第13話「器の暴走条件(“笑い”の限界)」

 朝、教室に入った瞬間に分かった。

 空気が、昨日より薄い。

 薄いのに、重い。重さだけが残って、温度が抜けたみたいな感じだ。窓の外は晴れている。日の光は普通に白い。普通のはずの白が、机の上で少しだけ冷える。

 俺は席に着いた。

 椅子の脚の音が、いつもより短い。床を擦る音が、途中で欠けているわけじゃない。ただ、音の終わりが早い。音が早く終わると、空白が残る。空白が残ると、耳の奥が拾う。

 ジ、と小さなノイズ。

 校内放送じゃない。スピーカーは鳴っていない。鳴っていないのに、音の形だけが耳の中に来る。

 右目がきしむ。

 きしみは、今日の合図だ。

 俺は右目を擦らない。擦ると熱が増える。増えた熱が白に変わる。白は、静かな終わり方に繋がる。繋げたくない。

 前の席の友人が振り返って、口を動かした。

「なあ。昨日の放送、またノイズ入ってたよな」

 俺は頷くだけで返した。

 返事の言葉を出すと、喉が乾く。乾くと焦げの匂いが強くなる。強くなる匂いは、彼女に近い。

 彼女は、まだ来ていない。

 来ていないのに、教室の隅の空気が変わっている。変わった空気は、誰かが笑う直前の空気に似ている。似ているのに、笑いの温度がない。

 扉が開く音は普通だった。

 開いた瞬間、教室の喋り声が一段だけ落ちた。落ちたのに静まり返らない。誰も、完全には止まれない。止まれないのが学園の癖だ。癖の中で、彼女だけが例外として歩いてくる。

 足音は小さい。

 小さいのに、近づくほど床がわずかに震える。震えるのは、体重じゃない。彼女の中の圧が床へ漏れている。

 彼女は笑わなかった。

 俺の机の横で止まる。

 視線が俺の首筋に触れる。触れた瞬間、息が浅くなる。浅くなるのは、怖いからじゃない。喉が締まるからだ。締まる喉は、言葉を選ばせない。

 彼女は、右手の手袋を左手で押さえていた。

 押さえ方が、昨日より強い。

 手袋の上からでも分かる。中で何かが脈動している。小さな鼓動が、布越しに指へ伝わる。伝わるたびに、空気が一回だけ揺れる。

「おはよう」

 声はいつも通りだった。いつも通りに見せようとしている。

 いつも通りに見せようとすると、声の端が薄くなる。薄くなる声は、割れやすいガラスみたいだ。

 俺は返事を短くした。

「おはよう」

 彼女は頷く。

 頷いたあと、口角を上げない。上げないまま、視線だけを俺に固定する。固定されると、逃げ道がなくなる。逃げ道がなくなると、触れるか離れるかの二択になる。

 俺は席を立たなかった。

 立たないという選択は、触れないという意味じゃない。距離を詰めないだけだ。詰めないと、彼女が少しだけ息を吐ける。

 吐いた息が、冷たい。

 冬じゃないのに、冷たい息はそのまま机の上で消えない。消えない息は、湿った糸みたいに残る。

 糸。

 視界の端で、糸が一瞬だけ見えた。

 黒い線。

 床の影に沿って、細い線が伸びている。伸びた線は、すぐに消える。消えるのは、見てはいけないものだからか、俺の右目が拾った残像だからか。どちらでも、嫌なやつだ。

 授業が始まる。

 先生の声が黒板に当たって跳ね返る。その跳ね返りが、いつもより弱い。弱い反響は、教室の壁の内側が空洞になっているみたいだ。空洞は、内部の圧を受け止めない。

 彼女はノートを取っている。

 左手で。

 右手は机の下で手袋を押さえ続けている。押さえている指が微かに震える。震えるのは寒さじゃない。内側から来る圧が強いからだ。

 笑わない、と決めた人の体だ。

 笑わないために、全身が固まっている。

 俺の右目がきしむ。

 きしみの奥に、焦げが混じる。

 焦げの匂いは、教室の中にはない。誰も燃やしていない。燃えているのは、俺の中の世界の残滓だ。それが反応している。反応しているなら、今日の彼女は危ない。

 昼休み。

 彼女はいつもなら、周囲の空気を軽くする程度には笑っていた。誰かが何か言う。彼女が短く笑う。それだけで教室が少し明るくなる。明るさは危険でもあるけど、抑制でもあった。

