第14話「放送の正体=“世界線の継ぎ目”を操る装置」
校内放送の声が、耳の中に残ったまま消えなかった。
街を歩いているのに、スピーカーが頭蓋の内側に貼りついたみたいに響く。音量は大きくない。大きくないからこそ、逃げられない。遠くの車の音が薄い。足元の砂利の音が短い。街全体の音が、少しだけ削られている。
削られたところに、ノイズが入る。
ジ。ジ。
規則的。
規則的なものは装置だ。自然は、もっと乱れる。乱れるはずの風の音が、今日は整っている。整っているのは気持ち悪い。
隣を歩く彼女は、右手の手袋を押さえていた。
押さえている指先が、ほんの少しだけ湿っている。布が肌に貼りつく感触がある。貼りつく感触は、内側の熱のせいだ。熱いわけじゃない。圧が湿り気を連れてくる。
彼女は笑わない。
笑わないまま、口の端が微かに震える。震えが笑いに変わる前に、彼女は噛み殺すように唇を引き結ぶ。
俺は言葉を探さない。
言葉は喉で縛られる。縛られるなら、動く。
俺は歩幅を少しだけ速めた。
回収班の影はまだいる。街灯の下で影が増える。増えた影が遅れて動く。遅れて動く影の端が、足首に触れる気がする。触れる気がした瞬間、右目がきしむ。
きしむ右目の奥で、糸が走った。
黒い糸。
視界の端から端へ、細い線が一瞬だけ通る。線は消える。消えるのに、残る。残るのは、終わった世界の残像だ。残像が俺の右目に残る。
彼女が、息を吐く。
吐いた息が白くないのに白い。白い気配だけが残る。気配の白は、静かな終わり方の色だ。
俺は彼女の右手を包む手を強めた。
手袋の上からでも分かる。脈動が跳ねる。跳ねたあと、ほんの一瞬だけ弱まる。弱まる瞬間があるなら、まだ間に合う。
「学校へ戻る」
俺が言うと、彼女は視線だけで答えた。
頷かない。頷くと決定になる。決定は装置に拾われる。拾われると、縫われる。縫われたら逃げられない。
それでも戻る。
放送室へ。
校内放送の声が「放送室」と言った。つまり、そこが喉だ。喉を塞げば声は止まる。止まれば、継ぎ目は落ち着くかもしれない。
学校に近づくほど、音が薄くなる。
薄くなる音の代わりに、匂いが濃くなる。焦げの匂い。誰も燃やしていないのに、どこかで紙が焦げている匂いがする。匂いが濃いほど、俺の記憶が近い。
校門をくぐった瞬間、ノイズが増えた。
校庭のスピーカーが鳴った。
鳴ったのに、音が遅れて届く。遅れて届いた音が、同じ文章を繰り返す。
「――こちら、放送室。鍵は揃った。器を回収する」
その直後。
「――こちら、放送室。鍵は揃った。器を回収する」
ほんの少しだけ遅い。
0.2秒。体感で分かる程度の差。差があると、言葉は一つなのに二つに聞こえる。二つに聞こえると、聞いた人間の身体が先に反応する。
校庭にいた生徒が立ち止まった。
「え、今、二回言った?」
誰かが笑いかけて、途中で止めた。笑いが止まった瞬間、空気が沈む。沈んだ空気が、紙くずを地面に貼りつける。貼りついた紙くずが、ふわりと剥がれて、また貼りつく。
繰り返す。
繰り返しは、縫い目の確認みたいだ。
彼女が、ほんの少しだけ体を揺らした。
手袋の下の脈動が強くなる。強くなると、手袋の縫い目が引っ張られる。引っ張られると、布が擦れる音がする。擦れる音が、校庭の騒音より大きく聞こえる。
俺は彼女を引いた。
走らない。走ると息が乱れる。息が乱れると、笑いが出る。笑いが出ると解除が進む。
早歩き。
早歩きで校舎へ入る。
廊下の蛍光灯が白い。白い光が妙に硬い。硬い白は、物が影を作る前に空気を切る。影が遅れる。遅れた影が壁に貼りつく。
放送は校舎の中でも続いていた。
スピーカーの位置が分からない。廊下にも教室にも同じ音がある。音がある場所が特定できないのは、空間が縫われているからだ。
そこへ、会長が現れた。
生徒会長。
この学園の中立の顔。
