第11話「右眼の痛み=“上書きの痕”」

 資料室の空気は、紙の匂いがするはずだった。

 棚の奥に眠る古い冊子。埃。インク。そういうものがあるはずの部屋なのに、あの夜の資料室は匂いが薄かった。薄い匂いの中に、焦げだけが残る。焦げはいつでも俺の喉の奥に貼りつく。

 会長に引かれて部屋を出たとき、廊下の非常灯が一瞬だけ揺れた。

 揺れは目の錯覚ではない。光の縁がずれる。ずれた縁は影を遅らせる。影が遅れると、右目がきしむ。きしみが熱に変わる前に、俺は瞼を閉じた。

 閉じた暗闇の中で、白い終わり方がひっかかる。

 音のない涙。静かに満ちる白。逃げ場のない終末。

 目を開けると、会長は何も言わずに歩いていた。

 会長の背中は迷いがない。迷いがない背中は、道を知っている背中だ。道を知っているのに、俺に説明しない。説明しないのは、説明が固定を生むからか、あるいは説明しない方が誘導しやすいからか。

 医務室の前で、会長が足を止めた。

 扉のガラスに、校章のステッカーが貼られている。ステッカーの縁が少しだけ浮いていた。浮いた縁は、紙が机に貼りつくときの逆の形だ。逆の形でも、俺の頭は同じ感触を思い出す。思い出すと、右目が疼く。

 会長がノックをした。

 ノックの音が、必要以上に大きく響いた。響くのは、周囲の音が薄いからだ。薄い音の穴に、ジ、と短いノイズが混じる。規則的ではない。まだ整列していない。整列していないなら、まだ間に合う。

「入れ」

 中から声がした。

 養護教諭ではない。校医の声だ。医者の声は体温が低い。低い体温の声は、現実の痛みと相性がいい。

 会長が扉を開けた。

 医務室は明るかった。

 明るいのに、光が冷たい。蛍光灯の白は、燃えた空の白に似ている。似ている白を見ると、喉の焦げが濃くなる。匂いが濃くなるのに、部屋には焦げの元がない。ない匂いが濃いのが、一番嫌だ。

 ベッドが二つ。薬棚。消毒液の匂い。金属の器具。床のワックス。全部が正しい場所にある。その正しさが、俺の右目の疼きと反対方向にある。反対方向にあるのに、ここに来るしかない。

 校医が白衣の袖をまくっていた。

 机の上には小さなライトと、眼科の検査器具が並んでいる。見た瞬間に、喉が乾いた。乾いた喉は息を浅くする。浅い息は焦げを呼ぶ。焦げは終末を呼ぶ。

「座れ」

 校医が言った。

 命令は短い。短い命令は迷いを減らす。迷いが減ると動ける。動けるなら、今はそれでいい。

 俺は椅子に座った。

 背もたれが冷たかった。冷たい背もたれは現実の重さだ。重さがあるなら、まだ欠けていない。

 会長は俺の後ろに立った。

 立つ位置が、逃げ道を塞ぐ位置だった。塞ぐのは守りにもなるし、監視にもなる。どちらでも、会長の役割は曖昧だ。

 校医がライトを手に取った。

「右目」

 右目。

 その単語だけで、痛みが先に来る気がした。気がするだけで体が反応する。指先が冷える。喉が締まる。息が浅くなる。浅くなった息が、歯の裏に当たって冷たくなる。

 校医の指が俺の顎を軽く持ち上げた。

 指先の圧が、医者の圧だった。躊躇がない。躊躇がない圧は怖い。怖いのに、右目の疼きがそれ以上に嫌だ。

「動くな」

 校医が言った。

 ライトが点いた。

 白い光が右目に刺さる。刺さった瞬間、視界の端が白く膨らむ。膨らむ白が、あの終わり方の白に似ている。似ていると、胃が縮む。縮んだ胃が吐き気を引き上げる。吐き気が来ると喉が乾く。乾いた喉は焦げを濃くする。

