第12話「空棚の正体(消された“学園の役割”)」

 夜の校舎は、昼より軽い。

 空気が薄いという意味じゃない。重さがない。人の気配がないだけで、廊下の端まで見通せる。見通せるはずなのに、遠い場所ほど輪郭がにじむ。にじむ輪郭は、世界が継ぎ目を持っているときの癖だ。

 俺は息を吐いて、足音を抑えた。

 靴底が床のワックスを撫でる音。音は欠けない。欠けないなら現実だ。現実だと決めないと、右目が熱を持つ。

 資料室の前に来る。

 扉の表札は、文字が少し剥げている。剥げたところが白い。白は、終わり方の白を呼ぶ。呼ばれたくなくて、視線を逸らす。逸らした先のドアノブが金属の光を返した。返した光が冷たい。冷たい光は指先を冷やす。

 右手でノブを掴む。

 冷たい。

 冷たいのに、焦げの匂いが一瞬だけ濃くなる。匂いが濃くなると、喉が乾く。乾いた喉が息を浅くする。浅い息のまま、鍵穴を見た。

 鍵は会長から奪っていない。

 借りてもいない。

 俺のポケットの中にあるのは、小さな金属片だ。回収班の男が落としていった、校章に似た意匠の欠片。指で弾くと、薄い音が鳴る。鳴った音が不自然に伸びるときがある。伸びるときは、音の穴が周囲に開いている。