いつもは遠巻きに人を見ている目が、今日はまっすぐ俺を刺した。刺した目は、俺の右目を見ている。右目の奥の白を見ている。
「来たか」
会長の声は小さい。
小さいのに、放送より先に届く。届くのは、会長が「こちら側」だからだ。
彼女が会長を見た。
会長は彼女を見ない。見ないふりをして、彼女の右手の手袋だけを見る。見たあと、視線をすぐに外す。外す動きが、慣れている。
慣れているのは、器を見慣れているからだ。
放送が、また繰り返した。
「――鍵は揃った」
「――鍵は揃った」
会長が、顎で上を示した。
「放送室へ」
俺は頷かない。
代わりに、階段へ向かった。会長が先に立つ。俺と彼女は一段だけ後ろを歩く。
階段の手すりが冷たい。冷たい金属を握ると、指先が現実に戻る。戻った現実の中で、右目の白が少しだけ薄くなる。
薄くなると、糸が見えた。
階段の踊り場の角から、細い黒い糸が伸びている。糸は空中に浮いているようにも見えるし、光の影にも見える。見えるのは右目だけだ。左目では何もない。
糸は上へ向かっている。
放送室へ。
放送室の前の廊下は静かだった。
静かなはずなのに、足音が遠い。遠い足音の中に、ノイズが混じる。ノイズが混じると、耳の奥が痒くなる。痒みは焦げと一緒に来る。
扉の前で、会長が立ち止まった。
鍵穴を見る。
鍵穴の周りの金属が、刃物みたいに光る。光り方が不自然だ。影が遅れるから、光の輪郭が揺れる。
「……開ける」
会長はそう言って、鍵束を出さなかった。
鍵束がないのに、扉に手を置いた。
その手が触れた瞬間、カチ、と音が鳴った。鍵が回る音。鍵が回る音が妙に大きい。大きい音の後、校内放送が一瞬だけ止まる。
止まった無音が怖い。
無音の中で、彼女の手袋の下の脈動が跳ねた。跳ねた脈動が笑いを押し上げる。押し上げるものを押し戻すために、彼女は奥歯を噛む。噛んだ顎が震える。
扉が開いた。
放送室の空気は、冷たくないのに冷たい。
機材の熱があるはずなのに、熱が抜けている。抜けている熱の代わりに、金属の匂いが濃い。金属の匂いに焦げが混じる。焦げは、俺の記憶の匂いだ。
マイクの前に誰もいない。
いないのに、放送は続いていた。
スピーカーからの声が、机の上の機材から出ているようにも、壁から滲んでいるようにも聞こえる。どこから出ているのか分からない。
分からないのは、喉が複数あるからだ。
会長が、機材の奥を指した。
「見るな、左目で」
会長の言葉は短い。
短い言葉の中に、命令がある。命令は管理だ。
俺は右目で見る。
機材の奥。
配線が複雑に絡む場所のさらに奥に、黒い箱が置かれていた。箱は机の下じゃない。机の奥でもない。空間の奥に浮いているみたいに見える。視界の焦点が合わない。合わないのに、輪郭だけがはっきりしている。
黒い箱の表面に、円が刻まれていた。
円の中央に割れ目。
彼女の手袋の下の刻印と同じ形。
その円から、糸が伸びている。
糸は一本じゃない。何本もある。糸は天井へ、壁へ、床へ伸びる。放送室の四方へ走り、壁を抜けて外へ消える。消える先が学園全体だ。
学園全体が、糸で縫われている。
俺の右目がきしむ。
きしみが痛みになる前に、俺は息を吐いた。吐く息が焦げを薄くする。薄くなった焦げの中で、糸の動きが分かる。
糸は揺れている。
揺れ方が、放送の遅れと同じ周期だ。0.2秒の遅れ。遅れは、縫い目の確認。確認のたびに糸が一瞬だけ張る。張った糸が、空間を引っ張る。引っ張られた空間が音を遅らせる。
会長が言った。
「これが継ぎ目だ」
声は平坦。
平坦なのに、喉が乾く。乾く喉は、言葉を飲み込ませる。
俺は訊いた。
「放送は……装置か」
「放送は鍵だ」
会長はそれ以上言わない。
言わない代わりに、黒い箱を見た。
黒い箱の表面の円が、微かに光る。光りは派手じゃない。派手じゃないから、気づいたら世界が変わっている。