 校医が覗き込む。

 覗き込む目が、俺ではなく俺の右目を見ている。人間じゃなく器具を見ている目だ。器具を見る目は冷たい。冷たい目は、余計な同情を入れない。入れない方が今は助かる。

「……縁だな」

 校医が小さく言った。

 会長が言葉を拾う。

「出てるか」

「出てる」

 短いやり取り。短いのに、背中が冷える。冷えるのは、答えが悪い方だからだ。

「何が」

 俺は言った。

 声が掠れた。掠れた声は乾きの証拠だ。乾きが焦げを呼ぶ。焦げが濃くなる。

 校医がライトを少しだけ動かした。

 光が動くと、右目の奥で何かが引っかかる。引っかかりは痛みではない。摩擦だ。磨り減る前の摩擦。摩擦は、上書きが起きる前の合図に似ている。

「瞳孔の縁に亀裂模様」

 校医が言った。

 亀裂。

 割れ目。図形。円と割れ目。彼女の刻印と同じ言葉が、ここにも出てくる。言葉が重なると、世界の仕組みが露骨になる。露骨になると、息が浅くなる。

「それが何だ」

 俺が言うと、会長が先に答えそうになって止まった。

 止まる。言いかけてやめる。言いかけてやめるのは、支配のやり方だ。言えば終わることを知っている側のやり方でもある。

 校医がライトを消した。

 消えた瞬間、視界が一度だけ暗くなる。暗くなると痛みが引く。引くのに、焦げは残る。残る匂いが、右目の奥の熱と繋がっている気がした。

 校医が机に戻り、椅子に座った。

「君の右目は、終わった世界の残像を保持している」

 校医は言い切った。

 言い切りは短い。短いのに重い。重い言葉は体に来る。

 右目が疼いた。

 疼きが熱に変わる前に、俺は息を吸った。吸うと喉がさらに乾く。乾くと焦げが濃くなる。濃い焦げの中で、校庭の穴の縁が浮かぶ。落ちた小石の音が途中で途切れた。途切れた音の先に無音があった。

「保持?」

 俺は言った。

「保存じゃない。抱え込む」

 校医の言葉が少しだけ違う。

 保存は倉庫だ。抱え込むは肉だ。肉は壊れる。壊れると言われる方が納得できる。納得できるのに、納得したくない。

「抱え込みが増えると、壊れる」

 校医が続けた。

 壊れる。

 その単語が、会長の背中からも伝わってくる。会長は一度も口を挟まない。挟まないのは、ここから先が俺にとって危険だからだ。危険なら、会長は本当に守ろうとしているのかもしれない。守る形をして、誘導もする。二つの役割が同時にある。

 校医は机の上の紙にペンで円を描いた。

 円の端に、細い線を何本も引く。亀裂模様。割れ目。

「痛みは、摩擦だ」

 校医が言う。

 摩擦。

 言葉が軽いのに、体は重くなる。摩擦は削れる。削れると粉が出る。粉は匂いを持つ。焦げの匂いは粉かもしれない。終末の残り滓。残り滓が喉の奥に残っている。

「記憶を削って、上書きする」

 校医の言葉が、俺の右目に触れるみたいに刺さる。

 上書き。

 資料室の空棚。消された歴史。ノートの読めない一行。全部が上書きの形だ。巻き戻しではない。残像の上に新しい層を貼る。貼ると、前の層は薄くなる。薄くなるのに、完全には消えない。だから匂いが残る。だから痛みが残る。

