第七章:改変される年譜(クロノロジー)
二度目の跳躍は、一度目よりもずっと不安定で、暴力的なものだった。
目を開けると、僕はまたあの乾燥した空気の中にいた。だが、そこは僕の知っている一九七八年ではなかった。街の至る所に「村下冬樹、ノーベル文学賞受賞!」の古びたポスターが貼られ、人々はどこか生気のない顔で、完成されすぎた「完璧な日常」を消費していた。
僕は、かつて自分と春樹さんが共同執筆を行った場所——いまや聖地として観光地化されようとしている国分寺の街を走った。
「ピーター・キャット」の前に着いたとき、僕は言葉を失った。そこにあったのは、僕が知っている質素なジャズ喫茶ではなく、重厚な石造りの門構えを持つ「村上春樹・村下冬樹記念館」と化した建物だった。
「……こんなはずじゃなかった」
僕は記念館の奥、一般公開されていないはずの「店主の私室」へと潜り込んだ。警備の目を盗み、重い扉を開ける。そこには、かつてのカウンターを再現したデスクで、所在なげに古いペンを転がしている村上春樹がいた。
彼は僕を一目見るなり、驚くほど穏やかな、しかしどこか虚ろな瞳で微笑んだ。 「やあ、また会えたね、佐藤君。いや、今は村下冬樹先生と呼ぶべきかな」
「春樹さん、ごめんなさい。僕はとんでもない間違いを犯しました」 僕は彼の前に膝をついた。 「あなたは今、世界の頂点にいる。でも、この世界は死んでいる。あなたが書くはずだった、あの泥臭くて、救いがなくて、でも生きる力に満ちた物語たちが、どこにもないんだ」
春樹さんは、机の上に置かれた豪華な金のメダルを指先で弾いた。 「君の言う通りだよ。栄光を手に入れた瞬間、僕の中の『井戸』は埋まってしまった。書くべき飢えがないんだ。完璧な文章、完璧な賞、完璧な評価……それらは僕から、不完全であることの自由を奪ってしまった」
僕はポケットから、バッテリーの切れたiPhoneを取り出した。 「これを、もう一度動かさなきゃいけない。そして、今度は『正解』ではなく、『間違い』を書き込むんです。僕たちが共作した完璧な原稿を、全部台無しにするんです」
「台無しに?」
「ええ。あなたがノーベル賞を逃し、世間に嘲笑され、それでもなお書き続けずにはいられないような……そんな『呪い』をもう一度、あなたの魂に刻み直すんです」
春樹さんは一瞬だけ絶句し、それから低く、楽しそうに笑った。 「やれやれ。ノーベル賞を獲らせろとやってきた男が、今度はそれを奪い返そうと言うのか。相変わらず君は、僕に厳しい要求を突きつける」
彼は机の引き出しから、古いノートを取り出した。それは僕たちがかつて共同執筆した際に没にした、あまりにも「生々しすぎる」下書きだった。
「いいだろう。歴史の修復を始めよう。ただし、今度は君のiPhoneの中にあるデータは頼りにしない。僕たち自身の、不完全な記憶と言葉だけで、この『完璧すぎる世界』に風穴を開けるんだ」
僕たちは、かつて自分たちが築き上げた「村下冬樹」の神話を壊すための、最後にして最大の共作を開始した。それは、自らの名声を泥に塗るための、最も贅沢な「失敗作」を作る作業だった。
僕はiPhoneの充電器を探す必要がないことに気づいた。僕の心臓そのものが、この不完全な情熱そのものが、この世界を書き換えるためのエネルギーになっていたからだ。
「さあ、書こう。佐藤君。ストックホルムの連中が腰を抜かして、二度と僕の名前を呼びたくなくなるような、最高に不細工で、最高に愛おしい物語を」
窓の外では、完璧な一九八〇年代の夕暮れが、ゆっくりと崩壊し始めていた。
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