彼女が、黒い箱を見てしまった。
見た瞬間、彼女の呼吸が乱れた。乱れは小さい。小さいのに、放送室の空気が沈む。沈んだ空気が紙を貼りつける。机の上のメモがぺたりと貼りつく。
彼女は笑っていない。
笑っていないのに、内圧が上がっている。笑いを封じているからだ。封じるほど圧が増える。圧が増えるほど、糸が引っ張られる。糸が引っ張られるほど、継ぎ目が裂ける。
会長が、ようやく彼女を見る。
「継ぎ目を縫い止めるのが、この学園の役割だ」
言葉は少ない。
少ないのに、学園の正体を全部含んでいる。
「器が暴走すると、縫い目が裂ける」
裂ける、という単語で、俺の右目の奥に白が浮かぶ。白は静かな終わり方の色だ。
俺は訊いた。
「誰が操ってる」
会長は答えない。
答えない代わりに、黒い箱の手前にある古いミキサー卓を指先で叩いた。叩いた音が二回鳴る。二回目が0.2秒遅い。遅い音が、放送の遅れと一致する。
「操るというより、縫う」
会長の言葉が続く。
「縫い直すことで、裂け目をなかったことにする」
なかったことにする。
それは上書きだ。上書きは記憶も消す。消されるのは、世界だけじゃない。
俺のノートの読めない字。
第四の終わり方の欠落。
右目の痛み。
全部がここに繋がる。
放送がまた鳴った。
「――器を回収する」
「――器を回収する」
繰り返すたび、糸が張る。張るたび、空間がわずかに引きつれる。引きつれると、視界の端が揺れる。揺れると、机の角が少しだけずれる。ずれるのに、触れない。触れないのに、ある。
会長が言った。
「敵は、器を欲しがっている」
敵。
回収班。
あいつらの目的は、器を回収することだと言っていた。
会長は、黒い箱を見ながら続ける。
「器があれば、縫い目に触れられる」
俺は喉が乾いた。
乾いた喉で言葉を出すと、声が割れる。割れた声は放送に拾われる。拾われると縫われる。
だから短く言う。
「世界線を選ぶ」
会長は、ほんの少しだけ口元を動かした。
肯定とも否定とも取れない動き。
「縫い直す先を選ぶ」
選ぶ権力。
好きな世界線。
それが敵の欲しいものだ。
彼女が、手袋を強く押さえた。
押さえた手袋の下で刻印が脈動する。脈動が黒い箱の円に同期する。同期すると、放送の遅れが大きくなる。0.2秒が0.3秒になり、0.4秒になり、言葉が二重どころか三重に聞こえる。
廊下の向こうで、誰かが悲鳴を上げた。
放送の遅れに気づいた生徒が、頭を押さえて座り込む。音が二重に入ると、脳が耐えられない。耐えられないと、人は動けなくなる。
学園全体が、装置の範囲だ。
会長が言った。
「時間がない」
その言葉の直後、黒い箱の表面に文字が浮いた。
文字というより、傷だ。傷が光る。光る傷が線になり、線が図形になる。円の周りに、小さな符号が並ぶ。符号は式札に似ている。似ているのに、札はない。空中に書かれている。
俺の右目には、糸がその符号に絡みついて見える。
絡みついた糸が、引かれている。
誰かが引いている。
内通者。
回収班の本隊。
ここに手を入れている。
会長の声が低くなった。
「敵は外からじゃない。中にいる」
俺は頷かない。
頷く代わりに、黒い箱から目を離さなかった。目を離すと、糸の動きが見えなくなる。見えなくなると、次の選択ができない。
会長が、最悪の選択肢を口にした。
「器を殺せば、継ぎ目は保たれる」
言葉は淡々としている。
淡々としているから、余計に刺さる。
殺す。
保つ。
保つのは世界だ。
殺すのは彼女だ。
彼女の右手が震えた。
震えは怒りじゃない。拒絶だ。拒絶の震えは、笑いを押し上げる。笑いは解除。解除は崩壊。
俺の中で、何かが燃えた。
燃えるのに熱はない。燃えるのは選択だ。選択は俺の中でしか燃えない。燃えた選択が、右目の白を押し返す。
俺は会長を見る。
「それが管理のやり方か」