「思い出せないのは、思い出せないんじゃない」

 校医が言った。

「削られた」

 削られた。

 刃物で切られたみたいな単語。切られると血が出る。血は温かい。なのにこの話は冷たい。冷たい方が嫌だ。嫌なのに、現実の重さがある。

 会長がようやく口を開いた。

「保護だ」

 会長は言う。

 保護。善意の言葉。善意が刃物を持つ形。

 校医は頷いた。

「保護という名目だろうな」

 名目。

 名目と言った瞬間に、善意が薄くなる。薄くなる善意は、支配に近づく。

 俺の右目がきしんだ。

 きしみが熱に変わりそうで、俺は拳を握った。握った拳の中で汗が出る。汗が冷える。冷えが手のひらに刺さる。刺さる冷えは、校庭の穴の縁に似ている。

「誰が」

 俺は言おうとして止まった。

 喉が締まる。締まるのは縛りだ。縛りが強いほど、核心に近い。核心に近いほど、上書きが働く。働くと痛む。痛むと焼ける。焼けると白が来る。

 校医がペンを置いた。

「今は、その質問は意味がない」

 意味がない、と言われると腹の底が冷える。冷えるのに、声が荒くならない。荒くならないのは、荒くなった瞬間に終わりが来るのを体が知っているからだ。

 会長が机の端に手を置いた。

 手の置き方が整っている。整っているのは、手順を持っている手だ。手順を持っている人間は、何かの管理者に近い。

「君の右目が残像を保持しているなら」

 会長が言った。

「使い道がある」

 使い道。

 その言葉が、俺を道具にする言葉だ。道具にする言葉は冷たい。冷たい言葉は現実的だ。現実的だから、嫌でも筋が通る。

「使い道って何だ」

 俺は言った。

 喉が掠れる。掠れた声が、消毒液の匂いに混じる。混じると、焦げが少しだけ薄くなる。薄くなるなら、話が続けられる。

 会長は少しだけ間を置いた。

 言いかけてやめる時と同じ間。

 でも、今回はやめなかった。

「彼女の器から溢れるものを」

 会長が言った。

「君が引き受ければ、世界は終わらない」

 言葉が落ちた瞬間、医務室の空気が沈んだ。

 沈む空気は冷える。冷える空気は皮膚を刺す。刺す冷えが、あの白い終わり方の冷えに似ている。似ていると、右目が熱を持つ。

 引き受ける。

 引き受けるのは、代替弁だ。

 笑いの代わりの放出口。

 俺の右目が、その放出口になる。

 校医が短く言った。

「代替弁」

 代替弁。

 言葉が定義になる。定義は固定になる。固定は危ない。危ないのに、これがクライマックスの技術になる。技術は固定しておかないと使えない。固定が必要な固定と、増やしてはいけない固定がある。区別が難しい。

「ただし」

 会長が続けた。

「君が壊れる」

 壊れる。

 会長は淡々と言う。淡々と言うから、余計に現実になる。現実になった瞬間、胃が縮んだ。縮んだ胃が吐き気を引き上げる。吐き気が来ると喉が乾く。乾くと焦げが濃くなる。

 焦げ。

 終末の匂い。

 三回分の匂い。

 四回目は耐えられない。

 耐えられないという言葉を口にしたくない。口にすると固定になる。固定は嫌だ。嫌なのに、体がすでに答えを持っている。

 俺は椅子の肘掛けを握った。

 指が白くなる。白い指は、拒否より先に耐える形だ。耐える形は、すでに引き受ける準備の形でもある。

「やめろ」

 校医が言った。

「今、思考が熱い。右目に負担が行く」

 思考が熱い。

 熱い思考は、上書きの摩擦を増やす。摩擦が増えると痛む。痛むと残像が漏れる。漏れると終末が近づく。

 俺は息を吐いた。

 吐いた息が、今度は欠けなかった。欠けない息は現実の証拠だ。証拠があるなら、まだ選べる。

「壊れるって、どう壊れる」

 俺は聞いた。

 質問が具体的になると、会長は少しだけ目を細めた。細めた目は計測の目だ。計測して、言う量を決める。

「保持量が限界を超える」

 会長が言う。

「残像が現実と混ざる」

 混ざる。

 混ざるのは一番嫌だ。夢と現実が混ざる。終末と日常が混ざる。匂いがない場所に焦げが混ざる。音がある場所に無音が混ざる。混ざると、区別ができなくなる。区別ができなくなると、手順が崩れる。

 校医が付け足す。

「瞳孔の亀裂模様が増える。視界が欠ける。吐き気、発熱、痙攣。最終的には」

 校医は言いかけて止めた。

 止めるのは、ここから先が俺の中に固定されるからだ。固定は増やしたくない。増やしたくないのに、止められると余計に想像が膨らむ。膨らむ想像は危ない。

 会長が代わりに短く言った。

「戻れなくなる」

 戻れなくなる。

 その言葉が、白い終わり方と重なる。静かに白くなる。戻れなくなるのは、世界だけじゃなく俺自身だ。

 医務室の蛍光灯が、ジ、と短く鳴った。

 音は一度だけ。規則的ではない。

 規則的ではないノイズは、まだ整列していない継ぎ目の音だ。まだ整列していないなら、俺の選択が世界を左右する可能性がある。可能性があるのは怖い。怖いのに、逃げられない。

