第2話 家族になって。

「……おはよう、ございます」

 

 目を覚ますと————。

 

 そこに、いつもの見慣れた天井はなくて……知らない少女が、俺の顔を覗いていた。

 カーテンから零れる陽光を反射した、長く艶のある黒い髪が流れて落ちて、俺の頬をくすぐっている。

  

「……」

 俺は、そっと手を伸ばして、少女の髪を指ですく。

 さらさらと途切れることなく、少女の髪に指が通る感触がいつまでも、そこにある。

 

 この少女が誰なのか。

 いつもなら真っ先に浮かぶはずの疑問が——なぜか湧かない。

 でも、それでいい。

 どうせ夢だ。そう思うことにした。


 思考の外で、スマホのアラームが小さくなっている。


 起きなければ……起きて、会社に行かなければ。

 わかっているのに。

 とても心地よくて、ずっと、永遠にこのまま、こうしていたい……そう思えた。

 

「あの……くすぐったいです」

「ん?」


 少女が、くすぐったそうに身じろいだ。

 すると、隠れていた天井があらわになった。

 

 ……知ってる天井だ。

 

 いや、待った。何かがおかしい。

 俺は起き上がると、右を見て、左を見て、最後にもう一度右を見た。

 壁にかけられたグラビア女優のポスターに、投げられた黒のブリーフケース。

 机の上には、剣山のようになったタバコと灰皿、そしてお気に入りのマグカップが置いていた。

 

 うん、ここは俺の部屋だ。


「君……誰?」

 

 夢じゃないなら、この少女は一体誰なんだ?

 一瞬、妹が遊びに来たのかとも考えた。その方がまだ納得できたし、どれだけ良かったか。

 でも……顔はともかく、髪の色や服装、その他の全てが俺の記憶からかけ離れていた。

 

 この少女を俺は知らない。

 

 だけど、そんなことよりも……。

 今の俺にとって、何よりも、彼女を“俺が連れ込んだのか”、その一点だけが重要だった。

 どこからどう見ても彼女は未成年であり、俺はもう30近い中年男性。

 ……普通に犯罪だ。

 

 社会的死、という言葉が脳裏によぎり、

 頼むから泥棒であってくれと、心の底から祈った。


 一秒が一時間に感じられる地獄のような時間の中で、俺は少女の答えを待った。


 そして————ゆっくりと、少女は口を開いた。


「ライカ、猫屋敷ライカです。契約に従い、『家族』として、これからよろしくお願いします」


 契約? 家族?

 なんのこっちゃわからんが、怒っている感じはしない。

 とりあえず……すぐに通報されるなんてことはないだろう、と俺は一旦、胸を撫で下ろした。

 まぁ、警察に突き出すつもりなら、俺が寝ている間に呼ぶこともできただろうし。それをしなかったということは、他に意図があると考えるべきか。


「えっと……ライカさん、でいいのかな? まず聞きたいんだけど……君はどうしてここにいるのかな?」

「それは昨日、おじさ——お兄さんに、拾っていただいたので……」

「いや、おじさんでいいけど。それより、“拾った”ってなんの話?」


 聞き間違いだろうか。


「はい、昨日。————この段ボールに入っていた私を、おじさんが拾ってくれました」

 少女ーライカが玄関から段ボールを持って来た。

 側面には、『拾ってください』という文字。


 そこで、ようやく俺は思い出した。

 昨日、自分が何をやったのかを……。

 猫と人間を間違えた、自分の間抜けさを。


 あぁ、何をやってんだよ俺ぇ……。普通拾うか? 犬猫でもあるまいし

 まぁ、彼女には指一本触れていないみたいだし、そこ“だけ”は安心した。



「えっと……もしかして家出か? 家族が心配するだろうし……帰った方がいいんじゃないか?」

 というか、早く帰ってほしい。

 この状況、誘拐と取られかねんぞ……。

 

「いえ……家出じゃないです。帰る家、ないし」


 か細い声でそう言うと、ライカは悲しげに目を伏せた。

 複雑な家庭環境か、毒親か……彼女の抱える問題を推し量ることはできない。

 どんな言葉をかけるべきかもわからず、気まずい沈黙が流れた。

 だが最初にその沈黙を破ったのは、ライカの方だった。

 


「でも……おじさんと家族になりましたから、私にとって今はここが家です!」

「————え?」

「昨日、おじさんに『家族』になってと言ってもらえて。私、そんなこと言ってもらえたの初めてで、とても嬉しかったんです! だから張り切っちゃって、使い魔契約ファミリアじゃなくて魂縁契約エンゲージを————」

「ちょ、ちょっと待って……」


 聞き捨てならない彼女の言葉に、慌てて俺は話を折る。

 

「はい?」

「家族って……どう言うこと?」 

「えっと、ですから……昨日の夜に、おじさんに『家族』になって、と言われたので……」


 有無を言わせない俺の問いに、ライカはしどろもどろになりながら、昨日の出来事を話し始めた。

 

 俺は覚えていないが、彼女に「家族になって」なんていかにもプロポーズな言葉を吐いたらしい。

 想像するまでもなく、彼女の家庭環境は悪い。

 おそらく、親からの愛情だってまともに受けていないのかも知れない。


 そんな彼女にとって、寝言同然の俺の言葉は、初めて自分を受け入れてもらえたと感じたのかも知れない。


 当然、彼女のことなんて、俺は何も知らない。

 だけど、このまま冷たく突き放せば、俺は、“あいつ”と同じになってしまう。

 だから、少しくらいなら……彼女を受け入れてもいいと、心のどこかで思っていた。

 

 それでも————。


「家族って……そんな簡単に決めていい話じゃないだろ?」


 『家族』という言葉は、俺には重すぎる。

 その脆さを俺は痛いほど知っているから————。

 

 俺は、そんな彼女を簡単に受け入れることはできなかった。

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