第15話「第三の選択肢(交換ではなく“分担”)」

 停電の前触れみたいな暗さが、ずっと校舎に残っていた。

 蛍光灯は点いている。点いているのに、白が薄い。薄い白の下で、物の輪郭だけが妙にくっきりしている。机の角、ドアの取っ手、掲示物の紙の端。輪郭が立つほど、影が遅れる。

 影が遅れるのは、縫い目が引っ張られているからだ。

 放送室で「縫合開始」という声を聞いてから、空気の癖が変わった。音が途中で欠ける。足音の最後の一粒が消える。誰かが咳をしても、咳の湿り気が残らない。教室のざわめきが、遠い海の音みたいに平らになる。

 俺の右目は、その平らさを受け止めすぎている。

 視界の端が、薄く欠けた。

 欠け方は黒じゃない。白い。白い欠けは、紙を白く塗りつぶしたみたいに視界を奪う。白いのに眩しくない。眩しくない白は、終わりの色だ。

 瞬きをしても戻らない。

 瞬きをすると、まぶたの裏に糸が走る。細い黒い糸が、目の裏側を縫うみたいに走って、痛みになる。痛みは鋭くない。擦れる。記憶を削って上書きする摩擦の痛みだと、校医は言った。

 右目の縁が熱い。

 熱いのに、頬に汗は出ない。汗が出る前の乾いた熱だ。乾いた熱は、喉を渇かせる。

 喉が渇くと、言葉が少なくなる。

 少ない言葉だけで、今日を越えなきゃいけない。

 保健室の前の廊下。

 カーテンが閉まっていて、ガラス窓の向こうが見えない。見えないのに、気配だけはある。匂いがある。消毒液と、焦げの匂い。焦げの匂いが薄いほど、今は現実寄りだ。濃いほど、崩壊に近い。

 俺はドアノブに触れた。

 金属が冷たい。冷たさが指先に張りつく。張りつく冷たさは、現実の感触だ。現実の感触がある間は、まだ縫い目は裂けきっていない。

 ドアを開けると、彼女がいた。

 ベッドに腰掛けて、右手の手袋を押さえている。押さえている手が震えているわけじゃない。震えていないのに、布が擦れる音がする。擦れる音は、内側が動いている証拠だ。

 彼女の左手首に、体温計のバンドが巻かれている。数字は見えない。見えないのに、熱があるのは分かる。熱は空気の密度で分かる。近づくほど、空気が少しだけ重い。

 彼女は顔を上げた。

 笑っていない。

 笑わない方がいいと知ってしまったから。

 笑うと解除が進む。解除が進むと、世界が欠ける。欠けたところに誰かが落ちる。落ちた音が途中で消える。消える音の空白を、俺の右目が拾う。

 拾うほど白濁が進む。

 俺は彼女の隣には座らなかった。

 距離を一つだけ残す。残した距離が、今の俺の安全装置だ。近づけば触れる。触れれば脈動が弱まることもある。弱まるのは事実だ。でも、それは次の依存を作る。依存ができると、敵に切られる糸が増える。