 俺は目を閉じた。

 三回の終末が浮かぶ。

 一回目の学園消失。廊下の床が抜けた。笑い声が途中で途切れた。体育館の天井が、紙みたいに剥がれた。

 二回目の都市焼失。夕焼けが燃えた。焦げの匂いが外から来た。熱が肌を刺した。影が遅れた。

 三回目。彼女が笑って終わった。笑いが解除になった。刻印が光った。白い裂け目が空に走った。音が全部薄くなった。薄いまま、終わった。

 四回目は欠けていた。

 消されていた。

 消されていた終わり方は、静かに白くなる終わり方だった。

 静かに白くなるのは、一番逃げられない。逃げられない終末は、耐えられない。

 俺は目を開けた。

 会長の目が俺を見ていた。校医の目は俺の右目を見ている。見ている方向が違う。違う方向が、役割の違いだ。会長は結果を見ている。校医は現象を見ている。

「拒否はできない顔だな」

 会長が言った。

 言い方が嫌だった。嫌なのに、否定できない。否定しようとすると喉が締まる。締まるのは縛りだ。縛りは、核心に触れた証拠だ。

「拒否じゃない」

 俺は言った。

 言った瞬間、右目が疼いた。疼きが熱に変わる前に、俺は拳を開いた。開くと手のひらが汗で冷たい。冷たい汗は現実の冷たさだ。現実の冷たさが、終末の冷たさと違う形でそこにある。

「四回目が」

 俺は言いかけて止まった。

 言葉が喉で潰れる。潰れるのは、削る摩擦が働いたからだ。上書きの摩擦。摩擦があるなら、俺はまだ保護されている。保護されているのに、会長は俺に引き受けろと言う。矛盾がある。矛盾があるのに、時間がない。

 会長は言った。

「君が引き受けるだけじゃ足りない」

 足りない。

 会長の言葉が、俺の中の何かを冷やした。冷えると視界がクリアになる。クリアになると、嫌な予感が形になる。

「交換が必要になる」

 会長が言った。

 交換。

 自己犠牲ではなく交換。

 その単語が、俺の背中に残る冷えと繋がる。交換なら、単純な犠牲ではない。犠牲ではないなら、第三案がある。第三案があるなら、まだ救いがある。救いという言葉を使いたくない。使うと甘くなる。甘い言葉は固定になる。固定は危ない。

 校医が会長を見た。

 会長は校医に視線を返さない。

 返さないのは、校医に言ってはいけないことがあるからだ。あるいは、校医も管理側ではないからだ。管理側でないなら、校医は善意かもしれない。善意は巻き込まれると危ない。会長はそれを避けているのかもしれない。

 そのとき、扉の向こうで小さな音がした。

 擦れる音。

 布が擦れる音。

 手袋の縫い目が擦れる音。

 俺の背中が固くなった。固くなると息が浅くなる。浅い息が喉を締める。締まった喉が焦げを濃くする。

 彼女がいる。

 いるのに、会長も校医も何も言わない。気づいていないのか、気づいていて黙っているのか。黙っているなら、わざと聞かせた可能性がある。聞かせたなら、それは誘導だ。誘導なら、彼女を動かすための誘導だ。