 俺は欠片を鍵穴の近くに寄せた。

 鍵穴の縁に触れさせない。触れさせない距離で、欠片をほんの少し傾ける。金属が反射する光が、鍵穴の中へ落ちる。

 ジ、と短いノイズが聞こえた。

 耳じゃない。頭の中だ。頭の中に響く音は、右目の裏側から来る。

 欠片が熱を持った気がした。

 俺は欠片を引く。

 次の瞬間、鍵穴の中で何かが噛み合う感触があった。噛み合う音はしない。無音の噛み合い。無音は怖い。怖いと言葉にすると固定になるから、俺は指先の感覚だけを追った。

 ドアノブが、軽く回った。

 鍵が開いた。

 開いてしまった、という感覚が遅れて来る。遅れて来る感覚は、影が遅れるときに似ている。似ていると右目が疼く。

 俺は目を閉じて、開ける。

 疼きは熱に変わりかけていたが、まだ燃えていない。

 扉を押す。

 資料室の匂いが、弱い。

 紙がない。インクがない。埃がない。あるのは、冷たい空気と、薄い焦げ。

 焦げの匂いは、何かが燃えた記憶の匂いだ。ここで何かが燃えたわけじゃない。燃えたのは、俺の中の世界だ。それがここにもある。あるから、ここが関係している。

 扉を背中で閉める。

 閉まる音が、途中で欠けない。欠けないなら、まだ崩壊は起きていない。崩壊が起きていないなら、読む時間はある。

 棚の列が暗い中で並んでいる。

 ラベルが貼られた棚。空の棚。空棚は、最初から無かったみたいに綺麗だ。剥がした跡がない。埃の境目もない。無かったみたいに、存在だけが空いている。

 俺は一つ目の空棚の前に立つ。

 息を吸うと、焦げが濃くなる。吐くと、少し薄くなる。薄くなると、右目の熱が落ちる。落ちた瞬間を狙って、右目を開いた。

 右目の視界が、少しだけ歪む。

 歪みは目のせいじゃない。世界の側の歪みだ。世界が上書きされるとき、古い層が薄い影になる。その影が、右目に引っかかる。

 空棚が、空じゃなくなる。

 棚の中に、影が並んでいる。

 本の背表紙の影。厚みの影。角の影。影だけが、整列している。

 整列しているのに、色がない。紙の色がない。文字の色がない。影の中に、影の文字があるような気がするのに、読めない。読めないのに、そこにあるという圧だけが伝わる。

 俺は息を止めた。

 止めると、耳が拾う音が増える。増えた音の中に、擦れる音が混じった。

 ページが擦れる音。

 誰もいないのに。

 風もないのに。

 擦れる音だけが、棚の中から聞こえる。

 俺は手を伸ばす。

 伸ばした指先が、空気に触れる。空気は冷たい。冷たい空気の中に、紙の感触がないはずなのに、指先が引っかかる。

 見えない本の背表紙に、指先が触れた。

 触れた瞬間、右目がきしんだ。

 きしみが熱に変わる前に、俺は指を滑らせて本を引き抜く動きをした。引き抜くはずなのに、手の中が空っぽのまま、重さだけが増える。

 見えない重さが、掌に乗った。

 その重さは、紙の束の重さだ。現実の重さだ。なのに、左目では何も見えない。右目だけが、影の輪郭を見ている。

 影の本を、机の上に置く。