 校医は机に向かっていた。

 カルテの紙をめくる音が、やけに大きい。紙の繊維が擦れる音が、耳に刺さる。刺さる音の隙間に、ノイズが入る。

 ジ。

 それだけで喉が締まる。

 校医は振り返らないまま言った。

「右眼、見え方は」

「端が白い」

 短く答えると、舌が乾いて紙に貼りつく感じがした。貼りつく感覚が、少し遅れてくる。遅れは縫い目の歪みだ。

 校医が頷く気配だけを出した。

「白濁が進んでる。代替弁の実験の後遺症だ」

 後遺症、と言われて、俺の右目の奥がひくりと痛んだ。痛みがひくりとしたのは、言葉が鍵になったからだ。鍵になる言葉は、装置に拾われやすい。

 会長が、窓際に立っていた。

 背中が真っ直ぐだ。真っ直ぐな背中は、迷っていないように見える。迷っていない背中ほど、怖い。

 会長はこっちを見ず、窓の外の校庭を見たまま言った。

「時間はほとんど残ってない」

 放送室の装置。黒い箱。円の刻印。糸。

 あれが縫い目の中心だとしても、縫い目は学園全体に広がっている。広がった糸は、いま張り詰めている。張り詰めている糸は切れやすい。切れたら裂け目が開く。

 会長が続ける。

「敵の本隊が校内に入った。縫合の糸を辿れば分かる」

 俺の右目が、机の端から端へ走る糸の幻を見た。幻はすぐ消えた。消えた後に白が残る。白が残ると、視界の端がさらに欠ける。

 俺は唇を舐めた。舌が乾いていて、唇の塩が濃い。汗が出ていないのに塩が濃いのは、内側が熱いからだ。

 彼女が、息を吐く。

 吐く息が細い。細い息は、笑いを抑えている証拠だ。抑えれば抑えるほど、器の内圧が上がる。内圧が上がるほど、刻印は熱くなる。

 彼女の手袋の縫い目が、汗で暗くなっていた。

 汗が冷える。冷えた汗は、皮膚を痛ませる。痛みが次の笑いを呼ぶ。笑いが解除を呼ぶ。

 循環だ。

 循環を断つ手が必要だ。

 校医がようやく椅子を回した。

 視線が俺の右目に向く。次に、彼女の右手に向く。視線が行き来するだけで、机の上の空気が少しだけ揺れた。揺れが糸を揺らす。糸が揺れると、放送のノイズが遠くで鳴る。

 校医は言った。

「器は限界に近い。笑いで抑制しながら、同時に解除が進む。笑えば世界が欠ける。笑わなければ内圧で破裂する」

 彼女の肩が、わずかに落ちた。

 落ちた肩は、諦めの形に見える。でも諦めの温度じゃない。温度がある。温度があるのは、まだ何かを選べるからだ。

 会長が、二択を提示する声で言った。

「選択は二つだ」

 言い方が淡々としている。淡々としているほど、そこに人がいない。管理の声だ。

「A。器を殺す。縫い目は保たれる。世界は救われる」

 彼女の指が手袋の上で止まった。

 止まった指先が白い。血が引いている。引いた血が戻らない。戻らない血の冷たさが、部屋の空気を冷やす。

 会長が続ける。

「B。鍵が全てを引き受ける。器は救われる。世界は保たれる可能性が高い」

 俺の右目が熱くなった。

 熱くなったのは怒りじゃない。負荷の予感だ。引き受けるという単語が、すでに俺の右目を削り始める。削り始めると白濁が進む。白濁が進むと、俺が先に終わる。

 終わった俺を残して、次の世界に行っても意味がない。

 俺は息を吸った。

 吸う息が喉に引っかかる。引っかかりは、言葉が縛られている証拠だ。縛られているなら、言葉を短くする。

「どっちも嫌だ」

 会長が、初めて俺を見る。

 目が細い。細い目は計算の目だ。計算の目は、感情を切り捨てて最短に行こうとする。

「嫌かどうかは関係ない」

 会長の声は変わらない。

 変わらない声が、彼女の耳に刺さる。刺さった声の先で、彼女の口角が動く。動きが笑いの形に近づく。近づくと解除が始まる。

 俺は彼女の視線を逸らした。

 言葉ではなく、動きで。

 俺は一歩だけ近づいて、彼女の左手の近くに手を置いた。触れない。触れない距離で、存在だけを置く。存在があると、彼女は笑いに逃げなくて済むことがある。

 彼女の呼吸が、ほんの少しだけ整った。

 整う呼吸の合間に、放送のノイズが遠くで鳴る。

 ジ。

 ジ。

 規則的。