 今日は、笑わない。

 誰かが冗談を言っても、彼女は口元を指で隠すだけだ。隠す指が手袋に触れる。触れるたび、布が擦れる音がする。

 その擦れる音が、妙に大きい。

 布の音が大きいのは、周囲の音が抜けているからだ。抜けているのに、みんなは気づかない。気づかないのが一番怖い。

 水筒の蓋を開ける音。

 紙が破れる音。

 椅子を引く音。

 それらの音が、ほんの少し遅れて聞こえる。

 影が遅れるみたいに。

 俺は机の上の消しゴムを落とした。

 落ちた消しゴムが床に当たる。普通ならコツと鳴る。鳴るはずの音が、途中で細くなる。細くなったまま消える。

 音が消える瞬間、右目が焼けた。

 焼けた熱が、瞳の奥で白に変わりそうになる。変わる前に、俺は瞬きを繰り返した。繰り返すと、現実の層が少しだけ戻る。

 彼女が俺を見ていた。

 笑わない目。

 笑わない目は、刃みたいに真っ直ぐだ。

「……見えてる?」

 彼女の声は小さい。

 俺は頷く。

 頷きが大きくなると、彼女の何かが動く気がした。動かしたくないから、首だけを少し動かす。

 彼女は右手を押さえる指を強めた。

 布の下で、脈動が速くなる。

 速くなる脈動は、逃げ場を探している。逃げ場がないから、内側で暴れる。

 笑いを封じると、解除は進まない。

 でも、抑制も止まる。

 抑制が止まると、器の内圧は増える。増えた内圧は、どこかから漏れる。漏れる場所がなければ、破裂する。

 破裂。

 その言葉を頭に置いた瞬間、焦げの匂いが濃くなった。

 午後の授業が終わり、放課後になる。

 彼女は俺の腕を引かなかった。

 引かない代わりに、同じ教室に残った。残るのは、逃げないという意思だ。逃げないと決めた人の背中は、硬い。

 教室の窓が開いている。

 風が入ってくる。

 入ってくるはずの風が、途中で止まる。止まった風が、窓の縁で渦を巻く。渦を巻く風は逆流する。逆流した空気が教室の奥へ戻る。

 戻る空気が、紙を机に貼りつけた。

 プリントの端が、ぺたりと張り付く。

 誰も糊を付けていないのに。

 貼りつく紙を見て、彼女が息を吸う。

 吸った息が、少しだけ震える。

 震える息のせいで、手袋の下の脈動が一段強くなる。強くなると、布の上からでも熱が伝わる。熱いわけじゃない。圧の熱だ。

 彼女がゆっくり言った。

「笑わないようにしてる」

 言い訳じゃない。

 宣言でもない。

 ただの報告だ。

 報告の声の端に、薄い焦げが混じっている。焦げは俺の喉を乾かす。乾くと声が出にくくなる。

 俺は短く返した。

「分かってる」

 彼女は頷く。

 頷きのあと、口元がほんの少しだけ動いた。笑いの形になりかけて、止まる。止まった瞬間、空気がひび割れるみたいに、ジ、とノイズが入った。

 校内放送のスピーカーが鳴っていないのに。

 俺の右目が焼ける。

 焼ける熱の中に、図形が浮かんだ。

 円。

 割れ目。

 弁。

 弁が閉じた状態。

 閉じた弁の前で、圧が溜まって膨らむ。

 膨らんだ圧が、細い糸のように漏れ出す。

 糸。

 糸は、影の中を走る。

 彼女の手袋の下で、その糸が暴れている。

「……保健室」

 俺が言った。

 理由は言わない。

 言うと固定になる。固定すると、彼女がそれを守ろうとして余計に固める。固めると、内圧が増える。

 彼女は一瞬だけ迷って、頷いた。

 廊下へ出る。

 廊下の蛍光灯が白い。白いのに、足元の影が遅れる。遅れる影が、足首に絡む糸みたいに見える。見えるだけで、右目が熱を持つ。

 保健室の扉を開けたとき、消毒液の匂いがした。

 普通の匂いだ。

