第3章 マジックファンデーション
翌朝、私は奈子の来るのを教室で今か今かと待ちわびていた。
クラスに奈子が入ってくると、机にぶつかりながら近づいて言った。
「奈子、ちょっと今日、二人きりで話せる?」
「いいよ、もう授業始まっちゃうから、次の休み時間でいい?」
「もちろん」
授業はちっとも耳に入ってこなかった。それどころじゃなかった。私は、少し自分を見失っているようだった。自分では気づいてなかったけど。
もうマジックファンデーションの魔法にかかってるみたいだった。
渡り廊下の真ん中で、私は奈子に、マジックファンデーションがどんなに素晴らしい商品かを力説した。
奈子は、私の話を聞き終えると、静かにうなずいた。
「キンコーン、カンコーン」
私が力説したせいで、休み時間の終わりの鐘が鳴った。
「テク、あとでね。走って教室帰ろ」
「うん」
私は、奈子の反応にがっかりした。もっと違う反応を期待していた。もっと私と一緒になってキラキラした目で見てくれると思ってた。期待よりずっと反応が鈍い気がした。
結局、先生に用事を頼まれたり、授業が長引いたりして、奈子とは昼休みまで二人で話す時間が持てなかった。
昼休みになると、私はお弁当を持って、奈子と向き合って座った。
そして、勇気を出して、こう私は奈子に切り出した。
「奈子、一緒にマジックファンデーションを使って、買い物に出かけない?」
奈子はとても悲しそうな顔をして言った。
「テク、ごめん。あたしに必要ない。あたし使わない」
気まずい空気が流れた。
私も暗い顔になり、下を向いてしまった。
一緒に使ってくれなくちゃ嫌だなんて言えそうにない。ちゃんと奈子の意志を尊重できる友達でいたい。私の本音を伝えられない性分は、こういうときに一押しができない。押しが弱い。落ち込んだけど、奈子には奈子の考えがあるのだろうと諦めた。
私は、奈子とマジックファンデーションぐらいのことで友達をやめたくない。
だから、立ち直りの早い私は、すぐ別の話題で場の空気を良くしようとした。
「奈子、今日、時間ある?」
「あるけど、マジックファンデーションには関わらないからね」
ダメ押しで断れた。私も苦笑いだった。二人の絆は揺るがない。
「売ってる化粧品見たいから付き合って。付き合ってくれたら、お返しにお好み焼きおどる」
「それならいいよ。あそこの店でしょ」
「うん。ヤミノコナの五百円お好み焼きだよ」
「安いよね」
「まだ値上がりしてないといいけど。あの店の噂知ってる?」
「なに?」
「ママが、あそこは、昔、闇の音という漢字の店だったって。二十年前からあるらしいよ。店長が、占い師なんだって」
「ほんと?」
「ママは、いい加減だから、名前まで発明している可能性はある」
奈子に笑顔が戻ってきた。いつも通りのくだらない話を意識的に私は選んだ。
化粧売り場では、自分用のビューラーが欲しかったのだが、どれがいいかとか、店員さんに話しかけられるのは苦手だった。
根暗で、内気な小心者の私は、一人で化粧道具も買えないのだ。
でも、化粧って何のためにするんだろう。
私がいて、それを見ている人がいて、きっと毎日起きてから化粧する人は、一人暮らしで誰にも会わなくてもする。見えない人の目というものが、ひとりひとりにくっついて見ているイメージなのだろうか。
誰かの目。私を見ている世間。私を見ている他人。
容姿を気にするひとは、誰の目を価値の照準と定めているのだろう。
ヤミノコナで席に着き、ちょっと怖そうなつるつる頭の店主に、メニューを渡されると、もう頼むものは決まっているというのに、奈子は、隅から隅までメニューを見ている。
「奈子、もう頼むの決まってるよね?」
「決まってるけど、この間来たときと変わってるかもしれないじゃない?」
「そうなの?」
「わからないじゃない。ちょっと待って」
しばらく奈子がメニューを見終わるのを待った。
「テク、決めた。五百円のお好み焼きにする」
「だから、最初からそれしかおごる気ないよ」
「そう?」
奈子は、やっと私の目を真正面から見た。
店主が、カウンターの鉄板で焼いた五百円のお好み焼きが運ばれてきて、食べ始めると、
「おいしいもの食べているときが一番幸せ~」
と奈子が嬉しそうで、私も、それを聞いて、
「うん。幸せ~」
と言いながら、また水を飲みながら、くだらない話をして、2枚の五百円お好み焼きをたいらげた。
私はそれから一人で鏡の前で自分の姿をまじまじと見つめながら、マジックファンデーションと向き合っていた。
使うべきか。使わないべきか。
興奮して、我を忘れそうになっていた私だったが、奈子から使用を拒否されたことで、少し冷静に考えるようになっていた。