 置いた音はしない。音がないのに、ページの擦れる音は続く。擦れる音が、俺の呼吸のタイミングに合わせて増える。増えるのは、俺の体が同期しているからだ。

 同期。

 嫌な言葉だ。同期すると、手順が固定される。固定されると、上書きが進む。上書きが進むと、右目が削れる。

 でも、今は読む。

 俺は影の本を開く動きをした。

 指先が、ページの端を捉えた感触がある。端のざらつき。紙の繊維。触覚だけが確かなのに、視界は影だ。

 ページをめくる。

 擦れる音が、少しだけ高くなる。

 右目の視界に、線が浮かんだ。

 文字じゃない。線だ。

 円。

 割れ目。

 矢印。

 円の外側に、もう一つ円。二重の輪。輪の一部が欠けている。欠けている部分から、細い線が外へ伸びている。糸みたいな線。糸は絡む。絡む糸は、回収班の拘束と同じ感触を思い出す。

 図形だけは理解できる。

 理解できるのに、意味を言葉にすると喉が締まる。締まるのは縛りだ。縛りは、保護という名の削りだ。削りが入る前に、図形のまま頭に置く。

 器。

 抑制弁。

 放出口。

 上書きの層。

 図形は、紙の上に線で描かれた機構図に見える。機構図は人間を道具にする。道具にする図は、感情を許さない。許さないから、冷たい。

 次のページをめくる。

 擦れる音が、規則的になる。

 規則的なノイズが、耳の奥に混じる。ジ、ジ、ジ。一定の間隔で入る。校内放送のノイズが規則的になったときと同じだ。規則的になると、継ぎ目が整列している。整列していると、崩壊が近い。

 俺は動きを止める。

 止めると、音も止まった。

 止まりすぎる無音が来る。無音は怖い。怖いと言いたくなくて、唇の裏側を噛んだ。噛むと、血の鉄の味がする。鉄の味は現実の味だ。現実の味があるなら、戻れる。

 俺はページを戻す。

 擦れる音が戻る。戻る音が、少しだけ低くなる。低くなると、規則性が崩れる。崩れるなら、まだ崩壊じゃない。

 もう一度、次のページ。

 今度は息を吐きながらめくる。

 吐く息が、焦げを薄くする。薄くなる焦げの中で、図形の線がよりはっきり浮かぶ。

 円の中心に点。

 点から放射状に伸びる線。線の先が、別の円に繋がる。繋がる円の外側に、さらに外側の円がある。外側の円の上に、四つの印。四つの印のうち、一つが欠けている。

 欠けている印。

 第四の終わり方。

 俺のノートで欠けていたもの。

 欠けているのに、ここには影として残っている。残っているなら、消されたのではなく、隠された。隠されたなら、誰かが管理している。

 学園。

 会長。

 校医。

 回収班。

 全てが一本の糸で繋がり始める。繋がる糸が喉に巻きつく。巻きつくと息が浅くなる。浅くなると右目が熱を持つ。

 俺は指先を机に押しつけた。

 木の硬さ。硬い現実。硬い現実が、右目の熱を抑える。

 影の本のページをもう一枚めくる。

 今度は、図形の横に小さな枠がある。枠の中に、さらに図形が並んでいる。円、割れ目、矢印。矢印が途中で途切れている箇所がある。途切れは、音が途切れるのと同じだ。途切れると穴が開く。穴が開くと終わる。