 普通の匂いがあると、少しだけ現実に戻れる。戻れるはずなのに、彼女の右手だけが違う温度を持っている。

 校医が顔を上げた。

 校医はいつも通りの表情だ。いつも通りの表情を保てるのは、ここの日常が日常じゃないからだ。

「座って」

 校医が彼女に言う。

 彼女は椅子に座る。

 座る動作の途中で、手袋を押さえ直す。押さえ直した瞬間、布が擦れる。擦れる音が、耳の奥に刺さる。

 校医が俺を見る。

 視線が短い。

 短い視線の中に、分かっている側の匂いがある。匂いは言葉じゃない。言葉じゃないのに、背中の汗が増える。

 校医は彼女に手を差し出した。

「右手、見せて」

 彼女は首を振る。

 首を振る速度が早い。早い拒否は、限界に近いときの動きだ。

 校医は追わない。

 追わない代わりに、言葉を短くする。

「笑ってないね」

 彼女は答えない。

 答えない沈黙の中で、右手の手袋が微かに膨らむみたいに動いた。膨らむのは気のせいじゃない。布の縫い目が引っ張られる。引っ張られると音が鳴る。鳴りそうで鳴らない。

 鳴らない音が、逆に怖い。

 校医が言った。

「止めた?」

 彼女は、ほんの少しだけ頷いた。

 頷きと同時に、俺の右目がきしむ。きしみが熱に変わる。熱が白に変わりそうになる。白になる前に、俺は床のリノリウムを見た。床の模様は現実だ。現実の模様は、白を押し返す。

 校医が宣告する。

「笑いは抑制でもあり解除でもある」

 言葉は少ない。

 少ないのに、重い。

「完全に止めれば、内圧で破裂する」

 破裂。

 破裂という単語が、消毒液の匂いの中で浮く。浮いた単語が、焦げの匂いと混ざる。混ざった匂いが喉を乾かす。乾いた喉が、息を浅くする。

 彼女の肩が、微かに上下した。

 笑わないように、呼吸まで固めている。

 固めるほど、器が圧を貯める。

 圧を貯めるほど、世界が歪む。

 校医が続ける。

「解除が怖いのは分かる。でも止めるのも危険」

 彼女は視線を落とした。

 落とした視線が、右手の手袋に刺さる。刺さった視線が重い。重い視線の下で、脈動が強くなる。強くなる脈動が、布の上からでも見える。見えるというより、空気が揺れる。

 俺は言った。

「試す」

 言葉は短くする。

 短い言葉は選択になる。

 校医が俺を見る。

「……代替弁?」

 俺は頷いた。

 頷くと右目が熱を持つ。熱が増えるのは、そこが鍵だからだ。

 校医は止めなかった。

 止めないのも管理だ。

「一秒」

 校医が言った。

「一秒だけ。引き受けるのは溢れ。全部は無理」

 俺は言葉を飲み込んで、彼女の前に立った。

 彼女は顔を上げる。

 上げた顔は、笑っていない。笑っていないのに、口元が震えている。震えは抑制の限界だ。

「やめて」

 彼女が言った。

 短い拒否。

 拒否の声が掠れている。掠れは乾き。乾きは焦げ。焦げは終末。

 俺は答えない。

 答えると固定になる。固定すると、彼女が守りに入る。守りに入ると、圧が増える。

 俺は右手を差し出した。

 手袋の上から触れる。

 触れた瞬間、手袋の布が熱くないのに熱い。圧の熱だ。圧の熱が指先から骨へ入ってくる。

 彼女の指が、俺の手首を掴んだ。

 掴む力は弱い。

 弱いのに、離さない。

 離さないのは、止めたいからじゃなく、落ちたくないからだ。

 校医が言った。

「始めるよ」

 始める。

 手順。

 手順が固定されると危険だ。でも、今は固定しないと試せない。

 俺は右目を開いた。

 右目の視界が歪む。歪みの中で、彼女の右手の下に図形が見える。円と割れ目。刻印の影。刻印の影の周りに、糸が走っている。糸は細い。細い糸が絡まって、出口を塞いでいる。