 俺は椅子から立ち上がりそうになって、止めた。

 立ち上がると扉に近づく。近づくと距離が変わる。距離が変わると手順が崩れる。手順が崩れると解除が進む。解除が進むと終わる。

 扉の向こうで、もう一度、布の擦れる音。

 押さえる音。

 右手首を押さえる癖。

 彼女は笑わない。笑わないのに、今の話を聞いたなら、笑いを選ぶかもしれない。笑いは解除だ。解除は終末だ。彼女はそれを選ぶかもしれない。

 会長が小さく言った。

「聞いてるな」

 誰に言ったのか分からない。俺にか、校医にか、あるいは扉の向こうにか。会長はそういう言い方をする。

 校医がため息を吐いた。

 吐いた息が消毒液の匂いを揺らす。揺れた匂いの中で焦げが一瞬だけ薄れる。薄れると、現実が少しだけ戻る。

「入るなら入れ」

 校医が言った。

 命令は短い。短い命令は扉を開ける。

 扉の向こうの沈黙が一拍だけ増えたあと、ドアノブが回った。

 回る音が妙に大きい。

 鍵の音と同じだ。鍵の音は、どこかで世界を開ける音に似ている。似ていると、右目がきしむ。きしみが熱になる前に、俺は視線を下げた。

 扉が開いた。

 彼女が立っていた。

 廊下の非常灯の緑が、彼女の顔の片側に影を落とす。影の縁はずれていない。ずれていない影は現実の証拠だ。証拠があるなら、まだ間に合う。

 彼女の右手は、いつもの黒い手袋。

 手袋の上から、右手首を押さえている。押さえる動きが癖になっている。癖は記号だ。記号は反復される。反復される記号は、読者の脳に刻まれる。刻まれるのは、物語のためじゃない。彼女自身の抑制のためだ。

 彼女は会長を見ず、校医も見ず、俺を見た。

 見られると、喉が乾く。乾くと息が浅くなる。浅い息が焦げを濃くする。濃い焦げの中で、彼女の瞳だけが澄んで見える。澄んだ瞳は、決めた瞳だ。

 彼女が言った。

「……あなたが壊れるなら」

 声が平らだった。

 平らなのに、喉の奥が乾いているのが分かる。乾いた声は崩れの手前だ。

 彼女は続けた。

「私が笑えばいい」

 笑えばいい。

 その言葉が、校庭の穴を開ける言葉だ。穴の縁を広げる言葉だ。小石の音を途切れさせる言葉だ。

 俺の右目が焼けた。

 焼けた痛みが一気に来て、視界の端が白く滲む。滲みの中に、白い終わり方が浮かぶ。音のない涙。静かに満ちる白。逃げ場のない終末。

 俺は息を吐いた。

 吐いた息が欠けそうになって、喉で止まる。止まった息のせいで胸が浅く上下する。浅い呼吸を抑えるために、俺は手を膝の上で握った。握ると指が白くなる。白い指は耐える形だ。

 会長が口を挟もうとして、止めた。

 止めたのは、ここで言葉を増やすと固定が増えるからだ。固定が増えると、終わり方が増える。終わり方は増やしたくない。

 校医が立ち上がり、彼女に向かって手のひらを見せた。

「笑うな」

 校医は命令した。

 命令の短さが助かる。短い命令は迷いを削る。迷いが削れると、解除が少し遅れる。

 彼女は校医を見なかった。

 俺だけを見ている。

 俺は言葉を探した。

 笑うな、は命令だ。命令は彼女の中の何かを折るかもしれない。笑え、は終末だ。終末は三回で足りた。足りたのに、四回目が静かに白くなる。耐えられない。

 言葉を探す代わりに、俺は立ち上がった。

 立ち上がると足音が鳴る。鳴る足音が欠けない。欠けないなら、まだ現実だ。

 俺は彼女に近づいた。

 距離を詰めるのは危険だ。危険なのに、距離は手順になる。手順は代替弁を作る。笑い以外の放出口を作る。

 俺は彼女の右手首に触れなかった。

 触れない代わりに、手袋の縫い目のすぐ上、彼女の腕の外側に指先を置いた。布の上ではなく皮膚に近い場所。近い場所の温度が、微かに伝わる。

 彼女の体がほんの少しだけ硬くなった。

 硬くなるのは拒否じゃない。驚きだ。驚きはまだ人間の反応だ。人間の反応があるなら、解除だけの現象ではない。

「壊れるのは」

 俺は言った。

 喉が掠れる。掠れた声は乾きの証拠。乾きは焦げを呼ぶ。焦げが濃くなるのに、俺は続けた。

「俺だけじゃない」

 言葉は短い。

 短い言葉は固定を増やさない。増やさないために、続きも短くする。

「笑ったら」

 俺は言った。

 言いかけた瞬間に右目が疼く。疼きが熱になる前に、俺は息を止めた。息を止めると胸が痛む。痛むのは現実の痛みだ。現実の痛みなら、まだ戻れる。

「終わる」

 俺は言い切った。

 終わる。

 彼女の瞳が、ほんの少し揺れた。

 揺れは笑いではない。揺れは迷いだ。迷いがあるなら、選択が残っている。

 校医が低い声で言った。

「君が笑うと楽になる。それは事実だ。だが、その楽は世界の代償だ」

 校医は余計な言葉を削る。

 削った言葉は刺さる。刺さる言葉は手順になる。

 彼女は唇を薄く噛んだ。

 噛むと口角が上がりかける。上がりかける口角は笑いに近い。笑いに近いと、右手首を押さえる力が強くなる。強くなると、手袋の縫い目がきしむ。きしみが布の擦れる音になる。