 規則的なノイズの背後で、糸が張っているのが分かる。糸が張るのは、誰かが縫合装置を操作しているからだ。敵か、管理側か。どちらでも、糸の負担は増える。

 増える負担を、二人のどちらかが全部引き受けるのは破綻だ。

 破綻する前に、別の形が必要だ。

 俺の右目の白濁が、視界の端で揺れた。

 揺れが、ふと“糸の揺れ”と同期した。同期する瞬間がある。瞬間だけなら、右目は糸を見られる。見られるということは、触れられる可能性がある。

 触れられるなら、切らなくてもいい。

 握れる。

 握って、流す。

 流す先が必要だ。流す先を一つにするから破綻する。なら、流す先を二つにする。

 俺の中で形ができた。

 形は言葉にならない。言葉になる前に、行動の手順になる。

 俺は校医を見る。

「縫合の糸は、器が握ってるんだよな」

 校医は眉を動かした。答えるか迷う仕草だ。迷う仕草は管理側の癖じゃない。人の癖だ。

「器は、縫い目に繋がっている。直接握っているわけじゃない。器が暴走すると、縫い目が裂ける。つまり器が張力の中心になる」

 中心。

 中心に負荷が集まる。

 中心を二つに分ければいい。

 会長が口を挟む。

「無駄な思考だ。今ここで新しい理論を組む時間はない」

 俺は会長を見ない。

 見ないで言う。

「理論じゃない。手順だ」

 会長が黙る。

 黙った隙に、俺は彼女を見る。

 彼女の目は乾いている。涙が出る前の乾きだ。乾きがあるのに、まつげの根元が湿っている。湿り気は、笑いを我慢している証拠だ。

 彼女は笑わない。

 笑えない。

 笑わないほど、刻印は熱くなる。

 俺は言う。

「交換じゃなくて、分担にする」

 彼女の瞳が揺れた。

 揺れは期待じゃない。理解しようとする揺れだ。理解しようとするなら、まだ選べる。

 会長が言った。

「分担?」

 声が少しだけ低くなった。低くなるのは興味だ。興味が出るのは、計算が変わる可能性があるからだ。

 俺は右目の痛みを無視して、言葉を並べた。

 並べすぎない。短く、骨だけ。

「縫合の糸を、二人で握る。器と俺の右眼で」

 校医が息を呑む音がした。

 小さい音なのに、やけに大きい。大きい音の後に、ノイズが入る。ジ。糸が張る。

 会長は首を少しだけ傾ける。

「それはBの変形だ。鍵が引き受けるなら同じ」

「全部は引き受けない」

 俺ははっきり言った。

 はっきり言うと喉が痛い。痛みが来る前に続ける。

「器が内圧を全部抱えるから破裂する。俺が全部抱えるから白濁する。なら、流す。溢れを、二人で流す」

 流す。

 流す先は縫い目だ。縫い目は糸だ。糸は世界線の継ぎ目だ。継ぎ目は縫われることで保たれる。

 だったら、溢れを“縫う側”に回せばいい。

 器の中で爆発しないように。

 俺の目の中で燃え尽きないように。

 校医が言った。

「理屈は……筋がある。ただし条件がある」

 条件。

 条件は手順になる。

 俺は頷かず、視線だけを校医に向けた。

 校医は続ける。

「二人が同期しないと、糸は握れない。同期できないと、溢れが片方に偏る。偏ったら破綻する」

 同期。

 この言葉は嫌いだ。装置に拾われる。拾われると、誰かに操作される。

 でも、同期は現象として起きている。俺の右目と糸が、一瞬だけ同じ揺れ方をした。あれが同期の芽だ。

 校医は具体的に言った。

「心拍。呼吸。接触。言葉の一致。体が同じリズムを刻む必要がある」

 彼女が、手袋の上から右手首を押さえた。

 押さえる力が少しだけ弱い。弱くなるのは、言葉が怖いからだ。怖いと言わない。怖いのに、呼吸が浅い。浅い呼吸が、彼女の胸を少しだけ上げる。

 俺の胸も同じ高さで上下する。

 合わせようとしているわけじゃない。

 合わせるしかない。

 会長が冷たく言った。

「それは感情論だ。そんなものに世界線縫合を任せる気か」

「感情じゃない」

 俺は言った。

「手順だ」

 言い切った瞬間、右目の奥がきしんだ。白濁が増える。増えた白の向こうで、糸が見える。糸が見えるのは右目だけだ。

 糸は机の下から伸びている。伸びて、壁を抜けている。抜けていく糸の先が、放送室の黒い箱に繋がっている気がする。

 俺はその糸に、意識で触れた。

