背景
ポツポツと、「早く咲かないかな」と期待を焦らすように咲いていた花も、いつの間にか八分咲きになり、空を薄いピンクで埋めている。顔をこちらに向けて咲く桜は、「見て見て、綺麗でしょ」と口々に話しかけているようだ。
そこへ、風がやってきて、一枚一枚、自分の身体を飾り付けるようにして飛んでいく。
『Unleash Lab』へ向かう足は、そんな綺麗な桜をゆっくり眺めたい気持ちとは裏腹に、自然と早まっていく。
大学と同時に始めたクリーニング店の受付の仕事には、すっかり慣れていた。冬休みだからと、たくさんシフトを入れてもらった。
真冬の寒さの必需品だったコート類が役目を終え、次々とお店に持ち込まれるこの時期は、割と忙しい。
それでも、客足が途絶えると、一人、泣いている子供を想うようになった。
そうすると、「助けて」と言っているのは自分ではなく、子供なのだと、花村先生の言葉がよく理解できるようになった。それまでは、助けてほしいと願う声は、こんな状態の自分自身の声だと思っていたのだ。
泣き声は、去年の夏くらいから…いや、もしかすると、最初から聞こえていたのかもしれない。
秋田から大学のために上京し、一人暮らしを始めた為、ホームシックになっているんだと「大学あるあるね」なんて思っていた。
実際、大学が始まれば、学校と友達、バイトでなんとなく気持ちをごまかしながら過ごせていたのだろう。
けれど、去年の年末からは、泣き声が以前よりもうるさく響くようになった。
それでも何とか大学のテストを受け、いくつか単位は落としてしまったけれど、3年生への進級はできそうで、少しホッとしていた。
エメラルドグリーンのドアを開ける。
受付カウンターに向かって立っていた花村先生が振り返り、嬉しそうな顔で、
「眞子さん」
と、私の名前を呼んだ。
その手には、雑巾が握られていた。
誰もいない待合室。
それでもこれだけ明るい雰囲気なのは、花村先生がいるからなのかもしれない。
私は、今まで頭の中でごちゃごちゃと絡まっていた考えが一気にほどけ、静かな安心感に包まれていた。
私の視線は、花村先生の顔から、ふと手元の雑巾へと移る。
その視線に気づいた先生は、少し照れたように、
「……あっ、これ。ごめんなさい。今、手を洗ってきますね」
花村先生は、そのまま顔をカウンセラー室に向け、
「先に中に入って、ソファに座って待っていてくださいね。すぐ戻ります。」
私が頷くのを確認すると、トイレの方へ消えていった。
カウンセラー室の、座り心地のいいソファに腰を下ろすと、私は一度、深く息を吸い込んだ。
以前ここに足を踏み入れたときは、不信感や戸惑いで心が固くなり、身を守ることに必死だった。
その中で、唯一「大丈夫かもしれない」と思えたのは、部屋のあちこちで静かに呼吸している植物たちの存在だけだった。
(……前とは、見え方が違う)
そう思ったとき、パタパタと軽い足音が近づいてきた。
「お待たせしました。」
そう言って、花村先生はいつもの穏やかな笑顔を向けた。
「今日の飲み物は、何にしましょうか?」
「今日は……少し困惑しています。
前よりも、焦っているような感じがあって。」
「それなら、心を落ち着かせるハーブティーにしましょう。」
花村先生はそう言って、キャビネットの前に立った。
時々こちらを振り返りながら、茶葉の容器をひとつ、またひとつと選んでいく。
「ごめんなさい。今の眞子さんの状態に合わせると、以前お出ししたものと同じになってしまうんです。
せっかくなので、“状態”ではなく、“眞子さんらしさ”でお茶を選んでもいいですか?」
はにかんで笑う花村先生が可愛くて
「お願いします。」とつられて笑顔で答えた。
はにかんで笑う花村先生が可愛くて、
「お願いします」
と、つられて笑顔で答えた。
辺りに、どこか知っている香りが漂い出した。
「どうぞ。
嗅いだことのある匂いじゃないですか?