 俺は息を吐く。

 吐いた息が焦げを薄くする。薄くなると右目の熱が少しだけ落ちる。

 その落ちた瞬間を使って、引き受ける。

 俺の右目が、ぎ、と軋んだ。

 視界が白く曇る。

 白い曇りの中に、音が消える。

 保健室の時計の秒針の音が消えた。消えたのに、秒針は動いている。動いているのに音がない。音がないのは物理のズレだ。

 ズレが、俺の中へ入ってくる。

 入ってくるのは、溢れだ。

 溢れが、喉を焦がす匂いになる。匂いが、肺を冷やす。冷えた肺が息を浅くする。浅い息のまま、目の奥に熱が溜まる。

 熱が、痛みになる。

 痛みが、白の中で線を描く。

 線は円になる。

 円が割れる。

 割れ目から、外へ糸が伸びる。

 糸が俺の右目の奥へ刺さる。

 刺さった瞬間、視界が一瞬だけ真っ白になった。

 真っ白の中で、静かな終わり方の断片が浮かぶ。

 彼女が泣く。

 泣く音がない。

 涙だけ落ちる。

 落ちた涙が床に触れる前に、床が白くなる。

 白い。

 冷たい白。

 冷たい白が、俺の目の裏側へ貼りつく。

 貼りついた白を剥がすみたいに、俺は瞬きをした。

 息を吐く。

 吐いた瞬間、校医が言った。

「一秒」

 終わり。

 俺は右目を閉じた。

 閉じたまま、膝が緩む。緩んだ膝を彼女の左手が支えた。支える手の温度が、普通の体温だ。普通の体温があると現実に戻れる。

 戻れるのに、右目の中に白が残る。

 白が残ると、視界の端が曇る。曇る端に、糸が見える。

 彼女の手袋の下の脈動が、ほんの少しだけ弱まっていた。

 弱まっている。

 成功。

 成功という言葉を口にしない。口にすると固定になる。固定すると次の手順が生まれてしまう。

 彼女が言った。

「……見えなくなる」

 声が小さい。

 俺の右目の曇りを見ている。

 俺は言った。

「少しだけ」

 少しだけで済まない可能性がある。可能性を言うと彼女が固める。固めると圧が増える。増えると破裂する。

 校医が彼女に言った。

「笑いは止めるな」

 短い。

「止めるなら、別の出口が必要」

 別の出口。

 別の出口は、俺の右目だ。

 校医が俺を見る。

「続ければ、君が壊れる」

 壊れるという単語が、消毒液の匂いの中で冷たく響く。

 彼女の指が、俺の手首を掴む力を強めた。

 強めた瞬間、手袋の下の脈動が反発する。反発する圧が空気を揺らす。揺らした空気が、棚のカーテンを微かに動かす。動いたカーテンの影が遅れる。

 遅れる影。

 また、遅れる。

 止まっていない。

 笑いを封じても、世界は歪む。

 歪みは内圧の漏れだ。漏れは細い。細いけど連続する。連続する小さな異常が日常を削る。

 校医が言った。

「今日は帰りなさい。二人とも」

 帰り。

 帰り道は危ない。

 危ないという言葉は使わない。俺はただ、校舎の外の空を思い出す。夕方の空はいつも通りの色だ。でも、いつも通りの色が信用できない。

 保健室を出る。

 廊下の空気が冷たい。冷たい空気が足元から上がってくる。上がってくる冷たさが、足首に絡む糸みたいに感じる。

 彼女は笑わない。

 笑わないまま歩く。

 歩くたびに、右手の手袋を押さえ直す。押さえ直す布の音が、廊下に響く。響きが大きい。大きいのは周囲の音が薄いからだ。

 階段を下りる。

 下りる途中、手すりの金属が一瞬だけ温かく感じた。温かい金属はおかしい。おかしいと思った瞬間に、温度が戻る。戻る温度のズレ。ズレは、管理の手が入っている証拠だ。

 校門を出る。

 夕方の街は普通に車が走っている。走っているのに、車の音が遠い。遠い音。遠い音は、空間が伸びている。