 枠の下に、太い線。

 太い線が、三つの小さな枠へ分岐している。

 三つの枠。

 器。

 鍵。

 管理。

 文字は読めないのに、図の構造だけで伝わる。

 この学園は、器を育てる。

 器に抑制を学習させる。

 抑制の代わりを準備する。

 鍵を配置する。

 管理する。

 その手順のための施設だ。

 施設。

 施設という言葉が浮かんだ瞬間、喉が締まった。締まるのは縛りだ。縛りは、言葉を固定させないための削りだ。削りが入る前に、俺は言葉を捨てて図形だけを追った。

 器の図形の横に、別の図がある。

 人のシルエット。

 右手だけが濃い影で塗られている。右手首のあたりに円と割れ目。刻印。刻印の外側に、笑っている口の形。口の形が、矢印で刻印へ繋がっている。繋がっている矢印の途中に、小さな弁の記号。弁の記号の横に、さらに別の矢印がある。

 右目。

 目の記号。

 目の記号から、刻印へ向かう矢印。

 矢印が二つある。

 笑いの矢印と、右目の矢印。

 代替弁。

 俺の右目が、彼女の器の放出口になるという理屈が、図形だけで形になる。形になると怖い。怖いと言いたくないから、指先の感覚に戻る。

 ページのざらつき。

 机の硬さ。

 空気の冷たさ。

 焦げの薄さ。

 そして、棚の奥から続く擦れる音。

 擦れる音が、少しだけ増えた。

 誰かが、同じページをめくったみたいに。

 俺は動きを止める。

 止めると、擦れる音も止まった。

 止まりすぎる無音が、今度は背中に貼りつく。貼りつく無音は、誰かの気配の形だ。気配は音ではない。空気の密度だ。密度が変わる。

 俺は右目を上げた。

 資料室の入口の方向。

 扉は閉まっている。閉まっているはずの扉の隙間に、影が一本落ちている。影が落ちているのに、音がしない。音がないのが、一番嫌だ。

 俺は影の本を閉じる。

 閉じる音はしない。擦れる音だけが短く鳴って、止まった。

 本を元の棚へ戻す動きをする。

 掌の中の重さが消える。消える重さ。消える重さは、上書きの癖だ。癖が出ると右目が熱を持つ。熱が来る前に、目を瞬かせる。瞬くと、世界の層が少しだけ整う。

「見てしまったか」

 声が、背後から来た。

 近い。

 近いのに、足音がなかった。足音がないのは、俺が音を拾えないほど世界が薄いからか、相手がそういう歩き方をするからか。どちらでも嫌だ。

 俺は振り返らない。

 振り返ると視線が固定される。固定されると、相手が何をしてくるかが確定する。確定すると、右目が熱を持つ。

「誰だ」

 俺は短く言った。

 声が掠れた。掠れは乾き。乾きは焦げ。焦げは終末。終末の匂いが一瞬だけ濃くなる。

「ここは生徒が来る場所じゃない」

 相手の声は落ち着いている。

 落ち着きは、管理側の声だ。管理側の声は人間の揺れが少ない。揺れが少ない声は、手順の声だ。

 俺はゆっくり立ち上がった。

 椅子の脚が床を擦る音が、途中で欠けない。欠けないなら、まだ穴は開いていない。穴が開いていないなら、逃げられる。

 俺は振り返る。

 棚の列の間に、男が立っていた。

 教師の服装に見える。だが、教師にしては目の焦点が鋭すぎる。鋭い焦点は対象を見ていない。仕組みを見ている。

 男の指先で、小さな金属片が鳴った。

 カン、と薄い音。

 音は伸びない。伸びないのに、耳の奥で小さなノイズが混じる。ノイズが混じるのは、金属片が同じ意匠だからだ。俺のポケットの中の欠片と、共鳴している。

 男の指に挟まれた金属片には、校章に似た模様。

 回収班の意匠。

 内通者。

 俺の背中が冷えた。冷えると汗が出る。汗が出ると指先が滑る。滑る指先は嫌だ。嫌だから、机の端に指を置いて、滑りを止める。

「その目で見たのか」

 男が言った。

 その目。

 右目。

 俺は答えない。

 答えると固定になる。固定になると上書きが進む。進むと痛む。痛むと漏れる。漏れると終わる。

 男が一歩進む。

 一歩進むのに、足音が薄い。薄い足音。薄い足音は影が遅れるときの足音だ。俺の右目がきしむ。きしみが熱に変わりそうで、俺は息を吐いた。

 吐く息が焦げを薄くする。

 薄くなった焦げの中で、男の輪郭が一瞬だけずれた。

 ずれた輪郭の奥に、糸みたいなものが見えた。

 糸。

 細い糸が、男の袖口から伸びている。袖口から伸びた糸が、床の影へ落ちている。落ちた糸が、影の中で絡まっている。影の中で絡まった糸が、俺の足元へ向かう。

 回収班の拘束。

 式札。

 男は、ここの空気ごと扱える。

「返す気はないか」

 男が言った。

 返す。

 影の本を返せと言っているのか、右目の残像を返せと言っているのか、あるいは俺自身を返せと言っているのか。どれでも同じだ。俺がここにいる理由が、配置された鍵だからなら、返すという言葉が成り立つ。

 俺は一歩下がった。

 床の冷たさが靴底から上がる。上がる冷たさが足首を締める。締める冷たさの中で、糸がくるぶしに触れる感触があった。

 見えない冷たいものが皮膚の上を滑る。

 叫ぶ声は出ない。

 喉が鳴らない。

 鳴らない喉のまま、俺は膝を曲げて床に手をついた。床に手をつくと、糸の張りが変わる。張りが変わると絡みが緩む。緩んだ瞬間に足を引く。

 糸が追ってくる。

 追ってくる糸の動きは、速い。速いのに音がない。音がない糸は、漫画で描くなら黒い線になるだろう。黒い線が足首に巻きつく絵が浮かぶ。その絵が浮かぶと右目が疼く。

 男が指を鳴らした。

 カン。

 薄い音。

 薄い音の後、糸が増えた。増えた糸が床から立ち上がる。立ち上がる糸が影を引きずる。影が遅れる。遅れる影が俺の足に触れる。

 俺は走れない。

 走れば音が出る。音が出れば確定する。確定すれば上書きが進む。進めば終末が近づく。

 俺が呼べるのは、彼女だ。

 呼べば来る。

 来れば救われる。

 だが、来れば笑いが出る可能性がある。笑いは解除。解除は崩壊。崩壊は、校庭の欠けじゃ済まない。ここは学園の中だ。管理施設の中で解除が起きれば、連鎖する。

 俺は口を開いた。

 声は出なかった。

 出ない。

 喉が締まる。

 締まるのは縛りだ。縛りは、俺が彼女を呼ぶ言葉を言えないようにしている。保護という名の縛り。縛りの意図は善意かもしれない。だが今は、首にかかる糸だ。

 男が言った。

「呼ぶな」

 男は俺が何をしようとしているか知っている。

 知っているのは、手順を知っているからだ。

 糸が、膝の裏に回った。

 冷たい感触が筋に沿って走る。走った感触で脚が一瞬だけ抜ける。抜ける脚。抜けると転ぶ。転ぶと終わる。終わると、彼女が笑う。笑うと崩壊する。

 俺は机の端を掴んで、体を支えた。

 掴んだ木の硬さが現実だ。現実があるなら、まだ選べる。

 男が、机の上の影の本に視線を落とした。

 視線が落ちた瞬間、ページが擦れる音が鳴った。

 俺は閉じている。閉じているのに鳴る。

 鳴るのは、本が勝手にめくれているからか、俺の右目が残像を漏らしているからか。漏れているなら危ない。危ないのに、図形が頭の中に焼きつく。

 器。

 弁。

 鍵。

 管理。

 四つの印。

 欠けた印。

 男の口が少しだけ動いた。

「第四は」

 言いかけた。

 言いかけた瞬間、俺の右目が焼けた。

 焼けた熱が、一気に視界を白く滲ませる。

 白い滲みの中で、静かな終わり方の断片が浮かぶ。

 彼女が泣く。

 泣く音がない。

 涙だけが落ちる。

 落ちた涙が床に触れる前に、床が白くなる。

 白くなるのに、熱がない。

 熱がない白は、逃げ場がない。

 俺は奥歯を噛んだ。

 噛むと鉄の味。鉄の味は現実。現実の味が、白を押し返す。

 男が舌打ちした。

「面倒だな」

 面倒。

 面倒と言えるのは、相手が俺を人間じゃなく機材扱いしているからだ。

 男が掌を広げる。

 掌の中央に、紙片が見えた。

 式札。

 白い紙。黒い文字。文字は読めないのに、形だけで分かる。形だけで分かるのが一番嫌だ。嫌なのに、糸が増える。

 糸が空中に走る。

 空中に走った糸が、棚の影に触れる。触れた瞬間、棚の影が一瞬だけ濃くなる。濃くなった影の中から、別の影が滲んで出る。

 影の本。

 影の本が、棚から浮き上がる。

 浮き上がるはずのない本が浮き上がる。浮き上がるものは、物理のズレだ。ズレは怖い。怖いと言いたくないから、俺は棚の列を見渡して逃げ道を探す。

 逃げ道は扉。

 だが、扉までの廊下に糸が走っている。走っている糸が床の影を縫っている。縫っている糸は、俺の足を縫いとめるつもりだ。

 俺は机の上の影の本を掴んだ。

 掴んだ瞬間、掌が空っぽなのに重い。重いのに見えない。見えない重さは、右目の負担になる。負担が増えると壊れる。壊れるのは嫌だ。でも、ここで残したら、学園の正体が消える。消えると、彼女が施設の器のまま終わる。

 俺は影の本を机の端に滑らせた。

 滑らせると、ページが擦れる音が増える。増えた音が、男の動きを一瞬だけ止めた。止めたのは、本が欲しいからだ。

 止まった隙に、俺は棚の影へ身体を投げた。

 棚と棚の間は狭い。

 狭い空間は、糸が絡みにくい。絡みにくいなら、逃げられる。

 俺は肩を擦りながら棚の間を抜けた。

 擦った服が、埃のないはずの空気の中でざらつく。ざらつくのは、影の埃だ。影の埃は残像の埃だ。残像の埃を吸い込むと右目が熱を持つ。持つ前に、口で息をする。

 口で息をすると喉が乾く。乾くと焦げが濃くなる。濃い焦げが、夜の校舎の匂いと混ざる。

 男が後ろで指を鳴らした。

 カン。

 糸が棚の間へ流れ込む。

 流れ込む糸が、蛇みたいに曲がる。曲がる糸の影が遅れる。遅れる影が俺の踵に触れた。触れた瞬間、冷たい痛みが走る。痛いと言いたくない。言うと固定になる。固定になると終わり方が増える。