 触れた瞬間、視界が白くなる。白の中に、静かな終わり方の映像が挟まる。俺が彼女を守る決断をして、彼女が泣いて、世界が白くなる。あの第四の欠片。

 白い映像が消えた後、現実が戻る。

 戻ると、吐き気が来た。

 胃がひっくり返る前に、俺は机の端を掴んだ。掴んだ木のざらつきが指先に刺さる。刺さりが現実だ。現実に戻っておかないと、白に飲まれる。

 校医が言う。

「今やっただろ。糸に触れた。右眼が鍵になる」

 会長が、ほんの少しだけ目を細めた。

 細めた目は、計算の更新だ。

「だとしても、器の側が持つべき負荷は重い。器は限界だ」

 彼女が、やっと口を開いた。

 声は小さい。

「私が……笑えば、早い」

 笑えば早い。

 それは解除を進めるという意味だ。解除が進めば、敵は回収しやすい。縫い目が裂ければ、管理側は器を殺しやすい。つまり、笑いは誰にとっても都合がいい。彼女にとってだけ、楽になる。楽になるから危険だ。

 俺は首を振らない。

 首を振ると否定になる。否定は言葉だ。言葉は鍵になる。

 俺はただ、彼女の左手の近くに置いた手を、少しだけ近づけた。

 触れない距離を、触れる距離に変える直前。

 彼女が、息を吸って止めた。

 止めた息の中に、笑いが引っかかる。引っかかった笑いが消える。

 俺は言った。

「一人で背負うな」

 短い。

 彼女の目が揺れる。

 揺れの中に、熱がある。

 俺は続ける。

「俺も背負う。でも、全部は背負わない」

 その瞬間、彼女の呼吸がほどけた。

 ほどけた呼吸は、笑いじゃない。笑いの代わりに出た呼吸だ。呼吸が出ると、刻印の脈動がほんの少しだけ弱まる。弱まると、手袋の布が擦れる音が静かになる。

 静かになると、部屋の空気が少しだけ軽くなる。

 軽くなった空気の中で、俺の右目の白濁が、わずかに引いた。

 引くのは、負荷が一瞬だけ分散したからだ。

 分散できる。

 それが確信になる前に、会長が遮った。

「甘い」

 会長の声は冷たい。

「感情に寄せるな。同期は脆い。揺れれば偏る」

 校医が会長を見た。

 珍しい。校医が会長に視線を向けるのは、危険のサインだ。

「会長。二択を提示したのはあなたでしょう」

 会長の眉が動く。

 校医は続ける。

「その二択はどちらも破綻が見える。器を殺せば縫い目は保たれるが、器がいない世界線の縫合は長持ちしない可能性がある。鍵が全てを引き受ければ、その鍵が壊れた時点で縫合は終わる」

 会長の目が、ほんの少しだけ揺れた。

 揺れは否定じゃない。認めたくない真実の揺れだ。

 校医は、俺を見る。

「分担は現実的だ。器が持つべき負荷と、鍵が持つべき負荷を、糸に流す。糸が保てる限界はあるが、今のままよりは確率が上がる」

 確率。

 会長の言葉に近い言葉が出た。確率が上がる、という理屈なら会長は動く。

 会長は短く言った。

「実装条件を言え」

 俺は校医を見る。校医は頷いた。

「同期手順を固定化する。再現性が必要だ」

 再現性。

 それはつまり、合図だ。

 合図はシリーズの記号になる。漫画でもドラマでも、毎回同じ手順が出せる。手順が出れば、見せ場になる。見せ場になれば観客は覚える。覚えれば次の回へ引っ張れる。

 俺は頭の中で、手順を組んだ。

 長くはしない。必要最小限で、体が覚える形にする。

 心拍。

 呼吸。

 接触。

 言葉。

 言葉は短く。誰でも言える短い言葉。言い方が鍵になる。鍵にするなら、固定する。

 固定する言葉は、危険でもある。でも危険は避けられない。危険を手順で飼いならすしかない。

 俺は彼女を見る。

 彼女は俺を見ていない。俺の手を見ている。触れる直前の距離の手。

 彼女の目に、光が戻るわけじゃない。戻るのは温度だ。温度が少しだけ戻る。

 俺は言った。

「試す」

 校医が言う。

「今ここでやるのは危険だ。敵が近い」

 会長が窓の外を見て言う。

「敵はすでに校内にいる。停電が来る」

 停電。

 停電すると、放送装置の電源が落ちるのか。落ちるなら好都合だ。でも装置は電源だけで動いているとは思えない。あの黒い箱は、電気の匂いじゃなかった。もっと別の匂いだ。焦げた紙の匂いに近かった。