何のお茶か、当ててみてください。」
そう言って、花村先生はいたずらっ子のような顔をする。
本当に百面相だ。表情がころころと変わる。
リンゴの匂いだとは思っていたけれど、
一口飲んでから答え合わせをしてみる。
(……うん。やっぱり、リンゴだ。)
「リンゴ……ですか?」
「正解です。
アップルとカモミールを合わせてみました。
優しくて、可愛い香りですよね。眞子さんにぴったりです。」
その言葉で、身体だけでなく、心までもぽかぽかと温まった。
春の日差しに包まれているような、そんな優しさだった。
「そのまま、お召し上がりになりながら、
眞子さんの今の気持ちを聞かせていただいてもいいですか?」
「……はい。」
カップをソーサーに戻し、ゆっくりと息を吐く。
「あの後、子どものイメージをしてから、自分の中に話しかけてみました。
最初は、その子が泣いている姿だけが浮かんできていたんです。
でも、そのうちに、汚れた洋服や、壊れた建物まで見えるようになってきて……。
周りの建物はすべて壊れていて、ところどころで火が上がっています。」
そこまで話し、お茶で喉を潤した。
花村先生は、疑う様子もなく、ただ静かに耳を傾けてくれている。
(……これは、話したほうがいいことなのだろうか)
そう思って、言うべきか迷い、もじもじしていると、
「眞子さんご自身、行動に何か変化はありましたか?」
私の様子に気づいたように、先生がそっと声をかけてくれた。
「あの……ちょっと恥ずかしいんですけど……。
母に、とても会いたいと思うようになりました。
今すぐにでも実家に帰りたい。でも、バイトもあるし、すぐに帰れる距離でもなくて……」
「ご出身は、どちらですか?」
「秋田です。」
「それは、遠いですね。」
「はい。
せめて電話でも、と思ったんですけど……。
今の状態で連絡をしたら、母に心配をかけてしまうだけだと思って。
それを我慢していることが、一番つらいす。」
「優しいですね、眞子さん。
今はとてもつらい状況なのに、お母様のことをきちんと考えていらっしゃる。」
花村先生は、少し嬉しそうに微笑んだ。
「良かったです。
その優しい気持ちは、眞子さんを頼っている“その子”にも、ちゃんと伝わっていますよ。」
そして、少し間を置いてから、静かに続けた。
「……お母さんを、求めていたんですね。」
私は、息をのんだ。
「今のお話を聞く限りでは、おそらく戦火の中にいたのでしょう。
着ていたものが洋服だったということから、そんなに昔の時代ではないと思います。
戦争によって、母親とはぐれてしまったのかもしれません。
亡くなる直前まで、お母さんを探して、泣いていたのでしょうね。」
「そんな……。
でも、確かに……私が思い浮かべていた子どもと、同じだと思います。」
そう口にして、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
「……そっか。
私が母に会いたくて、帰りたいと思っていたわけじゃなかったんだ……。」
「はい。」
花村先生は、はっきりと、でも優しく頷いた。
「そして今、眞子さんが口にした『帰りたい』という言葉。
私は、とても大切だと思っています。」
先生は、ゆっくりと言葉を選ぶように続ける。
「『帰りたい』というのは、
家に帰りたい、という意味だけではありません。
――“天に還りたい”。
そこまで、その子の気持ちが動いた証拠なんです。」
(ありがとう。)
その言葉が、心の中でそっと弾けた。
自然と涙が流れ出す。
心の奥を、ゆっくりと溶かしていくように。
涙は、あとからあとから頬を伝い、
その流れに合わせるように、私は
「ありがとう」という言葉を、何度もこぼしていた。
花村先生は、そっとティッシュをテーブルの上に置いてくれた。
その動作以外の音は聞こえない。
ただ、涙が流れきるのを待ってくれているようだった。
顔を上げると、植物たちの緑が、いつもより鮮やかに見える。
「眞子さん、温かなハーブティーを淹れ直しますね。」
そう言うと花村先生は、冷めてしまったカップを手に取り、静かに席を立った。
辺りに、またリンゴの香りが濃く広がっていく。
「今度は、少しハチミツを足してみました。」
そう言って差し出されたハーブティーは、スイーツのように甘かった。
今まで泣き続けて疲れていた身体が、今は泣いたことで、むしろ軽くなっている。
「眞子さん。先ほど『ありがとう』という言葉を、何度も口にしていましたね。
あの言葉は、その子からあなたへ向けた感謝だったのだと思います。
……どうですか? まだ、泣き声は聞こえますか?」
花村先生は、そっと問いかけた。
(……聞こえない。
声は、もう聞こえてこない……。)
「聞こえません。先生……もしかして……」
「私自身に霊感があるわけではないので、見えるわけではありませんが……
成仏できたのだと思います。
眞子さん、あなたが助けてあげたんですよ。」
「……私が……?」
「はい。あなたの優しさが、あの子を救ったんです。」
「花村先生じゃなくて……?」
「私は、眞子さんの言葉を受け取って、二人の間をつないだだけです。
橋渡しをしたに過ぎません。」
「でも……やっぱり、花村先生のおかげです。ありがとうございました。」
「良かったですね。
今の眞子さんなら、お母様に心配をさせることはありませんよ。
ぜひ時間を作って、ご実家に元気な姿を見せに行ってあげてください。」
「……!
そうですね。そうします。」
「今日、帰ったら電話してみますね。」
そう言った斉藤さんの笑顔は、女子大生らしい希望に満ちたものだった。
今の桜のように、薄くピンクに染まった頬で、満開の花を咲かせていた。
——もう、散ることはないだろう。
エメラルドグリーンのドアを後にする彼女の後ろ姿に、そう確信した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます