北アルプスはプリンである~とぼける事、ほらを吹くことをもっともっと上手になりたい

御園しれどし

第1話:正直の惨めさ、正義の暴徒

 北アルプスの峰々が、神々の沈黙のように街を見下ろしている。


 長野県誠実市。


 雪を抱いた稜線りょうせんが青空を鮮やかに切り裂くそのふもとには、山々の悠久とは対照的な、息苦しいほどの規律に支配された場所があった。


 私立誠実至上主義学園。通称「セイジツ・ハイ」


 そこでは、自然の大きさなど忘れたかのように、人間たちが作り上げた「誠実」という名の細かな歯車が、一分の狂いもなく回転し続けている。


「おはようございます。今日も北アルプスのように揺るぎない誠実さを」生徒会副会長の阿保拓海あぼたくみは、校門で登校してくる生徒一人ひとりに、分規で測ったような完璧な角度の礼を返していた。


 彼の腕に巻かれたスマートウォッチ型の端末「セイジツ・トラッカー」が、神経を逆撫でするような無機質なビープ音と共に、液晶画面に『挨拶の質:優』という無味乾燥な文字列を映し出す。


 機械に自らの魂を値踏みされているような、ひやりとした疎外感。彼の誠実スコアに0.5ポイントという冷徹な数字が、逃れられぬ重石のように加算された。


(……死にたい)


 内心の呟きは、もちろんスコアには反映されない。拓海の父は教育課長、母はPTAの重鎮、祖父は元校長. 彼にとって「正直であること」は呼吸と同じ義務だった。だが、その呼吸は年々浅くなり、肺の奥が常に微かな酸欠状態にある。


「阿保副会長、背筋が0.3度曲がっていますよ。慢心は不誠実の始まりです」


 背後から声をかけてきたのは、生徒会長の正義誠せいぎまことだ。彼は今日も、糊の効きすぎた制服に、狂気を感じさせるほどの正義を宿して立っていた。


「失礼した、正義会長。以後、気をつけます」


 拓海は微笑む. その微笑みは、鏡の前で数千回練習した「誠実な優等生」の仮面だ。正直であることが、これほどまでに惨めで、哀れな芝居を強いるものだとは。


 その日の昼休み。拓海は耐えきれなくなり、立入禁止の屋上へと足を向けた。もちろん、GPSのログには「屋上の環境美化確認」というもっともらしい理由を書き込んで。重い鉄扉を開けると、そこには先客がいた。


「ねえ、知ってる? あの山、本当は昨日より3センチくらい右に移動したんだよ」


 フェンスに腰掛け、危なっかしい格好で北アルプスを眺めている少女。如月自由きさらぎみゆだ。彼女のセイジツ・トラッカーは、電池が切れているのか、あるいは壊したのか、画面が真っ暗なまま放置されている。


「……如月さん。ここは立入禁止だ。それに、山は移動しない」


「あら、拓海くん。上手にとぼけるのね。でもね、君の心は隠せていないよ。さっきからあっちの尾根からこっちの谷底へ、まるで迷子の風みたいに彷徨い続けてる。……ほら、今は『自分という重荷を捨てて、どこか遠くへ消えてしまいたい』って. 君の影が、はっきりとそう語っているの」


 自由みゆはふわりとフェンスから飛び降り、拓海の目の前に立った。彼女の瞳は、管理社会の淀んだ空気など一切吸っていないかのように、澄み渡っている。


「僕は、美化委員の仕事で……」


「嘘ばっかり。ほら吹くなら、もっと楽しいのにしてよ。例えば、『この屋上は実は巨大な蕎麦打ち台で、今夜ここで巨人が蕎麦を打つんだ』とかさ」


 拓海は絶句した。今まで出会ってきた人間は、皆「正しいこと」か「有益なこと」しか口にしなかった。


 とぼけることや、ほらをふくことが、これほどまでに軽やかに、世界の色を変えてしまうなんて。


「……君、不誠実だよ。そんなこと言っても、何の得にもならない」


「得? そんなの忘れたよ。怠けるのが上手になるとね、得とか損とか、どうでもよくなっちゃうの。拓海くんもこっちにおいでよ。自分のことを、自分の中で、こっそり楽しむための聖域に」


 自由の手が、拓海のポケットから覗いていた一冊のノートに伸びた。


「あ、返せ!」


 それは、拓海が夜な夜な書き溜めていた、支離滅裂な妄望と、下らない嘘の物語の断片だった。


 管理された『正義』や『誠実』という名の檻からこぼれ落ちた、行き場のない感情の集積。そこには、『北アルプスをプリンに変える魔法』や『名前を捨てて鳥になった少年の日記』など、稚拙ながらも切実な、夢を現実に、いつわりを信頼に変えようとする彼の渇望が綴られていた。


 彼の『本当の自分』が唯一呼吸できる場所。スコアのために捨てようとして、どうしても捨てられなかった、彼の恩愛の結晶だった。自由はノートをパラパラと捲り、北アルプスを背にして笑った。


「いいじゃない。これ、最高の『ほら』だよ。ねえ、悲しさを笑いに変える方法、教えてあげようか?」


 その瞬間、拓海の腕のトラッカーが、警告音を鳴らした。心拍数の急上昇。トラッカーから鳴り響く執拗な警告音は、彼をシステムに繋ぎ止めようとする虚妄の叫びのように聞こえた。


 しかし、その喧騒を突き抜けて、拓海は自分自身の鼓動を、誰のものでもない自分を、自分の中で感じ、いたわり始めた生命の本質として聞き取っていた。


 北アルプスの峰々が、午後の光を受けて白く輝いている。それは遠く、それでおいて驚くほど近くに感じられた。

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2025年12月27日 19:00
2025年12月28日 19:00
2025年12月29日 19:00

北アルプスはプリンである~とぼける事、ほらを吹くことをもっともっと上手になりたい 御園しれどし @misosiredosi

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