第六章:共同戦線、完璧な『ノルウェイの森』を求めて

意識が浮上したとき、僕は二〇二〇年代の自分の部屋のベッドに突っ伏していた。窓の外では、見慣れた、しかしどこか所在なげな現代の東京が、LEDの街灯に照らされて広がっている。


僕は慌ててポケットを探った。指先が冷たいチタンの筐体に触れる。iPhone 15 Proだ。画面をタップすると、バッテリー残量は一パーセント。最後の力を振り絞るように、画面が淡く発光した。僕は震える指でブラウザを開き、検索バーに「村上春樹」と打ち込んだ。


そこには、僕の知っている歴史とは全く異なる文字列が並んでいた。


『村上春樹(本名:村上春樹、ペンネーム:村下冬樹)。一九八〇年代、若干三十代にしてノーベル文学賞を受賞。「東洋の奇跡」と称される現代文学の王。受賞作『ノルウェイの森(完全版)』は、全世界で一億部を突破……』


僕は息を呑んだ。成功したのだ。彼はもはや「万年候補」などではない。教科書に載るような、生ける伝説として君臨している。


しかし、さらに読み進めるうちに、僕の胸に言いようのない違和感が広がった。 受賞後の彼の年譜が、僕の記憶にあるものと決定的に違っているのだ。ノーベル賞という「上がり」をあまりにも早く手に入れてしまった彼は、その後、僕の愛したあの数々の名作——『ねじまき鳥クロニクル』も『海辺のカフカ』も『1Q84』も——を、一行も書いていなかった。


代わりに年譜に記されていたのは、数々の名誉職への就任と、ストックホルムでの講演録、そして「完璧すぎて付け加えるものがない」と評された、初期三部作の再生産ばかりだった。


「そんな……」


僕は、あのジャズ喫茶の夜を思い出した。春樹さんは言っていた。「もし僕がその名誉を手に入れたら、僕は、そして文学はどう変質してしまうんだろうね」と。 ハングリーさを失い、書くべき「欠落」を名誉で埋めてしまった彼は、それ以上の深淵へ降りる必要を失ってしまったのかもしれない。僕が与えた「成功」は、彼の作家としての野性を去勢してしまったのではないか。


僕は絶望に近い気持ちで、部屋の隅にある本棚に目をやった。 そこには、僕の記憶にある「村上春樹全集」ではなく、装丁の豪華な「ノーベル賞作家・村下冬樹全集」が鎮座していた。僕はその第一巻を手に取った。タイトルは『風の歌を聴け』。


パラパラとページをめくる。そこにあるのは、僕がiPhoneから書き写したはずの、あの完璧な文章だ。しかし、あとがきを開いた瞬間、僕の指が止まった。


そこには、僕の知らない一節が書き加えられていた。


「……この物語を書き終えたとき、僕の隣には一人の奇妙な友人がいた。彼は未来の風をポケットに入れて持ち込み、僕にストックホルムの冬の寒さを教えてくれた。彼がいなければ、僕はもっと長く、もっと暗い道を歩んでいただろう。しかし時折、僕は思うのだ。もしあの夜、彼が店に来なければ、僕は今も、誰も知らない井戸の底で、もっと恐ろしい、もっと美しい、本物の化け物のような物語を書き続けていたのではないか、と。 親愛なる友人、村下冬樹(あるいは別の名前を持つ君)へ。君がくれた栄光は、僕にとって重すぎる外套だったよ」


僕は本を抱きしめたまま、床に崩れ落ちた。 僕が救いたかったのは、彼の名誉だったのか、それとも僕の「推しが馬鹿にされるのを見たくない」という独りよがりのプライドだったのか。


その時、iPhoneが最後の一震いをして、完全に沈黙した。 僕は暗くなった画面を見つめながら、ある決意を固めた。


歴史はまだ、書き換えられるはずだ。 僕は部屋を飛び出した。今度は聖地巡礼などではない。一%の充電すら残っていないこのiPhoneを、もう一度「1978年の国分寺」へ届ける方法を探さなければならない。


今度は、彼にノーベル賞を獲らせるためじゃない。 彼に「最高の落選」と、そこから生まれる「果てしない渇き」を取り戻させるために。


「待っていてください、春樹さん」


僕は夜の街を走り出した。風は、一九七八年のあの夜と同じ、乾いた匂いがした。

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