会長は答えない。
答えない代わりに、放送室の窓を見た。窓の外は校庭が見える。校庭の地面の一部が黒く欠けている。欠けは小さい。小さいのに、広がる予感がある。
会長が言う。
「守りたいものが違うだけだ」
守りたいもの。
俺は守りたいものを言葉にしない。
言葉にすると固定になる。固定すると、装置が拾う。拾われたくない。守りたいものは行動で示す。
俺は彼女の右手を包んだ。
手袋の上から。
包むと脈動が跳ねる。跳ねる脈動の中で、刻印が黒い箱の円と同期する。同期が一瞬だけ外れた。外れた瞬間、放送の遅れが小さくなる。
黒い箱が、わずかに沈黙した。
沈黙した瞬間を使って、俺は言う。
「殺さない」
短い。
短い言葉が、俺の選択になる。
会長が俺を見る。
目が細くなる。細くなる目は、試す目だ。
「なら、縫い目を保ったまま器を保て」
命令じゃない。
条件だ。
条件は、次の戦いのルールになる。
彼女が、息を吸った。
吸った息が震える。
震えは笑いに近い。
彼女は、笑わないようにしている。笑わないようにしているのに、涙が浮いた。涙は熱じゃない。熱はない。乾いた涙だ。乾いた涙が、目の縁に溜まる。
溜まった涙の前で、彼女の口角が上がった。
上がったのは笑いの形。
形だけ。
形だけの笑いでも、解除は進む。
右手の手袋の下で刻印が光った。光は布を透けて、薄い輪郭になる。輪郭が黒い箱の円と重なる。重なった瞬間、放送が一段大きくなった。
「――器を回収する」
「――器を回収する」
繰り返しが、今度は0.2秒じゃない。
もっと短い。もっと速い。速い繰り返しは、縫い目が裂ける直前の縫い直しだ。
俺の右目が焼けた。
焼けた右目の奥で、糸が一本だけ切れるのが見えた。
切れた糸の先が、校庭へ落ちる。
落ちた糸が、地面を黒く欠かせる。欠けが広がる。広がる欠けの縁で、音が途切れる。途切れた音の空白に、焦げの匂いが滑り込む。
彼女が、小さく言った。
「……私、笑わない方がいいのに」
言葉が途切れそうになる。
途切れそうな言葉の端に、笑いが混じる。
俺は言う。
「今は、見て」
見て、という言葉は指示じゃない。
共有だ。
共有すると、彼女は一瞬だけ笑いから離れる。離れた瞬間、刻印の光が弱まる。弱まった光の中で、俺の右目が糸の動きを追える。
会長が言った。
「放送を止めるには、箱を切り離すしかない」
切り離す。
糸を切る。
糸を切ると継ぎ目が裂ける。
裂けると世界が終わる。
終わらせないために縫っているのに、縫いを解かなければ止まらない。
矛盾。
矛盾がこの学園の形だ。
彼女の涙が、ついに落ちた。
落ちる涙は、床に触れる前に一瞬だけ止まった。止まった涙は、空中で揺れる。揺れる涙の中に、校内放送の声が映る。映った声が、彼女の口角をさらに上げる。
笑いが、出る。
出たら解除。
解除が進む。
俺は彼女の右手をさらに強く包んだ。
包んだ両手の中で、脈動が暴れる。暴れる脈動が俺の指を押し返す。押し返されても離さない。離さないという選択をする。
彼女が、涙のまま笑った。
笑いは小さい。
小さいのに、放送室の空気が割れた。割れた空気の裂け目から、冷たい白が覗く。覗いた白が、俺の右目の白と繋がる。
会長が、低く言った。
「解除が始まった」
黒い箱の円が強く光る。
光った円の周りの符号が回る。回る符号に糸が絡む。絡んだ糸が引かれる。引かれた糸が学園全体を締める。締められた空間が軋む。
軋みの中で、放送の声が変わった。
さっきの低く滑らかな声より、さらに無機質な声。
「――縫合開始」
声の直後、校庭の欠けが一段広がった。
広がる欠けの縁で、音が途切れた。
途切れた音の空白に、俺の喉が乾いた。
乾いた喉の奥で、次の選択が燃えた。
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