 俺は彼女の腕に置いた指の圧を一定にした。

 一定の圧は、包む手順の入口だ。校庭でやった手順。あれで穴が止まった。止まったなら、ここでも止まる可能性がある。

 会長が短く言った。

「君が壊れてもいいのか」

 会長の言葉は質問の形をしている。

 質問の形は選択を迫る形だ。迫る形は誘導だ。誘導が混じる質問は危ない。危ないのに、核心だ。

 俺は答えなかった。

 答えると固定になる。固定は増やしたくない。増やしたくないから、俺は彼女の腕に触れている指先を少しだけ滑らせ、手袋の上の右手首へ近づけた。

 近づけるだけで、右目がきしんだ。

 きしみが熱を呼ぶ。熱が来ると残像が漏れる。漏れると白が浮かぶ。浮かぶ白を押し返すように、俺は歯を食いしばった。

 彼女が小さく言った。

「あなたが壊れるなら」

 同じ言葉を繰り返す。

 反復は記号になる。記号は物語の合図になる。彼女は今、自分の合図を作ろうとしている。合図は笑いかもしれない。笑いは解除だ。

 俺は短く言った。

「交換がいる」

 交換。

 会長がさっき言った言葉。

 俺が言った瞬間、会長の視線が俺に刺さった。刺さった視線は鋭い。鋭い視線は管理者の視線だ。管理者の視線は、計画から外れる言葉を嫌う。

「今、それを言うのか」

 会長が言った。

 低い声。低い声は圧だ。圧は空気を沈める。沈めた空気が冷える。冷えた空気が、彼女の頬を青白く見せる。

 彼女は俺を見たまま、瞬きをした。

 瞬きが遅い。遅い瞬きは、言葉を飲み込んでいる証拠だ。飲み込んでいるなら、笑いへ逃げる前の段階だ。

 校医が会長を睨んだ。

「黙れ。今は体を見ろ」

 校医の命令が会長に刺さる。

 刺さったのに、会長は引かない。引かないのが会長だ。引かない会長が一歩だけ引いた。引いたのは、校医の言葉が正しいからだ。正しいから引く。引けるなら、会長にも人間の部分がある。