 俺は棚の角で方向を変えた。

 変えた瞬間、右目の視界がぶれる。ぶれるのは、残像が漏れるからだ。漏れると、影の本が勝手に開く。開いたページの図形が、視界の端に刺さる。

 器。

 鍵。

 弁。

 管理。

 図形が刺さった瞬間、糸が一瞬だけ緩んだ気がした。

 緩んだのは錯覚かもしれない。錯覚でもいい。俺はその一瞬で棚の列を抜け、扉へ向かった。

 扉の前の床に、糸が走っている。

 走っている糸の上に、紙片が落ちていた。

 式札。

 式札の白が、暗い床で浮いている。浮いている白は、終わり方の白を呼ぶ。呼ばれたくないのに、右目が勝手に式札の文字を追う。

 文字は読めない。

 読めないのに、意味だけが伝わる気がする。

 回収。

 封鎖。

 隔離。

 言葉の輪郭が喉に刺さる。刺さると息が浅くなる。浅い息は焦げを濃くする。

 俺は式札を踏まないように跳んだ。

 跳ぶと音が出る。音が出ると確定する。確定したくないのに、靴底が床を叩く音が鳴った。

 音は欠けなかった。

 欠けないなら、まだ穴は開いていない。穴が開いていないなら、扉は開けられる。

 俺はドアノブに手を伸ばす。

 伸ばした手首に、糸が絡んだ。

 絡んだ糸が冷たい。冷たい糸が皮膚を滑る。滑った糸が、手首の骨に食い込む。食い込むと、手が止まる。止まると、男が距離を詰める。

 男の足音が、今度ははっきり聞こえた。

 はっきり聞こえる足音は、相手が俺の恐怖を楽しんでいる証拠だ。楽しんでいるという言葉は使いたくない。使うと感情が固定される。固定されると手が止まる。

 俺は逆の動きをした。

 糸に引かれる方向へ、身体を預ける。

 預けた瞬間、糸の張りが変わる。張りが変わると、結び目が緩む。緩んだところを左手で掴んで捻る。捻ると糸が手首から外れる。

 外れた。

 外れた瞬間、右目が焼けた。

 焼けたのは、上書きの摩擦。摩擦は代償だ。代償を払ってでも、今は抜ける。

 俺は扉を押し開けた。

 廊下の空気が流れ込む。

 流れ込んだ空気に、風の音が少しだけ混じる。混じる音があると、無音が薄れる。無音が薄れると、心臓の音が聞こえなくなる。聞こえなくなるのは助かる。

 廊下へ出た瞬間、背後で糸が走った。

 走った糸が扉の縁に絡む。絡んだ糸が扉を閉めようとする。閉められたら終わる。

 俺は扉の縁に手を突っ込んで、閉まるのを止めた。

 止めた手の甲が擦れる。擦れた痛み。痛いと言いたくない。言うと固定になる。固定になると右目が熱を持つ。

 熱が来る前に、廊下の先から足音が聞こえた。

 速い足音ではない。

 迷いがない足音。

 規則的な足音。

 会長の足音。

 会長が角から現れた。

 手に何も持っていない。持っていないのに、空気が変わる。変わった空気は重くなる。重くなると、糸の動きが一瞬だけ鈍る。鈍るのは、会長がこの学園のルールに触れられる側だからだ。

 会長は状況を見て、短く言った。

「離れろ」

 命令は短い。

 短い命令は迷いを削る。

 俺は扉の縁から手を引く。

 引いた瞬間、扉が閉まりかける。

 会長が、指を一本立てた。

 指を立てただけなのに、空気が割れる音がした。割れる音は大きくない。薄い音。薄い音の中に、ジ、と短いノイズ。

 扉の前の糸が、途中で切れた。

 切れた糸が床へ落ちる。落ちる糸の音はしない。音がないのに、糸の冷たさだけが残る。残る冷たさが手首に貼りつく。

 会長は扉に向かって言った。

「閉じろ」

 命令。

 命令が、扉ではなく仕組みに向けられている。

 扉が、ゆっくり閉まった。

 閉まる音は欠けない。欠けないなら、まだ崩壊じゃない。

 会長が俺の右目を見る。

 見られると、右目が疼く。疼きが熱に変わる前に、視線を逸らす。

「見たか」

 会長が言った。

「影の本」

 俺は短く答えた。

 短く答えると、喉の縛りが少しだけ緩む。緩んだのは、会長がその情報を許容しているからだ。許容しているなら、会長は管理側だ。

 会長が頷く。

 頷きが、肯定にも命令にも見える。

「それで十分だ」

 十分。

 十分という言葉が、次の段階があることを示す。示すのに説明しない。説明しないのは、固定させないためか、誘導するためか。

 俺の背後、扉の向こうから、男の声が微かに聞こえた。

「会長か」

 会長は返事をしない。

 返事をしない沈黙が、圧になる。圧がある沈黙は、相手を下げる。下げるのは支配だ。

 会長が俺の肩を掴んだ。

 掴む手は冷たい。冷たいのに迷いがない。迷いがない冷たさは、目的の冷たさだ。

「ここにいるな」

 会長が言う。

 命令。

 命令が続く。

 会長は俺を引っ張って歩かせた。走らせない。走ると音が出る。音が出ると固定される。固定されたくないから、会長は歩かせる。

 廊下を曲がる。

 曲がった先で、校内放送のスピーカーから、ジ、と短いノイズ。

 規則的ではない。

 まだ継ぎ目は整列していない。

 だが、整列する方向へ動いている。

 俺は喉の奥の焦げを飲み込んだ。

 飲み込んでも消えない。消えない焦げは、終末の残滓だ。残滓があるなら、俺はもう戻れない場所に足を入れている。

 会長が立ち止まる。

 窓の外の校庭は暗い。暗い中に、欠けた場所は見えない。見えないのに、そこにあると分かる。分かるのが嫌だ。

 会長が、窓の反射に映る俺の顔を見た。

「もう“第一の分岐”は越えた」

 会長の声は平らだ。

 平らなのに、言葉が重い。

 重い言葉は現実だ。

「ここからが本番だ」

 会長が言った。

 その瞬間、校内放送のノイズが、ジ、ジ、と二回だけ鳴った。

 規則的になりかけて、崩れる。

 崩れた音の隙間に、遠くで紙が擦れる音が混じった気がした。

 資料室の中の影の本が、まだめくれている。

 俺の右目の奥で、亀裂模様が熱を持っていた。

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