん、おはようございます!」
我が部署の紅一点。月魄 輝夜さんに話しかけられたのだ。
「おはようございます月魄さん」
「調子はどうです? 昨日も遅くまで残業してたらしいじゃないですか。ダメですよ、頑張りすぎは」
「あははは……まぁ、ちょっと仕事が溜まってしまって」
本当は、急遽飛んだ新人の分の仕事をクソ上司に押し付けられたせいなのだが。
この笑顔を見ているだけで、過ぎた事は気にしないと、まるで菩薩になったように、心が浄化された。
「もう……じゃあ、これ差し入れです!」
月魄さんが手渡してきたのは、なんの変哲もない缶コーヒー。
「わぁ、ありがとうございます!」
「お仕事頑張ってくださいね!」
月魄さんははにかむ様に笑って、自分の席に帰っていく。
その後ろ姿を、俺は自然と目で追っていた。
彼女の姿が見えなくなって、ようやくパソコンに向き直る。
「……なぁ、俺さ、月魄さんに告ろうと思うんだけど」
「はぁ? やめとけって」
もらった缶コーヒーのプルタブに指をかけた時、背後に同僚二人の声が聞こえた。
聞く気はなかったが、静かな部署では、そんな囁き声も酷く大きい。
はぁ……また、犠牲者が増えるな。
と、俺は苦笑した。
月魄さんに告白してフられた奴の話を今まで幾度も聞いてきたからだ。
確かに、月魄さんは美人で誰にでも優しい。
だからこそ、勘違いする男が後を絶たなかった。
毎回彼女に告白し、フラれるその繰り返しだ。
今年だけで、そんな輩を二十人は見てきた。
だから、彼もすぐに撃沈して終わる。
————そう思っていた。
「だって、月魄さん……彼氏いるって噂だぜ?」
その瞬間。心臓がドクンと、少しだけ跳ねた音がした。
「はぁ!? まじで言ってんの?」
「ああ、最近社内で噂になってんだよ。確か相手は一条だとか?」
一条。それは社内でも有名なイケメン社員の名前だった。
あぁ……そうなのか。
俺は席を立つと、まだ休憩時間ではないが、喫煙所へと歩く。
途中、月魄さんが誰かに笑いかける姿を見た。
その笑顔が俺に向く事はない。
分かっていた。
俺と彼女は……ただの同僚なのだから。
「……ごくり」
彼女の幸せを邪魔する気はない。
だけど……ようやく開いたコーヒーの味は、とても苦かった。
◇
仕事が終わった頃には、もう太陽は沈み切っていた。
今日は珍しく残業が少なくて、終電の三本も前で退社できた。
いつもなら、そのまま帰宅して寝るか、どこかの居酒屋にでも寄っていくのだが……。
だけどなぜか……俺は、何をする気にもなれなかった。
気づけば駅前のコンビニで、缶ビールを数本買っていた。
酒なんて強くない。
それに、ビールも嫌いだ。
だけど、今は無性にこれが飲みたい気分だった。
公園のベンチに腰を下ろし、一本目を開ける。
冷たくて、苦い。
コーヒーとはまた違った、苦味。
まずいはずなのに……今だけは、不思議と不味くはなかった。
まるで、悪い夢を見ている気分で。
それでいて、喉を通る感覚だけが、やけに現実的で。
頭が、心が……少しづつ空っぽになっていく。
「はぁ……俺、なんのために生きてんのかな」
まるで独白ような言葉が、自然と漏れた。
35歳独身。彼女いない歴イコール年齢の中年男性。
同級生は次々に結婚し、俺だけがこの世界に取り残されている。
みんな俺から離れてく。
必死に、働いて働いて働いて……最後に何が残るんだろう。
いや、何かを残すなんてのも烏滸がましい。
ただ……選ぶこともせずに、流されただけの人生。
こんな人生に、なんの意味があるんだろうな……。
俺の人生は……間違いだらけだ。
もっと早く、気づいて、一歩を踏み出せていたなら……。
そう思わずにはいられない。
「あぁ、くそ」
早々に二本飲み干し、三本目に手を伸ばそうとした時だった。
ふと、近くから視線を感じた。
「にゃー」
どこかで聞いた。
やけに人間臭く、わざとらしい鳴き声。
いつの間にか……少し離れた街路灯の下に、黒い猫がいた。
俺に気づいても、逃げるわけでもなく。
近づいてくるわけでもない。
ただじっと、こちらを見つめていた。
「……お前も一人か?」
あの少女と出会った夜のように、気づけばそんなことを口にした。
すると、黒猫はそうだ、とでもいうように。
ゆっくりと尻尾を揺らし。
またわざとらしく「にゃー」と鳴いた。
「ふっ、おいで」
手を伸ばせば、黒猫は自然と足元までやって来て。
俺は、そっと抱き上げる。
「にゃー」
「あぁ……そうだな、帰ろう。二人で」
俺の今までに、意味はないのかもしれない。
だけど、これからに、少しだけ意味を与える。
そのために、俺は彼女と一緒に、あの寂れた我が家に帰らなければならない。
次の更新予定
2025年12月30日 19:00
限界社畜、中年マギア〜契約完了から始まる奇妙な共同生活について〜 不死猫 @haruka163
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