マジックファンデーションに対する恐れが私の中に芽生えつつあった。
どうとは言えないけど、危険な予感がした。
ほんとうに私の世界を変えてしまうんじゃないかと。
三月にママからマジックファンでショーンをもらってから、夏になるまで、マジックファンデーションとビューラーは、勉強机の一番上の引き出しにしまっておいた。
あっという間に夏になった。
夏休みの最初の方は、奈子とカラオケ行ったり、ファーストフードで時間をつぶしたり、ヤミノコナで食べすぎたりしていた。
お盆になると、奈子は、秋田の祖母の家に帰省してしまって、私は一人で残されて、暇を持て余していた。
大学までエスカレートで進学できる高校なので、発明品の取り扱い説明書を書く以外にすることがなかった。
ママは、毎日、暇そうにしている私を見て、私を花火大会に誘った。
「テク、今日は、マジックファンデーションを使ってみたら?」
なかなか試さないから、ママは気にしてたのかもしれない、と思う。
ママの助けを借りながら、化粧台の前で、メイクした。
五分経ち、体重計に乗ると、二十キロ痩せていた。自力でもらったときから二キロ減っていたので、全部で二十二キロ痩せたことになる。
下あごのたるみも、お腹のたるみも消えていた。ふくらはぎは、ぷるぷるしてた。
「我が娘ながら、キレイよ」
ママはとても満足そうだった。ママに浴衣も着付けしてもらった。
ママも浴衣に着替え、二人で花火大会へと向かった。
「何年ぶりかしらね。テクと花火を見に行くのは。テクが混んでるのがめんどくさいとか。ゲームで忙しいとか。いつもママを無視するから」
「そんなことないじゃん。ママを無視なんかしてないよ。ママも研究で忙しかったじゃん」
「もうわかったわ。一緒に来れて嬉しいわ。ママは嬉しいのよ」
私は、「私も嬉しいよ」の一言が出かかったけど、結局言えなかった。
花火が打ち上げられる前に、私は子供の頃から屋台の中で一番大好きな「チリチリポテト」のお店を見つけてしまって、テンションが上がってしまった。ジグザグに揚げたポテトに青唐辛子、チリペッパーなどオリジナルのスパイスがからめてあって、食べると全身から汗が噴き出すのだ。あたしは、さらにママ特製のどくろソースをかけて食べるのが、大好きな食べ方だった。ママのどくろソースは、あたしの鞄に常に入っている。チリチリポテトの屋台の前から動かないあたしを見て、ママは言った。
「今日はやめておかない?」
「えー、チリチリポテト食べたい」
ママの忠告も聞かずに、あたしは欲望のままに、チリチリポテトの列に並んでいた。揚げたてのチリチリポテトをあつあつの状態で、口に頬張った。案の定、すぐに汗が噴き出してきて、汗だくになった。すると、段々にマジックファンデーションが落ちてしまった。
「ママ、トイレに行って、お化粧直してくるね」
と言って、あたしはすぐにトイレを探しに行った。しかし、大きな花火大会なので、トイレがどこに行っても、長い行列が出来ていて、すぐには入れなかった。
ちゃんと予備のマジックファンデーションを持って行ったのだが、さすがに人前で、身体が変化するところを見せるわけにもいかず、やっぱり家に帰るしかないと分かったとき、ママは、とてもがっかりしていて、寂しそうで、悲しそうな顔していた。
「ママはね、テクと花火が見たかった」
私は、本当に申し訳ない気持ちになった。あたしも物凄くママと花火が見たかった。
「ママ、ごめんね」
私の失敗だった。後先考えない行動を反省した。欲望を抑えられなかったこととママの気持ちを考えられなかったことの二つで落ち込んだ。ママが、私が落ち込んでるのを感じ取ったのかもう一度こう言った。
「ママはね、テクと花火が見たかっただけなの」
私は、家に帰って、真っ先にマジックファンデーションの注意事項のところに、
「注意。必ず汗をかきそうなときは、すぐに使える化粧室を確保してから、使うこと。汗をかいたら、すぐ化粧を直すこと」
と書いた。
どんな場面で、どんな不具合が出るのか。使いながら、一つ一つ検証していく。
私はママの期待に応えるために、マジックファンデーションの説明書を書くために使用することを決意した。
自分の世界から飛び出すときに、必要なものってなんだろう。私は、マジックファンデーションを持っても、なかなか一歩を踏み出せずにいた。それでも頭の中は、魅惑的なマジックファンデーションにとらわれていた。ママの期待にも応えたい。今ではすっかりトレードマークになっているメガネは、万が一元の姿に戻ってしまっても、知り合いにバレないようにはずして出かけた。
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