 つまり、停電は敵の合図だ。

 敵が動く合図。

 会長が続ける。

「停電の瞬間、縫合の糸が緩む可能性がある。緩んだ瞬間に分担を成立させろ。成立しなければ、裂け目が開く」

 彼女が息を飲む。

 息を飲むと笑いの代わりになる。笑いが出ない。いい。

 俺は、彼女の右手を見た。

 手袋の布の下で、光が微かに漏れている。漏れは熱だ。熱は内圧だ。内圧は限界だ。

 俺は言った。

「同期の合図は、俺が出す」

 会長が言う。

「合図とは」

 俺は短く言った。

「言葉と、触れ方」

 校医が補足する。

「心拍と呼吸の合わせ方もだ。息を二回。吐いて吸って、吐いて吸う。二回目の吸い終わりで接触。言葉はその直後に固定」

 固定。

 固定された手順は、脳が覚える。脳が覚えれば、恐怖の中でも動ける。

 俺は彼女に言う。

「息、合わせる」

 彼女は頷かない。

 頷かないまま、胸がわずかに上下した。上下が俺の呼吸と似ている。似ているだけで十分だ。同期は完璧じゃなくていい。ずれても修正できる程度に揃えばいい。

 俺は息を吐く。

 彼女も吐く。

 吐く息が揃うと、部屋の空気が一瞬だけ静かになる。

 静かになった瞬間、右目の奥で糸が見えた。

 糸は、俺と彼女の間を通っている。通っている糸は細い。細い糸が張っている。張っている糸が、俺の右目の裏を擦る。擦ると痛い。痛いのに、糸の位置が分かる。

 分かるなら、握れる。

 握るには接触が必要だ。

 俺は、彼女の右手に触れない。

 代わりに、手袋の上に自分の指先を置いた。

 置いた瞬間、熱が伝わる。熱は皮膚に刺さる。刺さる熱の中に、微かな震えがある。震えは彼女の内圧だ。

 彼女が息を止めた。

 止めると笑いが引っ込む。引っ込むのはいい。でも止め続けると破裂が近づく。

 俺は言う。

「吐け」

 命令じゃない。手順だ。

 彼女は吐いた。

 吐いた瞬間、刻印の脈動がわずかに弱まった。

 弱まったタイミングで、俺の右目が白く曇った。

 白の中に糸が見える。

 糸が俺の指先と彼女の刻印を繋ぐ。繋ぐ糸が一瞬だけ太くなる。太くなるのは、負荷がそこに集まったからだ。

 集まった負荷を、流す。

 流す先が縫い目だ。

 俺は頭の中で、糸を“掴む”感覚を作った。指で掴むんじゃない。右目で掴む。右目の縁の亀裂模様が、糸に絡む感じがする。絡むと、目の裏が痛い。痛いのに、糸が止まる。

 止まった糸の中で、彼女の脈動が落ち着く。

 落ち着きかけた瞬間、廊下の向こうで足音がした。

 足音が途中で欠ける。欠けた足音は、敵の足音だ。普通の人間の足音は最後まで鳴る。鳴らない足音は、糸を踏んでいる。

 会長が低く言った。

「来る」

 校医が素早く立ち上がる。

「中止だ。今は早い」

 俺は指先を離さない。

 離さないと決めたわけじゃない。離すと、彼女の内圧が跳ねる。跳ねた瞬間に笑いが出る。笑いが出れば解除が進む。解除が進めば校庭が欠ける。欠ければ誰かが落ちる。

 落としたくない。

 落とさないために、今は離せない。

 会長が、保健室の入口の影を見る。

 影が遅れて動いた。遅れて動いた影の端に、紙みたいなものが貼りついている。貼りついている紙は式札だ。式札は空気を縫う。

 敵が近い。

 会長が言う。

「準備だけでいい。今夜、停電が来る。停電の瞬間が勝負だ」

 停電の瞬間。

 その瞬間に、手順を完了させる。

 完了させるには、言葉を決める必要がある。言葉は合図になる。合図は同期の鍵になる。

 俺は彼女を見た。

 彼女は俺の指先を見ている。見ている目が、少しだけ柔らかい。柔らかいのに笑わない。笑わないまま、呼吸が整う。

 呼吸が整うと、刻印の熱が下がる。

 下がると、俺の右目の白濁が少し引く。