 伸びた空間の中で、視線が増えた。

 街灯の下の影が一つ多い。

 影が遅れて動く。

 遅れて動いた影の端が、俺の足元に触れた。触れた瞬間、右目がきしむ。きしみが熱に変わる。熱が白に変わる。

 俺は立ち止まらない。

 立ち止まると固定される。固定されると相手の手順が成立する。

 横目で見る。

 スーツの男が二人。制服に紛れた女が一人。目が合わない。合わないのに、方向だけが揃っている。揃っているのは、糸で繋がっているからだ。

 回収班。

 彼女の器が限界に近いと嗅ぎつけた。

 彼女は俺の隣で、歩幅を変えない。

 変えないのに、右手の手袋の下が一段熱くなる。熱くなる圧が、彼女の肩を揺らす。揺らした肩の動きは小さい。小さいのに、周囲の空気が重くなる。

 重くなると、街灯の光が少しだけ鈍る。

 鈍った光の中で、男の一人が口を動かした。

「器が限界だ」

 声は小さい。

 小さいのに、耳の奥に入ってくる。入ってくるのは、周囲の音が薄いからだ。

「今夜、回収する」

 言葉が、宣言みたいに冷たい。

 宣言の冷たさが、俺の喉を乾かす。乾いた喉で息を吸うと、焦げの匂いが濃くなる。濃い焦げの中で、彼女が微かに揺れた。

 笑いそうになる。

 笑いは解除。

 解除は崩壊。

 俺は彼女の右手を掴んだ。

 手袋の上から。

 掴んだ瞬間、脈動が跳ねた。跳ねた脈動が、俺の指先を押し返す。押し返されても離さない。離さない選択をする。

 彼女が俺を見る。

 目の奥に、何かが割れそうな光がある。割れそうな光は、笑いの直前の光だ。

 俺は言葉を探さない。

 言葉は喉で縛られる。

 代わりに、指先の温度だけを伝える。伝わるかどうかは分からない。分からなくても、触れるという行動は残る。

 彼女が言った。

「あなたが壊れるなら」

 短い。

 声が低い。

 低い声は決意だ。

「私が壊す」

 言葉が終わった瞬間、空気が一回だけ沈んだ。

 沈んだ空気が、足元の影を遅らせる。遅れた影が、まるで別の層から来たみたいにズレる。ズレた影の中で、糸が走る。糸が走った先に、図形が浮かぶ。円と割れ目。弁。

 弁が限界まで閉じられている。

 閉じられた弁の内側で、圧が膨らむ。

 膨らんだ圧が、笑いを求める。

 笑いを求める圧が、彼女の喉を締める。

 彼女の喉が震えた。

 笑いの形になりかける。

 俺は強く手袋を包んだ。

 包んだ両手の中で、脈動が一瞬だけ弱まる。弱まった隙に、俺は息を吐いた。吐いた息が焦げを薄くする。薄くなった焦げの中で、彼女の口元が止まる。

 止まった。

 止まったのに、世界の歪みは消えない。

 回収班の影が、さらに増える。増えた影が街灯の下で揃う。揃う影の下で、誰かが小さな金属片を指で鳴らした。

 カン。

 薄い音。

 薄い音のあと、街の音が一瞬だけ遠のいた。

 遠のいた音の隙間で、校内放送が鳴った。

 時間じゃないのに。

 校舎から離れているのに、スピーカーの声が耳の中に直接入ってくる。

 ジ、ジ、とノイズが規則的に走る。

 そのノイズの上に、声が重なった。

 普段の放送委員の声じゃない。

 低くて、滑らかで、冷たい声。

「――こちら、放送室」

 声が、はっきりと形を持つ。

「鍵は揃った。器を回収する」

 彼女の手袋の下で、刻印が脈打った。

 脈打ちが、笑いを押し上げる。

 俺の右目が白く曇った。

 曇った白の中で、焦げの匂いが濃くなった。

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