第八章:ねじまき鳥の失踪、あるいは歴史の反撃
僕たちが始めたのは、文字通り「神殺し」の作業だった。すでに神格化され、非の打ち所がないとされていた「村下冬樹」の文学世界。そこに、あえて不純物を混ぜ、調和を乱し、美しく整えられた庭園に野良犬を放つような原稿を書き進めた。
「ここに、どうしても説明のつかない不条理な暴力が必要だ」と春樹さんは言った。彼の目は、あの記念館で虚空を見つめていた時とは見違えるほど、鋭い光を取り戻していた。「未来のデータにある『ねじまき鳥』は洗練されすぎている。もっと、こう、内臓を引きずり出すような、整合性の取れない痛みが必要なんだ」
僕たちは、iPhoneの中に記録された「正解としての名作」をあえて裏切り続けた。村上春樹が本来持っていた、あの掴みどころのない闇を、より深く、より混沌とした形で原稿用紙に叩きつけた。
しかし、僕たちが歴史を「改悪」し始めた瞬間、世界が明白な拒絶反応を示し始めた。
最初は、物理的な違和感だった。執筆している部屋の壁に、身に覚えのないひび割れが走り、そこから正体不明の「しずく」が滴り始めた。国分寺の街を歩けば、通行人たちが一斉に足を止め、表情を失った顔で僕たちを凝視する。まるで、システムのバグを排除しようとするプログラムのように。
「佐藤君、見てごらん」
春樹さんが窓の外を指差した。空の色が、僕の知っているどの時代とも違う、くすんだ鉛色に変色していた。本来なら一九八〇年代の好景気に沸いているはずの街並みが、蜃気楼のように揺らぎ、時折、別の時代の景色——廃墟となった現代や、見たこともない近未来——が重なり合って見える。
「歴史の整合性が取れなくなっているんだ。僕たちが『成功した未来』を否定したせいで、時間の流れが逃げ場を失っている」
そして、ついに「彼ら」が現れた。 それは、かつての作品群に登場した「羊男」や「綿渡り」のような姿をしていたが、もっと無機質で、冷徹な存在だった。彼らは記念館の重い扉を音もなく開け、僕たちの執筆を阻もうと、書きかけの原稿に手を伸ばした。
「ここにあるべきなのは、完璧な秩序だ」と、顔のない影たちが囁く。「人々に安らぎと教養を与える、完成されたノーベル賞文学だ。それを汚すことは許されない」
僕は、バッテリーの切れたiPhoneを武器のように握りしめた。 「うるさい! 完璧な文学なんて、剥製と同じだ。僕が見たいのは、毎年毎年、答えの出ない問いに悩み、それでもなお井戸の底を掘り続ける、不完全なこの男の姿なんだ!」
僕は影たちに向かって、書きなぐったばかりの不完全な原稿を投げつけた。 文字が空中で光を放ち、影たちの体を焼き切った。僕たちが生み出した「生の言葉」は、システムが用意した「記号」を破壊する力を持っていた。
春樹さんは、その混乱の中で平然とペンを動かし続けていた。 「やれやれ。これほど激しい批評(レビュー)は初めてだよ。でも、おかげで確信が持てた。僕たちが今書いているものには、血が通っている。歴史がこれほど嫌がるのなら、それは本物の毒であり、本物の薬だということだ」
iPhoneの黒い画面に、一瞬だけノイズが走った。充電はされていないはずなのに、そこには「Error: Reality Not Found」という文字が浮かび上がっている。
「佐藤君、あと少しだ」と春樹さんが言った。「この物語の結末を、わざと不透明なものにする。読者が読み終えたあと、途方に暮れて、人生に空いた穴を必死で埋めようとするような、そんな最悪で最高の結末だ。そうすれば、ノーベル賞のアカデミーは僕たちを放り出すだろう」
僕は頷いた。 周囲の壁は剥がれ落ち、世界は急速に分解されようとしている。僕たちは、崩れゆく現実の真ん中で、ただ一行の「救いのない一文」を書き上げるために、魂を削り続けた。
歴史の反撃は、もはや嵐のような怒号となって僕たちを襲っていたが、春樹さんの筆先だけは、かつてないほど自由に、そして軽やかに踊っていた。
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