 引いた白の縁で、糸が鮮明に見えた。

 糸は二本に分かれる。

 一つは彼女の刻印へ。

 一つは俺の右目へ。

 二本の糸が同じ結び目に繋がっている。結び目が黒い箱へ伸びている。結び目が世界線の継ぎ目だ。

 結び目を、二人で握る。

 握るというより、張力を分け合う。

 俺は言った。

「合図の言葉は、これにする」

 会長が言う。

「何だ」

 俺は短く言った。

「いま、分ける」

 彼女の瞳が揺れた。

 揺れの中に、何かが落ちる。

 落ちるのは涙じゃない。肩の力だ。肩の力が落ちると、内圧が少しだけ下がる。

 校医が頷く。

「いい。短い。意味が手順に直結する」

 会長が一拍置いて言う。

「それで同期が取れる保証は」

「保証はない」

 俺は答えた。

「でも、二択よりはマシだ」

 会長の口元が動いた。

 笑いじゃない。苦い納得だ。

 廊下の足音が止まった。

 止まったのに、気配は消えない。気配は壁の向こうに貼りついている。貼りついている気配が、保健室の空気を重くする。重い空気の中で、彼女の手袋の布がまた擦れた。

 擦れる音が小さいのに大きい。

 大きい音の合間に、遠くの放送が鳴った。

 ノイズ。

 同じ文章を少し遅れて繰り返す声。

 声は今夜の予告だ。

 会長が言った。

「移動する。敵にここを押さえられたら終わりだ」

 校医が頷く。

「器は私が連れていく。鍵は……」

 校医の視線が俺の右目に落ちる。

 俺は目を逸らさない。

「俺も行く」

 会長が言う。

「右眼は使うな。今以上に白濁が進めば、今夜の同期ができない」

「分かってる」

 本当は分かってない。

 使わないで見えるほど世界は優しくない。見ないと選べない。選べないと守れない。守れないなら、また終わる。

 でも、今夜は別だ。

 今夜は“分担”で終わり方を変える。

 彼女が立ち上がった。

 立ち上がるとき、右手を胸の前で押さえる。押さえた手が熱い。熱いのに、彼女は顔を歪めない。歪めないのは、笑いを出さないためだ。

 笑いを出さない努力が、彼女の首筋の筋を浮かせる。

 浮いた筋が、細く震える。震えは疲労だ。疲労は限界だ。

 俺は彼女の左側に立った。

 右側に立つと、右手に触れてしまう。触れると脈動が弱まるかもしれない。でもそれは今は危ない。ここで弱まって、今夜の停電でまた跳ねたら、差が大きすぎて同期が崩れる。

 崩れる差を作らない。

 俺は左側。

 会長が先導する。

 校医が後ろにつく。

 廊下に出ると、空気がさらに冷たく感じた。

 冷たいのに冷たくない。冷たく感じるだけだ。感じるだけの冷たさは、糸が張っている証拠だ。

 歩くたびに影が遅れる。

 遅れる影が、床に貼りつく紙を引っ張る。紙が剥がれない。剥がれないのに、紙の端が震える。震える紙の端に、式札の文字が浮いている気がした。

 俺は右目を使わない。

 使わないで見えるものだけを見る。

 見るものは少ない。

 少ない情報で、今夜まで生きる。

 階段を下りる。

 下りる足音が途中で欠けた。

 欠けた音の空白に、焦げの匂いが滑り込む。

 匂いが濃くなる。

 濃くなると、世界が薄くなる。

 薄くなる世界の中で、彼女が小さく言った。

「……分けるって、どういうこと」

 質問なのに、声が震えていない。震えていないのは、笑いが出ていないからだ。

 俺は短く答える。

「俺とお前で、同じ糸を握る」

「握るって」

「止めるんじゃない。流す」

 流す。

 この言葉が彼女の中に落ちたのが分かった。

 落ちた言葉は、熱を少しだけ逃がす。逃げた熱が、手袋の湿り気を薄くする。薄くなる湿り気が、布の擦れる音を減らす。

 減る音の中で、彼女が息を吐いた。

 吐く息が、俺の息と少しだけ揃った。