 校医が俺の右目を指差した。

「今の発熱」

 発熱。

 俺は自覚がなかった。なかったのに、右目の奥が熱い。熱いなら発熱だ。発熱は保持量が増えた証拠だ。証拠が増えるのは危ない。

「君はもう限界に近い」

 校医が言った。

 近い。

 近いのに、世界はまだ終わっていない。終わっていないのは、保護が効いているからか、手順がまだ通じるからか。通じるなら、第三案を作らなければならない。

 彼女が俺の指先を見た。

 俺の指先が、彼女の腕に置かれている。置かれているだけで、彼女の刻印の脈動が少しだけ弱まる可能性がある。八話で触れたときに弱まった。弱まったなら、ここでも弱まる。

 彼女が、俺の指先にそっと触れた。

 素手で。

 手袋ではない左手で。

 触れた瞬間、皮膚が薄く震えた。震えは電気ではない。温度だ。彼女の温度が俺に移る。移った温度が、焦げの匂いを一瞬だけ薄くする。

 右目の熱が、少しだけ落ちた気がした。

 気がしただけでも、息が通る。通った息が喉を冷やす。冷えた喉が、言葉を出せる形になる。

「笑うな」

 俺は言った。

 短い命令。

 命令は彼女を折るかもしれない。折るのは嫌だ。嫌だから、俺は続けて短く言う。

「笑う代わりを作る」

 代わり。

 代替弁。

 彼女の瞳が、また揺れた。

 揺れが、今度は少しだけ落ち着いた揺れに見える。落ち着きは、選択肢が見えたときに出る。

 会長が小さく言った。

「その代わりの鍵が、君の右目だ」

 鍵。

 九話で彼女が言った言葉。

 鍵は開ける。閉じる。どちらにも使える。会長は鍵を俺に握らせようとしている。握らせるのは誘導だ。誘導でも、今は必要だ。

 彼女が唇を開いた。

「あなたが壊れるなら、私は」

 言葉が途切れた。

 途切れたのは、声が出ないからではない。言葉が固定になるのを、彼女の体が避けたからだ。避けられるなら、まだ間に合う。

 校医が低い声で言った。

「君は器だ。器は自分で割れ方を選べない。だが、弁は選べる」

 弁。

 代替弁。

 選べる弁を、俺と彼女で作る。

 会長が一歩前に出た。

「資料室へ戻る」

 会長の声が決定になる。

「時間がない。学園の中に回収班がいる。内通者もいる。君たちがここで立ち止まると、次は小規模で済まない」

 説明が増えた。

 増えたのは、本当に時間がないからだ。時間がないとき、人は説明を増やす。増やす説明は固定を増やす。固定が増えるのは危ない。危ないのに、今は必要かもしれない。

 彼女が俺の腕を掴んだ。

 掴む指が冷たい。冷たい指は、体温が落ちている証拠だ。体温が落ちるのは、抑制がきついからだ。抑制がきついのは、笑いを我慢しているからだ。

 俺は掴まれた腕を動かさず、逆に彼女の手の甲に触れた。

 触れるだけ。

 圧を一定に。

 手順を一定に。

 一定が、継ぎ目を固定しないための工夫になる。

 彼女が小さく息を吐いた。

 吐いた息が欠けない。欠けない息は現実だ。現実なら、歩ける。

 会長が扉を開けた。

 廊下の空気が冷たい。

 冷たいのに、風の音が薄い。薄い音の穴に、ジ、と短いノイズ。規則的ではない。まだ整列していない。整列する前に動く。

 俺たちは廊下へ出た。

 会長が先頭。俺が真ん中。彼女が俺のすぐ後ろ。距離が近い。近い距離は危ないのに、今は手順になる。手順が彼女の脈動を抑える。

 階段を上がる足音が欠けない。

 欠けない音に安心しそうになる。安心は危ない。安心した瞬間に笑いが来る。笑いは解除だ。

 彼女の手袋が擦れる音が背中に聞こえる。

 擦れる音は、彼女が右手首を押さえている音だ。押さえる音は癖だ。癖は記号だ。記号は反復される。反復の中で、俺の右目が熱を持つ。熱が増える前に、俺は息を整えた。

 資料室の前に着く。

 ドアの隙間から、匂いが薄く漏れている。紙の匂いがない。匂いがない冷たさ。匂いがない空気。匂いがないのに、焦げだけが濃い。

 会長が鍵を取り出した。

 鍵が回る音が妙に大きい。

 大きい音の穴に、ノイズが混じる。混じったノイズが一瞬だけ規則的に聞こえて、すぐに崩れる。崩れるなら、まだ固定されていない。

「入るぞ」

 会長が言った。

 俺は彼女の方を振り返らずに言った。

「笑うな」

 二度目。

 反復。

 反復は記号になる。記号は合図になる。合図が笑いではなく、俺の言葉になるなら、手順が作れるかもしれない。

 彼女が小さく言った。

「……分かった」

 分かった、は短い。

 短い返事は固定を増やさない。

 会長がドアを開けた。

 資料室の空棚が、暗闇の中で白く浮いている。

 ラベルだけ残って、本がない棚。

 最初から無かったみたいな棚。

 消された歴史の形。

 俺の右目の亀裂模様と同じ形の喪失。

 会長が言った。

「ここから先は」

 言いかけて止めた。

 止める。言いかけてやめる。支配の癖。

「見て覚えろ」

 会長が言った。

 覚えろ、と言うのに、思い出すと痛む。

 矛盾。

 矛盾の中で、俺は選ぶ。

 彼女を終わらせない。

 世界を四度目に行かせない。

 そのための代替弁の手順を、ここで見つける。

 右目の奥が、微かに熱を持った。

 熱が痛みに変わる前に、俺は空棚へ一歩踏み出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る