 揃う。

 揃うことが、手順になる。

 会長が前を見たまま言った。

「停電の瞬間、敵は必ず動く。縫合装置の制御が一瞬乱れる。そこで同期を固定できれば、回収班の糸を逆に引ける」

 逆に引く。

 敵の糸を引き返す。

 引き返せれば、敵は転ぶ。転べば時間が稼げる。稼げた時間で、分担を成立させる。

 成立させれば、二択から逃げられる。

 逃げられるのは、今までの世界にはなかった。

 俺はその事実だけを握っていた。

 階段を下りきったところで、電灯が一瞬だけ揺れた。

 揺れは短い。

 短いのに、全員が止まった。

 揺れは停電の予告だ。

 予告が来た瞬間、校内放送が鳴った。

 同じ文章を0.2秒遅れで繰り返す声。

 声の内容が変わっていた。

「――回収を開始する」

「――回収を開始する」

 会長が、息を吐く。

「始まったな」

 その直後、校舎全体が一段暗くなった。

 照明が落ちる前の、沈む暗さ。

 暗さの中で、俺の右目が勝手に糸を見ようとした。

 見ようとした瞬間、白濁が広がる。

 広がる白の端で、糸が鋭く見えた。

 俺は目を閉じない。

 閉じると、白い終わり方の映像が来る。来た映像に飲まれたら、今夜の手順ができない。

 彼女が、俺の袖を掴んだ。

 掴んだ指が冷たい。冷たい指が、震えていない。震えていない冷たさは、決意の冷たさだ。

 彼女は笑わずに言った。

「……いま、分けるって言ったら、ちゃんと分けて」

 俺は頷かない。

 頷く代わりに、息を吐いた。

「やる」

 短い。

 短い言葉で、今夜を決める。

 廊下の奥から、誰かが歩いてくる気配がした。

 足音が途中で欠ける。欠ける足音。敵だ。

 次の瞬間、照明が落ちた。

 停電。

 真っ暗ではない。非常灯が赤く点く。赤い点が、廊下の端々に浮く。赤の下で、影がさらに遅れる。遅れる影が、壁から剥がれる。

 放送が止まった。

 止まった無音が、逆に耳を刺した。

 無音の中で、糸が緩むのが分かった。

 緩む瞬間が、今だ。

 俺は息を吐く。

 一回。

 彼女も吐く。

 ほぼ同時。

 俺は吸う。

 彼女も吸う。

 胸の上下が揃う。

 もう一回。

 吐く。

 吸う。

 二回目の吸い終わりで、俺は彼女の右手の手袋に触れた。

 触れた瞬間、熱が刺さる。刺さる熱が、俺の指先を焼く。焼ける感覚の奥で、糸が一本、太くなる。

 太くなった糸を、右目で掴む。

 掴むと痛い。痛いのに、白濁が一瞬だけ止まる。

 止まった白の中で、俺は言った。

「いま、分ける」

 彼女が、同じ言葉を返す。

「いま、分ける」

 言葉が揃った瞬間、糸が二本に分かれて張った。

 一つは彼女の刻印へ。

 一つは俺の右目へ。

 二本の糸が同じ結び目に絡んで、溢れを流し始める。

 流れ始めた瞬間、廊下の奥で敵の気配が止まった。

 止まった気配の中で、誰かが低く笑った。

 笑い声は乾いている。

 乾いた笑いの向こうで、式札の紙が擦れる音がした。

 そして、非常灯の赤い光の下で、紙が空中に浮いた。

 回収班の本隊。

 今夜の本番。

 俺の右目が焼ける。

 彼女の刻印が熱く光る。

 二人の間の糸が張り詰める。

 それでも、流す。

 分担して、流す。

 世界を終わらせないために。

 彼女を壊さないために。

 俺が全部壊れないために。

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三度滅んだ世界で、俺だけがバッドエンドを覚えている 妙原奇天/KITEN Myohara @okitashizuka_

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